第10話 七人を知らない
夜凪カイは、七つの閉じた門が浮かぶ中継空間で、一人きりだった。
黒い硝子に似た床の下を星が流れ、空気には温度も匂いもない。転送路で痛めた右肩は痺れ、舌には血の味が残る。星環学園へ戻る穴は消え、床に現れた「名称固定」「帰還座標固定」「人格索引」の意味も分からない。今の目的は、空間の歪みから何が来るのか見極め、帰還方法を尋ねることだった。
歪みは七つの門の前へ一つずつ生まれた。
カイは反射的に腰へ手をやり、模擬剣を失ったことを思い出す。床には拾える石もない。戦えないなら、敵意を示さず距離を取るしかない。両手を見える位置へ上げ、歪みから二十歩ほど後ろへ下がった。
最初の三人が姿を現す。
一人は長い刀を杖のように立てた隻眼の男だった。黒い布で左目を覆い、古びた外套から出た腕へ無数の傷が重なっている。足が床へ触れた瞬間、空間の重心が男の側へ移ったように感じた。
次は、雷とともに降りた金髪の大男だ。カイより頭二つは高く、腕は丸太のように太い。肩へ担いだ大剣から青白い火花が散る。
三人目は顔の半分を鏡で隠した細身の人物だった。露出した顔は性別を迷うほど整っているが、薄い笑みには親しみより観察の色があった。視線が重なると、カイは自分の弱さを全部見られた気がして目を逸らした。
名も役割も分からない。人なのかさえ確信できない。ただ、誰か一人へ近づくだけでも命に関わると、身体が警告していた。
残る四つの歪みから、さらに人影が現れる。
燃えるような赤髪の長身の女。腕を組む姿は目を奪うほど美しいが、呼吸のたび周囲の空気が熱で揺れ、カイは見とれた自分を恥じながら顔をかばった。
感情の薄い端正な顔をした白髪の青年。その足元には澄んだ水が広がっているのに、床は濡れない。青年がカイの呼吸へ目を向けると、胸の痛みまで測られているようで背筋が伸びた。
眠たげな紫の瞳をした小柄な少女が欠伸をする。年下に見えたので警戒を緩めかけたが、瞬きをしただけでカイの身体が天井へ落ちそうになった。両手を床へつくと、重さは何事もなかったように戻る。
最後は銀の全身鎧を着た老騎士だった。兜の奥に顔は見えない。鎧から鐘の余韻が響くたび、カイの心臓が一拍ずつ遅れた。
七人。
細部を一人ずつ見続ける余裕はなかった。雷、熱、水、重さ、鐘。七人の周囲で別々の現象が起こり、黒い床を伝ってぶつかり合う。それなのに互いを傷つけない。彼らは相手の力を知っていて、制御できる距離に立っているようだった。
カイは小さく一歩右へ動いた。
隻眼の男の視線だけが、顔ではなく足を追う。
左へ戻ると、また足を見る。逃げ道を測っていることを見抜かれた気がした。
次に両手を上げたまま声をかける。
「あ、あの……あなたたちは、誰ですか」
金髪の大男が鼻を鳴らす。赤髪の女は何も答えず、鏡の人物は笑みを深くした。誰も襲ってこないが、歓迎もしていない。
質問が広すぎたのかもしれない。カイは息を整え、今必要なことへ絞った。
「古い機械の事故で、ここへ送られました。星環学園へ帰りたいんです。出口を知っている人は、いますか」
銀の老騎士がわずかに兜を動かした。
「帰る、と申したか」
低い声だけで床下の星が震える。
「は、はい」
返事を受けた赤髪の女王は、値踏みするようにカイの細い体を見た。
「何の力も持たぬまま、同じ場所へ?」
カイは答えに詰まった。
戻りたい。けれど戻ったところで、またミナに手を引かれ、レイガに守られる。責められたわけではないのに、自分で自分を責める言葉が胸に湧く。
「それでも……まず戻らないと。待ってる人がいるから」
老騎士は返事をしない。沈黙が長引き、カイは間違えた気がして口を開く。
「す、すみません。偉そうに聞こえたなら」
隻眼の男が鞘で床を一度叩いた。乾いた音だけで、カイの謝罪が止まる。
「待つ者を理由にするなら、まず自分の足で立て」
叱責か助言か分からない。カイは右肩を押さえながら背筋を伸ばした。足は震えたままだが、謝って会話を終わらせる代わりに、次の言葉を待った。
七人のさらに上へ星明かりが集まる。
白銀の髪を持つ少女が、その中心からゆっくり降りてきた。
