宮代仁(みやしろ じん)
「ええっと、確かこの教室だったかな」
授業が終わった放課後、早速体育祭実行委員の集まりがあるというので、晶は指定された教室を目指した。
この学校は長い歴史の中で校舎の増築を繰り返した結果、まるで迷路のような造りになっているので、晶は目的の教室を見つけるのに大分苦労した。やっと見つけて中へ入ると、既にそれなりの人数が集まっていて、知り合い同士で談笑している人や、個別に席について資料を読んでいる人たちもいた。
晶は見知った人がいないか周りをきょろきょろと見回しながら室内を進む。すると後ろの方に空いている席を見つけ、とりあえずそこに座ろうと近づくと、「あれっ?」と少し驚いたような声が聞こえた。
声のした方を見てみると、一人の男子生徒が目を丸くして晶の方を見ている。
「うわ〜!驚いた。君も同じ学校だったんだ」
そう言ったのは、日焼けした小麦色の肌に笑顔が爽やかな人物で、よく見ると彼は先日帰り道で晶が男性に襲われそうになった時に助けてくれた青年だった。
「あなたは…!」
晶の方も驚きで目を丸くする。まさかこんなところで会うとは思ってもみなかった。彼に会うのはこれで三度目で、二度目は夏休み中に香月と行った地元の祭り会場だった。
「学校の後輩だったんだね。あ、ここ空いてるからどうぞ」
「あっ、ええっと、ありがとうございます」
彼に隣の席を勧められ、晶が礼を言っていそいそと席に着くと、彼はにこやかに自己紹介を始めた。
「俺は宮代仁。二年五組だよ。よろしくね」
「あ、はい!私は静野晶って言います。一年三組です。この間はありがとうございました」
晶が頭を下げると、宮代は「もう良いって」と笑いながら手を振った。
「お礼は充分もらったから。でも、静野…さん?にまた会えるなんて驚きだよ」
そう言って宮代は笑顔を見せる。すると、別の男子生徒が近づいてきた。
「おわ、仁がナンパしてるぞ」
二人のやり取りを見ていたらしく、その男子生徒が揶揄い半分で冷やかすと、それに対して宮代が「おまえうるさい」と笑いながらそれに応えた。すると今度は数人の女子が近づいてきて、「じ~ん~!今度さぁ――」と話しかけてきて、あっという間に彼の周りには人だかりができる。
何とも賑やかな雰囲気に圧倒されながら、晶は黙ったままその様子を観察した。
(宮代さんって、すごい人気者なんだ…)
皆に明るく対応している宮代の姿に、そんな感想を抱く。危険を顧みず晶のことを助けてくれたくらいだから、きっと良い人で、人望も厚いのだろう。彼に尊敬の眼差しを送っていると、教室に体の大きい体育担当の教師がやってきた。
「うぉ~い、集まってるかぁ?じゃあ適当に席について。一応出席取るぞ―――」
皆がそれぞれ空いている席に着くと、一人ずつ名前を呼ばれ始めた。どうやら実行委員は一・二年生で構成されているらしく、最後に宮代の名前が呼ばれると、体育教師はそのまま黒板に役職名を書き連ね始める。
「じゃあこれから役職を決めてもらうが…宮代!お前は委員長な」
その言葉に宮代は「うげっ!」と顔を顰めて声を出す。すると周りからドッと笑い声が聞こえた。宮代はそれに構わず必死な様子で体育教師に訴え始める。
「田村センセ!まずは立候補を募りましょうよ!やりたい人がいるかもしれないし」
「いやぁ、毎回体育祭の実行委員長は陸上部の部長って決まってんだよ。諦めろ。じゃあ他の役職だけど―――」
「そんなぁ…」とため息を吐く宮代は心底やりたくなさそうだ。そんな彼に晶は興味本位でひっそりと声をかける。
