再会
「思った以上に遅くなっちゃったなぁ…」
とっぷり日が暮れた暗い空を見上げながら、晶はバス停から屋敷へと向かう道を急いで歩いていた。
走り去る車のヘッドライトと国道沿いにポツポツと灯る街灯を頼りに歩いていると、時々ランニングをしている人や、犬の散歩をしている人に擦れ違う。車の交通量もそれなりにあるので、暗い道に少しトラウマが残る晶はどこかホッとしながらも帰り道を急いだ。
(それにしてもあのさくらって子は、香月さんとどんな関係なんだろう?)
先ほど見かけたポスターの少女は、夏に一度屋敷を訪ねてきた。確か香月への取り次ぎを要求された時、「さくらが来たと言えばわかる」とも言っていたが、下の名前でわかるなんて親しい間柄の証だろう。
あの時は香月の家族かとも思ったが、今考えると家族ならば香月の不在を知らないのはおかしい気がする。家族であれば香月本人と電話なりメッセージのやり取りで確認してから会いに来るだろうし、友人知人の場合だって同じではないだろうか。
そう考えると、彼女は香月に近しい人物などではなく赤の他人で、あの日、突撃というか不意打ちで香月に会いに来たということなのだろうか。
「もしかして、思い込みの激しい香月さんのファンとか…?」
まさか彼女は同担の推し仲間だったというのだろうか。推しが自分のことを認知していると勘違いしたファンが、屋敷まで押しかけた。なんてことだったら驚きだ。
「でも、あの子は有名人な訳だし、それはないかなぁ…だとすると、元カノとか?」
香月には『百鬼糸』という、世にも美しい婚約者がいる。晶は香月に紹介されてから、その少女と少しだけ親しくさせてもらっているのだが、彼女は以前婚約は形式的なものだと言っていた。だとするなら、婚約者がいても別の女性と付き合うこともあったかもしれない。
確かにあのさくらならば、香月の隣に立っていても見栄えはする。しかし、糸の美しさと気品を備えた完璧な姿と比べると、やはり糸に軍配が上がってしまうだろう。
「って、何勝手な妄想してるんだか…。とにかく帰ったら平謝りしなきゃ」
そう呟いた晶がさらに急ごうと足を踏み出した時、首の後ろからゾワリとした何かが這い上がってきた。
(……?)
背中に刺すようなヒリヒリとした空気を感じて、晶は足を止める。言いようのない妙な感覚に急いで辺りを見回すが、晶の歩く道の周りには特に異常は見当たらない。
(……気のせい…?)
そう思うことにして、晶はとりあえず帰り道を急いだ。しかし、晶が小走りで帰路を急いでいる間も、その妙な感覚はずっと消えない。途端に晶の全身からドッと汗が流れ出す。
思い出すのは、夏の夜の帰り道。晶はこの道で男性に後をつけられ、襲われそうになった。あの時は偶然宮代が助けに入ってくれて事なきを得たが、いつもそんな幸運に恵まれるとは限らない。
晶は走りながら何度も後ろを振り返るが、あの時のように人の姿らしきものは見当たらない。そのことに安堵するものの、妙な感覚は拭えず、背中がずっとゾワゾワしたままだ。
得体の知れない恐怖に、晶はふと、鞄の中に忍ばせたバレッタのことを思い出した。
(そうだ!お守り!!)
晶は急いで鞄の中に手を突っ込み、目当てのものを探す。手の感触だけでそれを探し当てて掴み出すと、ギュッと胸の前で握り込んだ。ベルベットのリボンでできたこのバレッタは、香月がお守りとしてくれたものだった。リボンの中央に配された大粒の真珠には、女神であるタマの加護が付いている。
タマとは先日ひょんなことから香月が助けた真珠に宿る女神のことで、いたく香月のことが気に入ったらしく、今は彼の元で香月を主として屋敷に居座っている。ほとんど休んでいることが多いようだが、たまに姿を現しては助言をくれたりする気まぐれな神様だ。こんな時に役立ってくれるかは分からないが、今の晶は藁をも掴みたい気持ちだった。
(香月さん!タマ様!どうか助けてください!!)