腰まで届く髪は歩くたび毛先へ小さな星を灯し、濃紺の衣装には銀糸で見知らぬ星座が縫われている。顔の上半分は星形の白い仮面で隠されていた。それでも通った鼻筋、淡い唇、透き通る肌は息をのむほど美しかった。
こんな時に何を見ているんだ、とカイは慌てて視線を下げた。学園の女子と話すだけでも言葉を探すのに、少女には美しさと近寄りがたさが同居している。心臓が速くなり、痛む右手をどこへ置けばいいのか分からない。
少女の足が床へ触れた。澄んだ音が響き、七人の周囲で起きていた現象が静まる。
「認証事故を確認。転送対象は一名。剣名は空欄。現世側の侵入者は転送されていない」
冷静な声だった。カイを見下すのではなく、誤りを一つずつ確認しているように聞こえる。
「あ、あなたは……?」
少女は怯えた問いにも表情を揺らさず、星空を背に名乗った。
「私はアステリア。七界転輪機の星導と、記憶の保管を担う者」
名前と役割を聞いて初めて、カイは少女をアステリアと認識した。
「あの機械を止められますか。俺を、星環学園へ戻せますか」
カイが望む答えを急かしても、アステリアは確認する順序を崩さなかった。
「選択肢を確認します。今すぐの帰還は選べません。現世側の教師が帰還座標を支えていますが、転輪機は認証完了まで帰還門を開きません」
レイガが約束を守ろうとしていると分かり、胸へ安堵が広がる。同時に、自分だけでは戻れない孤独もはっきりした。
カイは七人を見る。
「この人たちは、装置の認証に関係してるんですか。俺を捕まえるために来たんじゃ……」
金髪の大男が腹の底から笑った。雷鳴に似た声で床が震え、カイは肩をすくめる。
「捕まえる? その細腕で何を盗んだというんだ」
金髪の大男に腕を見られ、カイは反射的に両手を胸元へ引いた。
「何も盗んでません!」
思わず返すと、大男はさらに笑う。怖いのに、からかわれたのだと分かって少し腹が立った。
「黙って」
アステリアの一言で、大男は不満そうに口を閉じる。彼の名はまだ分からない。ほかの六人についても同じだった。
「彼らは、七つの門の先にある世界をそれぞれ治め、一つの剣理を極めた七人の王よ」
説明を受けて初めて、カイは目の前の七人を七王として理解した。
「王……? 七人全員が?」
カイが並ぶ顔を数え直すと、アステリアも七人へ視線を巡らせた。
「そう。七は七人です。……人数の再確認でしたか?」
一拍遅れて尋ねるアステリアに、カイは返事を迷った。彼女は冗談を言ったつもりなのか、真顔のままだった。
「転輪機は本来、認められた剣士を七つの世界へ送り、七王の試練を通して鍛える装置です。帰還門を開くには、あなたも七つの世界を巡り、帰還資格を認められなければなりません」
カイの胃が冷える。
「事故なんですよね。間違って来たなら、試練をしなくても」
カイは抜け道を探すように、閉じた七つの門を見回した。
「装置が参照するのは事情ではなく、条件と選択結果です」
事情が通じない相手を前にしても、カイは現世の希望を手放せなかった。
「先生が、外から開けることは?」
アステリアは現世へ伸びる細い光を見上げ、危険を正確に告げる。
「無理に開く選択は、あなたの座標を裂く可能性が高い。あの教師がしているのは、帰還座標を失わないよう接続を固定することです」
今必要な答えは揃った。すぐには帰れない。七つの世界を通る必要がある。レイガは現世で待っている。
「でも、俺は一番弱くて……剣名もありません。この人たちの試練なんて、できるわけが」
震える訴えにも、アステリアの青い瞳は事実から逸れなかった。
「できなければ、ここで死ぬ」
アステリアは事実を飾らなかった。
カイは閉じた門を見回す。逃げ道はない。
「ただし、選択肢は死ぬことだけではありません。七人はあなたを殺すためではなく、帰還資格を得るまで剣を教える師として来ました」
予想もしなかった役割を告げられ、カイは七人を順に見た。
「俺の……師?」
戸惑う呼び方に、アステリアは静かに首を振る。
「まだ師と呼ばなくていい」
アステリアが一歩近づく。カイはどぎまぎして半歩下がり、右肩の痛みで体勢を崩した。少女の手が肘を支え、落ちる動きだけを正確に止める。