「宮代…先輩は、陸上部の部長さんだったんですね。種目は何を?」
「ああ、俺は短距離やってるんだ。今度記録会があるから練習したかったんだけど、委員長なんてやってたら放課後潰れるよなぁ…まぁ仕方ないか」
そう言いながら宮代は溜息を零す。彼の半分諦めたような顔を見て、晶は少し考える。
(クラスメイトも宮代先輩も、自分とは違ってやりたいことがあるんだ…それならそっちを頑張ってもらいたいなぁ)
そう思うと、晶はここはできるだけ自分が請け負うべきところではないかと考えた。しかし、今までそういった仕事を請け負ったことのない晶は、自分ができるかどうか自信がない。
そうこうしている間に、あまり重要な仕事がない役職には早々に手が上がり、黒板に続々と名前が板書される。そんな中、最後に副委員長だけが決まらずに残った。
晶が手を上げようか逡巡していると、体育教師が切り出した。
「じゃあ、あとは副委員長だけだが…おい宮代。お前が推薦したい奴はいるか?」
急に話を振られた宮代は「へっ?」と一瞬キョトンとした顔を見せた後、少しだけ考える素振りを見せてから晶の方を見る。
「じゃあ、一年の静野さんかな。役職の中に誰も一年がいないから、伝達役が必要でしょ」
(!! え、私!?)
いきなりの指名で驚いていると、宮代は笑顔のまま、晶にだけ見えるように机の下でこっそり両手を合わせて「ゴメン」のポーズをとる。それを見て晶はふと考えた。
(これを受けて宮代先輩を手助けできたら、助けてくれたことの恩返しができるんじゃない?)
「―――一年の静野か。どうだ?できそうか?」
体育教師にそう訊かれ、晶はハッとして立ち上がる。
「は、はい!じゃあ…やってみます」
「そうか。それなら、他に異論がなければ決まりだな。じゃあ今決まった役員は後で集まって今後の予定を―――」
副委員長の板書の下に自分の名前が書かれるのをぼんやり見ながら、晶は今までの自分からは想像できない展開になったと胸が再び騒めき出すのを感じた。
(私、やれるかな…)
任せられた大役に心許ない思いを抱いていると、肩をトントンと軽く叩かれる。振り向くと宮代が申し訳なさそうに手を合わせていた。
「いきなり指名してゴメン。ただの思い付きだったんだけど、受けてくれて良かったよ。ありがとう」
「いえ、やってもいいかなって思ってたので、気にしないでください」
その言葉に、宮代は軽く目を見開いた後、安堵の表情を見せた。
「そう言ってもらえると助かる。まぁ、静野さんと仕事したかったのは本当だから。これからよろしくね」
「は、はい!よろしくお願いします」
***
役員の話し合いが終わり、必要事項を記入した書類を提出するため、晶と宮代は職員室に向かって廊下を歩いていた。窓の外を見ればすでに夕暮れ時で、部活終わりの生徒がちらほらと下校している姿が見える。
「いや〜…思いのほかやることが多くてビビるわ。本番までに間に合うのかこれ?」
「そうですね…ほぼ毎日仕事になりそうですね…」
体育祭までの予定ややることのリストを眺めながら、晶たちは遠い目をする。本来ならば夏休み前に招集されるべきだった体育祭実行委員は、その次の月に控えている大型イベントである学園祭に重きを置かれていたため、動くのが遅くなったらしい。とは言っても体育祭も立派なイベントなので実行委員の責任は重く、しかも学園祭実行委員ほどの華はないので、言ってみれば『縁の下の力持ち』的な役割だった。
(だからみんなやりたがらないんだな…今理解した)
