賭けの行方
「すみません、遅くなりました!」
裏口から屋敷に帰還した晶は、厨房に顔を出すとそこに堀越の姿を見つけ、真っ先に謝罪の言葉を口にした。
コンロの前で鍋の中身を混ぜていた堀越は、晶の声に気付いて振り向くと、どこかほっとした表情を見せる。
「やあ、晶さんおかえりなさい。少し遅いので心配しました」
「すみません、思いのほか実行委員の仕事が多くて…。もう片付けの時間ですよね?今すぐ着替えてきます!」
急ぎ自分の部屋へと戻った晶は、制服を脱ぎ捨てて素早く仕事着の黒いワンピースに着替えると、高い位置で一括りにした髪にバレッタを飾った。時間はすでに夜の八時に差し掛かろうという時刻で、普段ならば夕食後の後片づけの時間だ。晶は慌てて堀越の元に駆け戻った。
すると何故か堀越は湯気の立ったスープの皿が載った銀のトレーを持っていて、それを厨房から運び出そうとしている。
「…あれ?もう片付けの時間では…?」
「いえ、夕食はこれからですよ。瑠依様が晶さんを待つと仰ったのです」
そう言ってニコリと笑顔を見せる堀越に、晶は驚愕の顔を向ける。
「そそそ、そんな!すみません!!まさか待っててもらっているなんて思わず…」
「いいえ、晶さんが気になさることではありませんよ。瑠依様も私も、やりたくてやっているのですから」
「でも…」
そう言いかける晶の目の前に、堀越は穏やかな顔でトレーを差し出す。
「ほら、冷めないうちに準備しましょう。瑠依様もお待ちかねです」
***
「今日は遅くまで大変だったね。仕事は上手く行きそうかい?」
グラスに注がれた炭酸のドリンクを口に付けながら、香月は穏やかな笑みを向けて晶に問いかけた。普段よりも遅くなった夕食の席で、晶は結局いつも通り美味しそうなディナーを前に香月と食卓を囲むことになった。
先ほど香月と顔を合わせた時、晶は真っ先に遅くなった謝罪をしたが、彼には堀越と同様に軽く受け流されてしまい、逆に労われる始末。そのことに恐縮しっぱなしの晶は、香月からの質問に食事の手を止めて頷く。
「はい。思いのほかやることが多くて大変そうです。でも、委員長をはじめ、他の役員の人たちとは上手くやっていけそうです」
「それは良かった。でも、あまり遅いと心配だね。これから段々と日も短くなっていくし、今日みたいに遅くなるようなら堀越を迎えに行かせようか」
「いいいえいえいえいえ!!それには及びません!」
晶は全力で手と首を振る。たかが使用人のためにこの屋敷の執事を迎えに寄越すとは、何と畏れ多いことを言い出すのかこの主人は。
そんな事より大事な報告があることを思い出した晶は、これ以上自分に気を回されないよう、慌てて口を開いた。
「そ、それより!香月さん、あの…私、実は謝らなければいけないことがありまして…」
「ん?何かな?」
優雅に首を傾ける仕草に、ついドキリとしてしまう。気を抜けば彼の所作一つ一つに見惚れてしまいそうになるが、晶は意識してそれを振り払う。今はそんな場合ではないと心の中で自分を叱咤すると、静かに立ち上がって頭を下げた。
「実は、香月さんがホテルの調査でお屋敷を留守にしていた時、糸様の他に一人だけこの屋敷を尋ねてきた方がいまして…その報告をすっかり忘れていました。すみません」
「そうだったんだ?誰だろう…静野さんが追い返してくれたの?」
「はい。…その方は私ぐらいの年齢の女の子で、『さくら』さんという名前でした。…香月さんに会いに来たようなのですが、留守だと伝えると今度は私のことを探ろうとしたので、何も話さずにお帰りいただきました」
「……『さくら』だって?」
その名前を口にした途端、香月の纏う空気がガラリと変わった。普段よりも心なしか低いトーンの声を発した彼に驚いて顔を上げると、香月は険しい表情で傍に控えている堀越と目線を合わせている。しかし彼はすぐに視線を戻すと、晶に尋ねた。
「…何を、訊かれたの?」
「えっと、確か…ここで働いているのかとか、あと、名前を訊かれました。でも、名前はこの場合雇用条件に反するかと思いまして、伝えませんでした」