そう願った瞬間、掌の中に微かな熱を感じた。その熱が徐々に晶の身体を覆い始める。
「うわ…なんだ?これ!?」
やがて人肌ほどの熱が全身を包み込む。まるで誰かに抱かれたような感覚に、晶の恐怖で強張った身体が一瞬だけ緩んだ。するとパチンと膜が弾けたように熱が収まる。それと同時に、あの妙な感覚が消えた。
驚いた晶は思わず足を止め、辺りを見回す。一体何が起きたのか。ついでに自分の身体も確かめるが、特に変わった様子はない。晶は改めて握りしめていたバレッタを見つめた。
「…これが、このお守りの効果?」
先ほどまで感じていた得体の知れないゾワゾワした感覚はすっかり消えていた。しかし、ほんの僅かにだが、刺すようなヒリヒリとした空気はいまだに残っている。
まるで誰かの視線のように感じて、晶は再び辺りを見回す。やはり人の姿はない。嫌な記憶が蘇りそうになった晶は必死にそれを打ち消しながら、再び走り出した。
やっとのことで屋敷のある鬱蒼と草木が茂る丘の麓まで辿り着くと、晶は視線から逃れるためにそのまま一目散に石段を駆け上がる。
屋敷まで続く石段は長く、果てが見えない。暗闇の中薄らと浮かび上がる石段はまるで異界へと続いているようで、追い打ちをかけるように生い茂る木々が生温い風に不気味に揺れていた。
晶は脇目も振らず石段を駆け上り、やがて中腹あたりで体力の限界を感じて思わず足を止めた。
「はぁっ…はぁっ…ここまで来れば、大丈夫…かな?」
あの刺すような何者かの視線はもう感じなくなっていた。晶は荒く乱れた呼吸を整えながら、長く深い息を吐く。今自分がどのあたりにいるのかさっぱり見当がつかなくて、それを確かめるためにポケットから携帯端末を取り出しライトを点ける。
するとその瞬間、突如暗闇から出てきた何者かに腕を掴まれた。
「ぎ、ぎゃぁぁぁっ!!」
驚きと恐怖で縮みあがった晶は、咄嗟に自分の腕を掴んでいるモノに明かりを当てて、更に硬直する。それは、干からびたミイラのような手だった。晶は途端に腰を抜かしてその場にへたり込む。
「やっ…いやぁぁぁぁっ!!!」
必死に腕を解こうと、じたばたと闇雲に手足を動かす。すると、微かな声が聞こえた。
「……シイ…ホシイゾ…カシ…ヲ…」
「……えっ!?」
そのしわがれた男性のような聞き覚えのある声に、晶は途端に動きを止める。恐る恐る顔を上げてミイラの本体にライトを当てた晶は、目を瞠った。
落ち窪んで深淵の闇を映すような眼孔に、剝き出しの歯列。まるで枯れ枝のように干乾びて水分の抜けきった顔と身体は完全にホラーだが、晶はこの者の正体に気付いて全身の力を抜いた。
「……何だ、小山さんじゃない…姿が変わっててびっくりした」
「オクレ…カシヲ、オクレ…」
このミイラの正体は、この辺りに住みついている神出鬼没な物の怪の類で、晶は「小山さん」と名付けている。と言うのも、初めて出会ったときには本当に土と枯れ葉の塊だったのだ。この物の怪はお菓子が好きなようで、晶は出会うたびにせがまれている。なので晶はいつも鞄の中にちょっとしたお菓子を常備するようになった。
「はいはい、ちょっと待ってね……はい、どうぞ」
晶は通学鞄をゴソゴソと漁り、チョコレート菓子を取り出すと立ち上がってそれを一粒小山に渡す。
すると、受け取った小山は嬉しそうに踊りながらその場でくるりと一回転した。以前よりも動きがスムーズになったように思える。しかも、前よりも大分人間らしく変化しているのは何故だろう。前回見たときは泥人形だったので、今の姿はかなりの進化に見えた。
(もしかして、人間に化けようといている…とか?)