妙に納得していると、宮代が「まぁでも…」と呟く。
「逆に言えば、遣り甲斐があるって言うの?『やってやるよ!』って思っちゃう俺は、結構逆境が好きなのかも」
「あ、それ…何となくわかります。『見返してやろう』みたいな?」
そう言うと、宮代は「そうそう」と同意して嬉しそうな顔をした。
「俺、ヒール役とか好きなんだよね。王道を歩くヒーローの影で、自分の信念に沿って頑張ってる姿を見るとマジで痺れる」
「じゃあ、学園祭側がヒーローで、こっちはヒール役ってことですね」
「ああ、そう言われると何かすごい燃えてきた」
「ふふっ!」
二人で笑いながら廊下を歩いていると、後ろの方から誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。晶が何気なく振り向くと、そこには誰の姿も見えない。
「…あれ?」
「どうした?」
宮代が不思議そうに晶の顔を窺う。今の足音は彼には聞こえていなかったらしい。晶は不思議な気持ちのまま、自分の気のせいかと首を振った。
「いえ、なんでもないです」
そう言って薄暗くなった廊下を再び歩き出し、二人は職員室を目指す。歩きながら晶はあることを思い出し、宮代に切り出した。
「あの、ちょっと教室に忘れ物したので、書類の提出をこのままお願いしても良いですか?」
「うん?ああ、良いけど…あ~…っと、時間も遅くなったし、良ければこのまま一緒に帰らない?」
そう提案され、断る理由もなかった晶は頷いた。
「わかりました。じゃあ、そのまま昇降口で待ち合わせましょう」
「おう」
晶は宮代と別れると、小走りで廊下を逆走し始める。実は忘れ物というのは嘘で、本当はあることを確かめたかったのだ。
(えっと、西校舎に行くには、この階段を上がって…)
晶は頭の中で地図を思い浮かべる。この学校はいくつかの校舎が連絡通路で繋がっている仕組みになっていて、階段もそれぞれにあるので複雑な造りになっていた。最短ルートを導き出した晶は、西校舎の三階を目指して走る。目的はそこにある女子トイレだった。
いくつもの階段を駆け上がり渡り廊下を走ってきた晶は、息を切らしながら目的の場所まで辿り着く。廊下の窓から夕日が差し込む西校舎は、何もかもが赤と影の黒に染まり不気味なほどシンと静まり返っていた。この校舎は造りが古く、今は使われていない教室が多い。そのため普段からあまり人気はないのだが、今はそれに輪をかけて誰の気配も感じなかった。
その女子トイレの前で息を整えながら、晶はゴクリと唾を飲み込む。
(確か、ここだったはず…)
そのままドアの取っ手に手を掛け、そっと押し開く。古くなった蝶番がキィと小さな音を立てるが、ドアは何の抵抗もなく開いた。
トイレの中は廊下よりも暗く、どこか陰鬱とした雰囲気で何となく空気もひんやりとしている。晶はそのままそろりと足を踏み出しながら、そっと耳を欹てた。
―――っひっく…ひっく……
夢の中で聞いた声と同じ泣き声が一番奥の個室から聞こえてきて、晶は驚きで目を瞠る。
(やっぱり!あの時の夢と同じだ…)
晶は以前、自分が幽霊になって学校を彷徨う夢を見たのだが、その時にこのトイレで泣いている少女の霊を目撃したのだ。
先ほど廊下で不審な足音を聞いて、晶はそのことを思い出した。そして夢で見た幽霊が本当にいるのか気になって、どうしても確かめたくなりここにやってきたのだが、この泣き声を聞くとどうやら正夢になってしまったらしい。
(あの夢は…一体何だったんだろう?)