香月の刺々した雰囲気に怯みながらも、晶はあの時のことを思い出しながら答える。この屋敷で働く条件の一つに、屋敷を訪ねてきた者にここで見知った事を何も話してはいけないという決まりがある。晶は自分の名前を訊かれただけだが、この屋敷に勤める使用人の名前という意味では、もしかしたら条件に引っ掛かるかもしれないと思ったのだ。
「…良い判断だったね。それは正解だよ。その時、その客人は一人だった?」
「はい。あ、車で来たようでしたから、車には運転手がいたかもしれませんが」
「そう……」
香月はそのまま食事の手を止めて難しい顔で黙り込む。彼の様子から、あの『さくら』という子が招かれざる客だったことが窺えた。香月と彼女がどういう関係なのかは気になるところだが、彼の刺々した空気から、今この場で聞ける雰囲気でもないと晶は口を噤む。
(…何だか香月さんの雰囲気がいつもと違って恐い…やっぱり報告を忘れたのは失敗だったんだ…。さくらさんて、香月さんにとっては地雷だったのかな…)
香月をここまで厳しい表情にさせる『さくら』とは、一体どんな人物なのか。有名人であることは今日見かけたポスターで分かったが、彼が彼女のことをここまで嫌悪する理由は何だろう。
(やっぱり、元カノだったりして…それともストーカーとか?聞いても教えてくれないよね…)
いつまでも沈黙を続ける香月に、晶は話しかけていいものか考えあぐねる。詮索はしないと心に決めた手前、さくらとの関係を尋ねるのは憚られるが、自分の失態が原因で食卓の空気を悪くしてしまった。晶は何とか雰囲気を変えたくて、思い切って別の話題を持ち出すことにした。
「あ、あの、香月さん!あともうひとつ報告がありまして…レンのことなんですが」
「……え?」
いきなりの話題転換に驚いたのか、香月が目を丸くして晶の顔を見つめる。その顔を見て不自然過ぎたかと一瞬反省したが、晶はそのまま話を続けた。
「前に屋敷に連れてきた子猫のことです。ずっと行方不明で気になっていたんですが、今日の帰り道の途中で見かけました。今は無事に良い住処も見つけられたみたいで、安心しました。色々とお騒がせしました」
「そう、なんだ。それは良かったね。結局僕は会えなかったけど、静野さんはその子猫を飼いたかったんじゃないの?」
「…いえ、レンが幸せならそれが一番ですし、未練はないです」
本当は愛着が湧いてしまって、自分の手で世話をしたい気持ちがないわけではなかったが、見事にフラれてしまったし、レンはいつでも会えると言ってくれた。それに、あんな秘密を持った猫は晶の手に余るだろう。レンはこの屋敷の敷地に何か目的があって来たと言っていたが、レンの目的が何であれ、温かく見守ろうと心に決める。
「…そう…」
晶の言葉に相槌を打った香月は、表情を緩めると眉を下げ、優しい眼差しを向ける。その顔面の破壊力の強さに、晶の心臓がドクンと一際大きく跳ねた。
(こっ……神々しい…!!)
香月の笑顔を直視した晶は、その輝きに目が潰されるかと思った。心なしか周りの空気まで浄化されたように澄んだ気がする。彼はもはや人類ではなく神の域に達しているのではないだろうか。
「じゃあ…また黒猫グッズを集めて、君の寂しさを紛らわそうか」
「!! いやいやいや…もうお腹いっぱいですよ…」
そんな冗談を交えた会話を続けながら、晶と香月は再び食事を再開する。会話が進むにつれて香月の纏う空気が元に戻っていくのを感じた晶は、心の中で安堵の溜息を吐いた。
***
夕食後、厨房で堀越と夕食の後片づけをしていた晶は、洗い終わった皿を布巾で拭きながらずっと考え事をしていた。
(あの時の香月さん、まるで別人みたいで、何かすっごく怖かった…)
先ほどの『さくら』の話をした時の香月の反応がどうしても気になって仕方がない。あの時は普段の柔らかい表情をする彼からは想像できない鋭さが垣間見られ、晶は驚くと同時に彼のことがますます良く分からなくなった。普段とは違う雰囲気の香月を見るのはこれが初めてではないが、そのたびに晶は香月瑠依という人物がどういう人間なのか掴みかねてしまう。
(普段の優しくて爽やかな香月さんは、もしかして仮初の姿で、本当は…もっと怖い人?)