この物の怪の正体も分かっていないのに、こんな風に餌付けしていて良いのだろうか。そう思うが、香月がいるこの屋敷周辺に悪いものはいないような気がしているので、晶はあまり深く考えないようにした。
そんなことを思っていると、目の端に小さな祠が見えた。暗くて気付かなかったが、晶はここを通るたびにこの祠にちょっとしたものをお供えしているのだ。
晶はもう一つチョコレート菓子を取り出して祠の前に置き、簡易的に二拍一礼をする。晶が思うに、ここに祀られている神様は、この辺り一帯を守る守護神なのではないだろうか。
「小山さん、また神様の分まで食べちゃダメだからね?」
そう言いながら振り向くと、小山は先ほどのミイラの姿からほんの少しだけ顔色が良くなっていた。心なしかつやつやして嬉しそうな様子に、晶の頬も緩む。しかし、ミイラはミイラだ。冷静になってみると、暗闇の中、鬱蒼とした林の中でミイラと出会うなんてなかなか怖い。
そんな小山は喜びの舞を踊っているのか、小さく身体を揺さぶりながらステップを踏んでいる。よっぽど嬉しかったのかと思っていると、小山は踊りながら指である方向を示した。石段とは別の鬱蒼と茂る木々の方を示す小山は、晶を促すように顎をしゃくる。
「え?…そっちに行けってこと?」
そう尋ねる晶に、小山は身体を揺らしながら頷く。晶は不思議に思いながらも、示された茂みの方に足を向けた。すると、下草に隠れて見えなかった獣道の存在が顕わになる。
「ここを行けってことね…分かった。じゃあ小山さん、またね!」
「オウ…オウ…」
踊りながら手を振る小山に手を振り返し、晶はそのまま下草を踏み分け、指示された通り暗闇を探りながら獣道を進んで行った。
進み始めてから間もなく、突如として目前に大きな岩が現れた。岩には大きな裂け目が通っていて、人がやっと通れるほどの隙間がある。この岩には見覚えがあった。
「これって…前にレンちゃんを連れて帰った時に通った近道?」
レンというのは、以前暮らしていたアパートを縄張りとする野良猫の大将から預かった子猫のことで、晶が屋敷に連れ帰ったものの、いつの間にかどこにもいなくなってしまったのだ。まだ子猫だったので、晶は心配で屋敷の敷地内を何度も探したのだが、ついに見つけられなかった。
今頃どこかでお腹を空かせて鳴いていないだろうか。そんなことを考えながら、岩の隙間を通るために身体を滑り込ませる。確か、ここを抜けるとやがて真っ暗な空間に出るのだ。そこを通り抜けると屋敷の庭へと通じる階段が現れるはずだと思い出す。
晶が岩の隙間を進んでいると、遠くの方で何かの音が聞こえた。反響して聞こえてくるその音は、どうやら何かの鳴き声のようで、晶はハッと耳を欹てる。
「この鳴き声って…もしかして、レンちゃん!?」
猫の鳴き声だと気付いた途端、晶は岩の隙間を急いで通り抜け、真っ暗な空間に出るとそのまま泣き声の方に向かって駆け出した。
「レンちゃん!どこ!?」
広い空間に鳴き声が反響して、位置が特定できない。晶が気配を探ると、足首のあたりに何かが触れた。
「ミ~!!」
「レンちゃん!」
その姿を確かめようと足元に手を伸ばすが、途端にその気配はスッと消えてしまった。すると今度は少しだけ先の方で「ミ~」という泣き声が聞こえる。
「あれ?レンちゃんどこ行くの?」
晶はまた声のする方に向かうが、すぐ近くまで辿り着いたと思ったらまた声が遠ざかる。そんなことを繰り返していると、やがて視線の先に暗闇の中でぼんやりと白く光っている場所が目についた。
その光の中で、小さな影の塊のように黒猫がちょこんと座って晶のことをじっと見ている。どうやらそこは例の屋敷の庭に通じる階段がある場所で、外から降り注ぐ月明かりがその空間を白く照らし出していたようだ。
「レンちゃん!やっと見つけた…。こんなところにいたんだね。今まで無事だった?」
近づこうとすれば、レンはそのまま階段を駆け上がっていってしまった。晶は慌ててその後を追いかける。階段に差し掛かると、もうすでにレンの姿は見えない。また見失ってしまうと焦った晶は、全速力で階段を駆け上がる。
やがて地上に出た晶は、鬱蒼と茂る生垣の囲いを這い出て周りを見渡す。相変わらず美しい屋敷の庭園は、夜の闇に沈んでいても尚、僅かな月明かりに照らされてとても綺麗だった。
その光景に見惚れながらも、レンを探すために足を踏み出した晶は視線の先に人影を見つけて思わず足を止める。
(あれ?あそこにいるのは…)
暗いせいでハッキリとは見えなかったが、その姿は香月のものだった。
月明かりに照らされた庭園の池の畔に佇んでいる彼の姿に、晶は息を飲む。儚い光を纏って佇むその姿はまるで月の精霊のようで、この世のものではない美しさに目が釘付けになった。
どこか遠くを見るようにぼんやりと佇んでいた彼は、やがて夜陰に紛れるようにそこから立ち去ってしまった。
(び、びっくりした…香月さん、こんな暗い中で庭園を散歩しているなんて意外だな…)
そう思いながらも、晶は先ほどの彼の儚げな様子に、ゾクリとした何かが背中を這う。その姿はまるで―――
「幽霊でも見えた?」
「うわぁぁぁっ!!!」
突然足元で幼い子供の声が聞こえて、晶は文字通り飛び上がった。心臓が止まるかと思い胸に手を当てたまま足元を見ると、そこにはブルーグレーの瞳を持つ黒猫がちょこんと座っている。
「レン…ちゃん?い、今誰かの声が…」
声の主を探してきょろきょろと辺りを見回すが、人らしきものは見当たらない。
「ボクだよ。ごめんね、驚かせて」
「…へっ……?」
足元から聞こえる幼い声に、晶は意味が分からなすぎて、目を見開いたままポカンとレンを見つめる。
「ボクがしゃべるの、そんなに驚いた?この屋敷に住める晶ちゃんなら大丈夫かと思ったんだけど…」
そう言って可愛く首をコトリと傾ける子猫に、晶は驚愕の眼差しを向ける。今、子猫が人間の言葉をしゃべった、だと?