晶が考えている間も泣き声はずっと止むことなく続いていて、晶はさてどうしたものかと考える。このまま泣かせておくのも忍びないが、かといって自分に出来ることと言ったら話を聞くくらいだ。でも、それだってまともに会話が成立するとも限らないし、前のように霊に取り憑かれる惧れだってある。下手をしたらそのまま自分が彼女の身代わりにされて、ずっとこのトイレで泣く羽目になる。なんてこともあるかもしれない。
(それは、いやだな)
誰にも気付かれることなく、この狭い個室の中で悲しみに閉じ込められる。そんな想像に背筋が冷たくなった時、廊下の方から晶のことを呼ぶ声が聞こえた。
「静野さーん!そこにいる~?」
「は、はい!」
その声は宮代のもので、職員室からは離れた場所にあるこのトイレに彼が来たことを不思議に思いつつも、返事をした晶は急いでトイレから出る。するとそこには顔を真っ青にした宮代が立っていた。
「し…静野さん……い、今…は…走れる?」
声まで震えている宮代を不審に思いつつ、晶はコクリと頷いた。
「え?…はい、走れま…すっ!?」
晶が言い終える前に、宮代は晶の腕を掴んで廊下を走り出した。宮代は何やら必死で、まるで何かから逃げるように晶を引っ張りながら走る。
「え!?ど、どうしたんです?」
宮代の俊足に必死についていきながら晶が訊ねると、宮代は「とにかく走って!」と焦りながら応えた。
突き当りの階段を一足飛びで駆け下り、一階まで下りると宮代はやっと足を止めて息を吐き、晶の腕を掴んでいた手を離す。
「ごっ、ごめんいきなり…何か、ヤバい気配を…感じて…」
肩で息をしている晶に向かって頭を下げる宮代は、いまだに顔色が悪い。その手元を見ると震えているようだったが、両手で何かをぎゅっと握りしめていた。そんな彼に晶は頭を傾げる。
「ヤバい気配って…どういうことですか?」
「何か、静野さんの気配を探ってたら、ヤバい感じの…つまりその…」
「幽霊?」
「ぎゃぁ!!」
晶の言葉に、宮代は頭を抱えてしゃがみ込む。その異常なほど怯えた様子に、晶は心配になり宮代の顔を覗き込む。
「…宮代先輩、大丈夫ですか?…もしかして、先輩は幽霊が見えるんですか?」
「みっ、見えてたまるか!…見えなくて良かったよ…でも俺、結構感じるタイプみたいで、意識すると何かいるって分かっちゃうんだよね…。さっきも、職員室を出た後に何かぞわぞわ~って鳥肌が立ってさぁ。そしたら静野さんが三階の渡り廊下を通る姿が見えて、嫌な予感がしてさ。…静野さんはさっきトイレで何も感じなかった?」
「ええっと…」
幽霊を確かめに行っていたとはさすがにこの場では言い難い。そう思っていると、宮代が握りしめていたものがチラリと見えた。小さな袋のようで、鞄のファスナーの穴から組紐で繋がっている。
「宮代先輩、それ、何ですか?」
晶が手元を指差すと、宮代は「これ?」と言って手を開いて見せた。少し草臥れたその小さな布袋はお守りのようで、そこには可愛らしい模様とどこかの神社の名前らしき文字が刺繍されていた。
「ああ、これは俺のお守りで、この中に誕生石でてきた根付が入ってるんだ。昔から肌身離さず持ち歩いてるから、こういう時に無意識に触っちゃう癖がついてて」
「そうなんですね。…私も、お守りを持つようにしました。やっぱりあると心強いですよね」
「ああ、静野さんは危ない目に遭ったし、気休めでも持っていたほうが安心するよな。それで気が休まるなら必要なものだよ。俺は今じゃ持ってないと落ち着かないくらい一体化しちゃってる」
「一体化って…ふふっ」
晶が笑うと、それを見て宮代も少し表情を和らげる。その顔には大分生気が戻ってきていた。今は何の怪しい気配も感じないが、暗くなった校舎内は宮代にとってあまり居心地の良い場所ではないかもしれない。
晶は宮代を立たせるために手を差し伸べる。すると、宮代は少し驚いた顔で晶と手を交互に見つめた。
「とりあえず帰りましょ。何か暗い学校って怖いし」