何とも抽象的な表現になってしまったが、では怖いとは一体どんな人を指すのだろう。心が冷たいとか、怒鳴ったり、心無い言葉を平気で投げつける人のことを言うのだろうか。でも、それは香月には絶対に当てはまらない。晶のことを気遣う時の彼の目を見れば、彼が優しい人だということが良く分かる。そんな時の彼の瞳には晶のことを蔑むような色は決して見えないのだ。
(それなら、優し顔をしながら平気で人を傷つける人…とか?)
もし、香月が自分にとって有益ならば人を傷つけることも厭わない人間だとしたらどうだろう。普段の優しさはそのカモフラージュで、実際は傷つけるタイミングを見計らっているのだ。だとしたら怖すぎる。
「そんな馬鹿な…ヴァンパイヤじゃあるまいし…」
「ヴァンパイア?」
別の作業をしていた堀越が不思議そうな顔をして晶の方を振り向いた。どうやら考え事が口に出てしまったらしい。晶は慌てて作業の手を止めて首を振る。
「な、何でもありません!…それより、このお皿を仕舞ったら、次は何をすればいいですか?」
「そうですね、もう粗方明日の仕込みも済みましたし、今日はそこまでで大丈夫ですよ」
「わかりました!……あの、さっき話した『さくら』さんのことですが…改めて報告が遅れたこと、お詫びします。すいませんでした」
晶は居住まいを正してぺこりと頭を下げる。報告を怠ったことで、堀越にも迷惑をかけたかもしれない。先ほど香月には謝罪したが、報告をした時の二人の微妙な空気を思うと、やはり報告が遅れたのは拙かったのではないかと思わずにはいられなかった。
そんな晶に堀越は「大丈夫ですよ」と穏やかに声をかける。
「先ほどは、瑠依様も私も驚いてしまい不自然な態度になってしまいましたね。晶さんには気を遣わせてしまい申し訳ありませんでした。……さくら様は、言ってみれば瑠依様の親戚にあたる方なのですが…実は瑠依様とご親族の関係はあまりよろしくないのです。身も蓋もない言い方をするなら、『最悪』です」
「さいあく……」
当初の予想通り、彼女は香月の身内だったようだ。しかし最悪とまで言わしめるほどの親族関係だったとは思わなかった。香月の実家がどんな規模の資産家なのかは知らないが、その財産をめぐって熾烈な争いがあったり、愛憎入り混じったドロドロした諍いがあるのだろうか。まるで年頃のお姉さま方が好んで観る海外のドラマのようだ。
「ええ。ですので、瑠依様は極力ご親族の方々とは関わらないようにしているのです。さくら様もただ純粋に瑠依様に会いに来たとは考え難いので、晶さんが何も言わず追い返してくれたのは本当に正解でした」
「つまり、彼女には何か企みがあって香月さんに会いに来た…と?」
そう尋ねると、堀越は困ったように微笑む。
「…まぁ、大体の予想は瑠依様もついていると思います。ともかく、晶さんは今後も探りを入れてくるような外部の人間には、充分気を付けるようにしてくださいね」
「…分かりました!充分気を付けます。――ところで、ちょっとお願いがあるのですが…」
***
「もう少し焼き目が付いたほうがいいな…」
厨房全体に甘い香りが漂う中、オーブンの中を確認していた晶はオーブンのつまみを回して焼き時間を延長すると、作業台に置かれた出来たばかりのクッキーに目を移す。
先ほど堀越に厨房の使用許可をもらった晶は、早速宮代に頼まれた誕生日祝いのクッキーを作り始めた。今回はもう少し手の込んだものをと、型抜きクッキーをはじめアイスボックスや絞り出し、ナッツやドライフルーツ入りのクッキーなど、張り切って色々な種類のクッキーを作り始めたのだが、そうしたことで思いのほか量が多くなってしまった。
「宮代先輩はバケツ一杯って言ってたけど、さすがに本気じゃないだろうし…」
とりあえず宮代の分は既に作り終えていて、見栄えがいいようにラッピングも施した。今焼いているのはその残りで、それでも天板二枚分ぐらいは余っている。
「やっぱり、ここは覚悟を決めて香月さんに食べてもらう…?」
香月家ではかなりの頻度でお茶を入れる。そのタイミングに合わせてお茶菓子としてさりげなく供すれば、香月も気付かず食べてくれるのではないか。
「でも、それじゃあ糸ちゃんとの賭けにならないよね…」