「な……ななななななななんで!?どうなってるの!!?」
ガバリと顔を近づけた晶は、レンのことを凝視する。良くできた猫型ロボットではないのかと思って恐る恐る抱きあげてみるが、ちゃんと生き物特有の柔らかさと猫の液体感があった。
「……レンちゃん…本当に、猫?」
「そうだよ。ゴメンね.、驚かせて。晶ちゃんにどうしてもお礼がしたくて」
「お、お礼…?」
「そう、ここに連れてきてもらったお礼がしたかったんだ。連れてきてくれてありがとう。おかげでこうやって晶ちゃんと話すことができた。あと、勝手に姿を消してゴメンね」
「…そんなの、お礼を言われる程の事じゃないけど…でも、ちょっと待って…衝撃過ぎて頭がついていかない…」
晶は思わず額に手のひらを当てる。もしやこれは夢なのかと自分の頬を強めに抓むが、ちゃんと痛みを感じる。この屋敷では色々と不思議なことが起こるが、レンがしゃべったことが今までで一番の衝撃だった。
「と、とりあえず、ありのままを受け入れよう…それで、レンちゃんはこのお屋敷に来たかったのね?どうしてここに?」
レンを連れてきたのは、大将に預けられて困っていたところに、謎の老婆の助言があったからだ。その老婆は突然現れて、レンがこの屋敷に行きたがってるから連れて行けと晶に言った。そのこともあってレンをここに連れ帰ったのだが、どうやら老婆の言うことは正しかったらしい。
訊かれたレンは晶に抱き上げられたまま耳をしゅんと下げる。
「理由はまだ言えない。けど、ここに連れてきてくれたことは本当に感謝してるんだ。ボク一人じゃきっとこの林を抜けられなかった。…ここは大抵のモノを拒むからね」
「拒む…?ここって、香月さんのお屋敷の敷地が?」
「そう。ある種の結界みたいなものかな。だから、招かれないと入れないんだ」
初めて聞く話に晶は目を丸くする。でも言われてみれば、この屋敷を覆う空気が他とは違う気はしていた。香月にも気にしないほうがいいと言われていたが、それはこのことだったのか。
「そうだったんだ…じゃあ、レンちゃんはずっとこの敷地の中にいたの?」
「そうだよ。岩の隙間で過ごしてた。今はあそこが心地いいんだ」
確かにあの空間は雨風を凌げそうだが、独りぼっちであの空間にいるのは寂しくないのだろうか。
「あの、香月さん…ここのご主人様に頼んだら、お屋敷の中で暮らすこともできると思うけど…」
香月にレンの話をした時、彼は猫を連れ帰ったことを特に気にした様子はなかった。晶の喜ぶことを何でもしてやりたいと言った彼のことだから、きっと子猫を部屋で世話するくらい許可してくれそうな気がする。
そう提案するが、レンはフリフリと頭を横に振る。
「いや、遠慮するよ。外にいるほうが気が楽だし。――でも、晶ちゃんが時々ボクとここで会ってくれると嬉しいな」
「それはもちろん!私も会いたい!…でも、どうすれば会える?」
レンが住みついているというあの大岩は一体どこにあるのか。晶は以前通った後に雑木林の中を少しだけ探してみたが、結局見つけられなかった。それならと先ほど通った庭園に通じる出口を探そうとしてみるも、どういう訳か見つけられなかったので、これは屋敷の七不思議の一つなのだと一人納得して諦めたのだった。
「そうだな…じゃあ、月の綺麗な夜に、この池の近くで小さく名前を呼んで。そうしてくれたらすぐ駆けつけるよ。ただし、ボクがここにいることも、しゃべることも誰にも言わないでほしい。誰も信じないだろうしね」
「え、…うん、わかった。月夜にここで名前を呼ぶのね?」
「そう。ここに来るときは誰にも見つからないように気を付けてね」
そう言って、レンは夜空を仰いだ。月明かりを受けたブルーグレーの瞳がキラキラと煌めく。晶もつられて空を見上げると、そこには転々と散りばめられた星々の間に、綺麗な弓張月が浮かんでいた。