「…そうだな」
宮代は強張った顔のまま晶の言葉に力強く頷くと、そっと晶の手を掴んだ。
***
「静野さんの家から俺の家って、意外と近いんだけどバスの路線が違うんだよな。この前君を助けた時は、たまたまあの近くに住んでる友達の家に遊びに行った帰りだったんだ」
帰りの混み合う電車内で、晶と宮代は窓の外を流れる景色を目で追いながらドア付近で立ち話しをしていた。外は既に夕闇に沈み、沿線の家々から灯る明かりが目の前を通り過ぎていく。やがて車内に降車駅を知らせるアナウンスが流れた。
「そうだったんですね。本当に宮代先輩がいてくれて運が良かったです。ありがとうございます」
あの時、宮代がいなかったら晶はどうなっていたのかわからない。改めて礼を言うと、宮代が「俺の方も…」と呟く。
「今日は引き受けてくれてありがと。他のやつらは大体が運動部の二年で、部活が忙しい連中ばかりだったから、静野さんが引き受けてくれて助かったよ。…ああ、でも…もしかして、彼氏さんに怒られたりする?」
「へ?彼氏さん?」
今まで彼氏などいたことのない晶は、言われたことの意味が分からず首を傾げる。すると、宮代はどこか複雑そうに視線を窓の外に向けた。
「…ほら、あの夏祭りの時に一緒にいた…」
そう言われて、晶はハタと思い出す。そういえば、宮代には香月と一緒にいるところを見られていた。その瞬間、晶は宮代の勘違いに思わず吹き出した。
「ぶっははは!!違いますよ!…あの人は彼氏じゃありません」
「えっ、そうなの?てっきり…」
そう言って宮代は何かを考える素振りを見せる。やがて電車が滑るように降車駅に停車すると、二人はそのまま降車する人の流れに沿って電車を降りた。
改札口に向かって二人並んで歩いている間、宮代はずっと無言だった。晶が不思議に思っていると、宮代は改札を抜けた後で急に晶の方を振り向いた。
「あのさ…実は俺、もうすぐ誕生日なんだよね」
「え!そうなんですか!おめでとうございます。何日ですか?」
「実は来週の月曜なんだけど…えっと、もし静野さんが嫌じゃなかったら、もう一度クッキー作ってくれないかな?」
思いがけない頼みに、晶は目をキョトンと見開く。
「クッキーを…ですか?」
「そう。静野さんのクッキー、マジで美味かったんだよね。また食べたいなぁって思ってたんだ。知り合ったばかりでずうずうしいお願いなんだけど」
そう言って宮代は両手を合わせて拝む様に頭を下げる。そんな宮代を見つめながら、晶は「美味かった」という言葉にじわじわとお腹の底が温かくなるのを感じた。
『―――美味しかったよ晶、ご馳走様』
『晶の作った料理はどれも美味しいなぁ』
父親と暮らしていた頃は、そんな風にいつも父親が言ってくれた。その時はあまり意識していなかったが、「美味しい」と言われれば次はもっと頑張ってみようと料理に精を出していたことを思い出す。
この温かさは、その時に感じていたものに似ている。しばらく忘れていた感情を思い出し、晶は自然と頬が緩んだ。
「…良いですよ。あんなので良ければ、いくらでも」
晶の了承の言葉に、宮代は嬉しそうに片手をぐっと握りしめた。
「やった!いつでもいいから、できるだけ大量にください」
「た、大量ですか?…どれくらい?」
「そうだなぁ、バケツ一杯くらい?」
これは相当気に入ってくれたらしい。晶はますます嬉しくなって、つい笑いが零れた。
「マジですか…ふふっ。わかりました。頑張ります!」
美味しいと食べてくれる人がいるなら、いくらでも作ってみせようと晶の心はやる気に満ち溢れる。
(それに、いい加減、香月さんにもクッキーを献上しなきゃだしな…)
香月の婚約者との約束を思い出した晶は、途端に上がっていた気分が少しだけ盛り下がる。
晶は先日、知り合ったばかりの香月の婚約者と仲良くなり、その時に何故か彼女から彼に手作りクッキーを渡してほしいという難題を出されたのだ。