晶は香月の婚約者である百鬼糸と一つの賭けをしていた。糸から提案されたものだったが、それは晶が作ったクッキーを香月が食べるかどうかの賭けだった。
晶は今まで香月が甘いものを食べている所を一度も見たことがない。それがこの賭けの難易度を上げているのだが、もし彼が菓子類を口にすることがあったとしたら、それは高級洋菓子店で作られるような、材料にも見た目にも凝ったものに限るだろう。晶の作った材料も見た目も素朴なクッキーなんて、彼の口に合う訳がない。そう糸には言ったのだが、彼女は食べるほうに賭けたのだ。
彼女はこの賭けに勝ったら、晶の留守番中に起きたことを教えてほしいと言っていた。香月が堀越と一緒にリゾートホテルの怪現象の調査に行っていた間のことなのだが、今思えばその日は晶の身の周りで色々なことがあり過ぎた日だった。しかし、糸がそれを知りたがる理由は皆目見当もつかない。
ちなみに晶が賭けに勝ったら糸の秘密を一つだけ教えてくれるらしいのだが、糸は自分が勝つ自信があると言っていた。自分の婚約者に他の女の手作り菓子を勧めるなんて、一体どんな思惑があるのかと疑ってしまうが、糸と話をしているととても気立てが良い子で裏があるようには思えなかったので、晶は請われるまま賭けを承諾してしまった。
「それに何かあの時の糸ちゃん、とっても必死に見えたんだよね…」
一縷の望みに賭けるような、必死な目を見せられて、断る事ができなかった。あの目は一体何を映していたのだろう。
そんなことを考えながらオーブンの中のクッキーをぼんやり見ていると、厨房の入口あたりから何かの気配を感じた。
堀越がお茶を淹れに戻ってきたのかと思って振り向くと、そこには五歳くらいの男の子が二人、入口に立ってじっとこちらを見ていた。
「わぁっ!!?び、びっくりした…えっと、こんばんは?」
予想外の出来事に驚くものの、晶はすぐに笑顔になり二人に挨拶をした。彼らは晶の挨拶の言葉にぴょこんと同時に頭を下げる。この顔の造詣がまったく同じで背格好も同じ二人は、以前、晶の留守番中にも厨房にやってきたことがあり、晶の手作りカレーを美味しそうに食べてくれた子たちだった。
あの時と同じように、白い長袖シャツに黒の半ズボンと蝶ネクタイを付けている彼らは、キヌと同じでこの屋敷に住む無害の幽霊なのだろう。晶は最初に彼らに出会った時とても疲れていて、何だかこの二人の幽霊にとても癒されたのだ。そんなこともあって、彼らが幽霊だとしても全く怖いとは思わなかった。
二人は顔を上げると、ある一点で視線を定めた。そのことに気付いた晶がその視線を辿ると、どうやら作業台に置かれたクッキーを見ているようだと気付く。晶はクスリと笑うと、クッキーが盛り付けられた皿を手に取って双子の方に近づいた。
「たくさん作っちゃったから、これ食べてもらえる?」
「「!!」」
二人は目を丸くして嬉しそうに晶の顔を見上げる。まるで猫の耳がピンと立ったような幻覚が見えて、晶はその可愛らしさに笑顔が蕩けた。
二人を作業台の椅子に招いて、晶は手早くお茶の準備を始める。美味しい紅茶の淹れ方を堀越に習っている最中で、晶はその手順を思い出しながら茶器を用意した。
晶がお茶を淹れている間、双子はお行儀よく椅子に座って待っていた。視線はクッキーに釘付けなままだったが、お茶が供されるまでちゃんと待つ姿に、二人とも生前は良い所のお坊ちゃんだったのではないかと推測する。身に着けているものや上品な立ち振る舞いを見ても、その予想はあながち間違いではない気がした。
「お待たせしました。さぁ召し上がれ」
晶が二人の前にティーカップを置くと、彼らは晶にニコリと笑いかけてからカップを手に取り、お茶を一口啜った。それから早速クッキーに手を伸ばし、一口かじる。
その瞬間、彼らは驚いたように目を丸くして、互いの顔を見合わせる。それからは勢いがついたように二人ともクッキーに噛り付き、みるみる皿からクッキーが消えていった。
その光景をお茶を飲みながら微笑ましく見ていた晶は、双子の顔つきがほんの少しだけ違っていることを発見した。やはり双子と言ってもよく見れば違いがわかるものだなと感心して二人のことを観察している間に、クッキーが完全に皿から消えてしまった。