「生き残って、一人ずつ名を聞きなさい。何を教わるかも、その時に知ればいい」
一度に七人の名や技を覚える必要はない。今の判断に必要なのは、最初の一人についていくかどうかだけだった。
隻眼の男がカイへ正面を向ける。
「俺は黒影王カゲトラ」
そこで初めて、カイは彼の名と立場を知った。
「小僧。貴様の足は立つためではない。逃げ道を探す足だ。最初は構えと足運びから直す」
カイは何も言い返せない。七人が現れてから、何度背後を見たか分からなかった。
「修行は、どれくらいかかりますか」
アステリアは時間の重さを和らげる言葉を足さず、そのまま答えた。
「七界の分離時間で、合計一億年」
聞き間違いだと思った。
「いち、おく……?」
十六年しか生きていない自分には、想像の端にも届かない。
「その時間を人の心のまま連続して抱えることはできない」
アステリアはカイの胸へ浮かぶ三つの文字を示す。
「だから各世界の始まりと終わりに答えてください。自分の名、帰る場所、守りたい仲間。どれかを失えば修行は中止します。帰るあなたが消えたなら、帰還という選択は成立しません」
三つの文字を守る理由が示されると、アステリアは記憶の扱いへ説明を進めた。
「記憶も三つに分けて守ります。剣を握れば動ける身体記憶。顔や教えを望んで思い出す索引記憶。無数の死と反復を、七界転輪機の保管領域へ預ける封蔵記憶」
知らない言葉が重なる中で、カイは最も恐ろしい点だけを確かめた。
「預けたら、忘れるんですか」
アステリアは不安を否定せず、預けることと失うことの違いを示す。
「捨てるのではありません。心を壊さず持ち帰れる形へ分けるのです。詳しい開閉条件は、修行を終えた時にあなたの状態を見て決めます」
カイは胸に浮かぶ三つの文字を順に見た。すべてを理解したわけではない。それでも今は、三つの答えを保つことと、記憶を失うのではなく守る仕組みがあると分かればよかった。
カイは目を閉じた。ミナの手。セレスとリゼットの声。ガロウの背中。必ず戻すと言ったレイガ。
怖い。今すぐ助けてほしい。その弱さは何も変わっていない。
けれど、何の力もないまま戻るのかと問われ、答えきれなかった気持ちも残っている。試練が帰るための唯一の道なら、誰かが代わりに決めてくれるのを待っても進めない。
「俺は、帰りたいです」
声は震えた。一度俯き、それでも最後まで言うために顔を上げる。
「戻って、今度は少しくらい皆を助けられるようになりたい。怖いですけど……やります。何をすればいいか、教えてください」
強者の決意ではない。必要な助けと責任を、自分から求めた選択だった。
カゲトラが刀を抜く。
七つの門の一つが開き、光のない荒野から凍るような風と獣の唸りが押し寄せた。
アステリアが問いかける。
「名は?」
最初の問いに、カイは胸の文字へ触れて答えた。
「夜凪カイ」
アステリアは返答が光へ刻まれたのを見届け、次を問う。
「帰る場所は?」
閉じた門の向こうに講堂を思い浮かべ、カイは迷わず口にした。
「星環学園」
最後の問いを前に、ミナたちの顔が鮮明に浮かぶ。
「守りたい仲間は?」
待ってくれる一人ずつを胸に置き、カイは声を震わせながらも答え切った。
「ミナ。クラスの皆。天城先生。俺を待ってくれる人たちです」
三つの答えが胸へ沈む。
カイは七王の役割と帰還条件を知り、一億年の修行へ進むことを自分で選んだ。
門をくぐると、足元へ一本の木剣が突き刺さる。
カゲトラは振り返らない。
「最初の一日は十万回だ。構えを崩した一回は数に入れん」
カイが木剣へ手を伸ばした瞬間、闇の奥で無数の赤い目が開いた。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:基底人族
個体ランク:G
レベル:Lv.10
HP:1/18(ランクG)
魔力:1/10(ランクG)
攻撃:4(ランクG)
防御:3(ランクG)
速度:5(ランクG)
技能:基本剣術(ランクG・Lv.1)
状態:入学候補・未登録。現世の基礎鍛錬段階で、七技法は未修得。