その真意は不明だが、賭けまで持ち出してきた婚約者に折れて了承した晶は、結局弱腰になって今まで香月にクッキーを渡せずにいた。彼に献上するのは友達に気軽に渡すのとは訳が違う。香月はきっと「美味しいよ」と言ってくれるだろう。だがそれが本心なのか社交辞令なのか分からないから厄介なのだ。
(それに、甘いもの好きかどうかもわかんないしね…)
嫌いなものを出されても、紳士である香月ならきっと美味しそうに食すのだろう。それが居た堪れなくて、晶は躊躇してしまうのだ。
そんなことを思いつつ、晶は宮代と二人で改札を出て出口に向かう。駅の外に出ると、宮代が乗るバスがちょうどターミナルに到着したところだった。
「じゃあ、また明日もよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
別れの挨拶の後、宮代はバスに向かって走っていった。時間を確認すると晶の乗るバスの到着にはまだ間があったので、晶はどうしようかと悩んだ末、駅の構内にある食料品店へと足を向けた。
「これで材料は大丈夫っと…。この後どうしようかな」
店内でクッキーの材料とラッピングの材料を買い込んだ晶は、まだ少し時間があったので構内をぶらぶらと歩く。そのうちに目についたドラッグストアを覗いてみることにした。
時間潰しに商品を眺めていると、化粧品コーナーに差し掛かり、晶はそこで足を止める。そこには最新のコスメが並んでいて、思わず手に取ってみたくなるようなポップの文字が添えられていた。
(へぇ~…『新しい自分を見つけよう』かぁ…そういえば自分磨きも大切なことだよね。お洒落なものとか、可愛いと思うものを探して試していくのも必要かも)
以前のバイト先では濃い目のメイクで別人のような顔を作ってもらっていたが、それが可愛いかどうかは良く分からなかった。かといって、自分にはどんなメイクが似合うのかも分からず、それに合わせて上手くメイクするスキルもない。今目の前にある沢山の化粧品の中から、一体どれを選べばいいのか見当もつかなかった。
「はぁ~…とりあえず、今度雑誌や動画見て勉強してみるか…」
化粧品の宣伝ポスターで美しい笑顔を見せる女優を見て溜息を吐く。いつか大人になる時には、こんな風に自分を綺麗に見せるメイクができているだろうか。
数えきれないほどの化粧品を眺めながらそんなことを考えていると、若者向けの化粧品メーカーが出している新商品が目についた。疎い晶でも名前くらいは知っているメーカーで、新商品が出るたびに周りの子が騒いでいた記憶がある。
「へぇ~、リップグロスか…いろんな色があるなぁ」
発売してまだ間もない商品らしいが、宣伝のポップには『購入はお早めに!再入荷は未定』と書かれている。特設コーナーがあるくらいだから、きっと大人気なのだろう。そのコーナーに貼られている宣伝ポスターには、つやつやした唇を前面に押し出した綺麗な女の子が写っていた。
若い世代向けの商品とあって同年代ぐらいの子に見えるが、同じ人間に見えないほどキラキラと輝いている。晶は一人暮らしになってからあまりテレビを見なくなったので、最近人気の芸能人には詳しくない。しかし、何故かポスターに写っている子にはどこか見覚えがあった。
「あれ〜?どこで見たんだっけ?……って、ああああの子!?」
思い出した途端、晶は思わず声を上げていた。周りの目も気にならないくらい驚きすぎて、晶はポカンと口を開けたままポスターを凝視する。
そこに写っていたのは、香月が留守の間に彼を訪ねてきた正体不明の女の子で、確か名前は「さくら」だ。
「うわぁ…あの子、だよね…?まさかこんな有名人だったなんて…」
可愛い子だとは思ったが、こんな形で再会するとは思っていなかった。あれから一度も訪ねてきていないようだが、香月とはどんな関係だったのだろう。そんなことを考えながらしげしげとポスターを眺めていた晶は、途端に重大な事実を思い出し、顔を真っ青に染める。
(そういえば……「さくら」さんのこと、香月さんにまだ報告してなかった!!!)