「もっと食べる?」
先ほど焼けた分が残っているので、追加してあげようと晶が席を立つと、二人は笑顔で首を横に振った。お茶の残りを同時に飲み干した彼らは、両手を合わせて「ごちそう様」のポーズを取ると席を立つ。そのまま入口に向かった二人は、晶の方を振り向いて笑顔で手を振り、そのまま廊下の暗がりに消えて行ってしまった。
「はぁ〜…可愛いかった。癒されるわぁ…」
まさか幽霊に癒される日が来るとは思わなかった。双子が消えていった廊下を見ながら溜息を漏らした晶は、片付けのために動き出そうとして思わず作業台に残ったクッキーを見つめる。
「……」
あの男の子達にも宮代にも高評価を得られたことで、少しだけ自信が付いた気がする。
食器を洗って元の場所に戻し終わった晶は、またしばらくクッキーを見つめながら葛藤した後で、えいやと覚悟を決めた。
***
「失礼します」
地下にある仕事部屋のドアを開けた堀越は、薄暗い部屋の中で沢山のモニターの前に座る己の主人の背中に声をかけた。
「瑠依様、お茶をご用意しました…っと、これはまた随分と…」
堀越は周囲に散らばった物を見て静かに溜息を漏らす。香月の周りには本や紙切れ、ファイルなどが散乱して足の踏み場もない状態だった。
堀越はそれらを慎重に避けながら部屋の中を進み、空いている棚の上にお茶が載ったトレーを置く。香月は堀越の方を気にする風もなく、黙ったままモニターの数字の羅列を睨んでいる。堀越は返事がないことには構わず、そのまま彼に話しかけた。
「先ほどの晶さんの話ですが、さくら様がこの屋敷を探り当てたと言うことは、他の分家筋にもあなたの帰国が知れ渡っていると考えるのが妥当でしょうね」
「……」
「さくら様の来訪の目的は…差し詰め、糸様の立場を狙ってのこと。つまり、本家はやはりあなた様をそのまま当主に据えようと動き始めたということでしょう」
「……煩わしい」
背中を向けたままそう吐き捨てた香月から、仄暗い感情が漏れ出している。彼の立場を思えばそれも仕方ないと堀越はしばし瞑目し、己の主人の行く末を想った。
これから先、彼に訪れる未来には不幸しか待っていないのか。まるで運命を司る神が彼を嫌っているかのように、ただ堕ちていくだけの彼の人生を何とかしてあげたい。そう思うが、自分もまたその運命の歯車の一部だということを堀越は理解していた。自分が動いたところで、それは彼の不幸を加速させるだけにすぎない。
だから今は、たとえ小さな事でも彼にとっての幸せをその手にたくさん集めてほしい。そう願わずにはいられなかった。
「…まだ正式な通達があったわけではありませんし、ひとまずは分家筋の横槍を警戒するに留めましょう。先ほど晶さんにも注意を促しましたし」
「……彼女には何と?」
この部屋に来て初めて顔を向けてきた主人は、相変わらず淀んだ暗い目をしていたが、気になることがあるのか堀越の顔をじっと見つめてくる。
「ええ、さくら様は瑠依様の親戚の一人で、親族関係は最悪だと伝えておきました」
その言葉に何も言わず、香月はまたふいとモニターに向き直ると黙々と作業に戻った。堀越には目で追いきれないほどの数字の羅列が流れていく画面の前で、まるで人形のように微動だにしない己の主人の姿を目にする度に、堀越の心は鉛を飲んだように重くなる。
数字に囲まれたこの部屋は異質で、およそ人間の喜びからは隔離された空間に思える。この部屋で一日の大半を過ごす主人は、まるで自分自身を監獄に閉じ込めているようだ。
堀越の願いなど知る由もない彼は、元より自分自身の喜びなど求めていないのは明白だった。
―――そう。あの時から
「……そろそろ晶さんが部屋に来る時間になりますよ。そういえば先程、厨房で何かを作っていたようですね。甘い香りがしていましたし、誰かへのプレゼントでしょうか」
自分の重苦しい気分を払拭したくて何気なく出した話題に、香月の動きが一瞬止まったように見えた。その反応に「おや?」と思いつつ、堀越は密かに祈りにも似た思いを抱いて頭を下げる。
「では、私はこれで。瑠依様、おやすみなさいませ。―――どうか、良い夢を」
***
寝る支度を整えた晶は、いつものように香月の待つ部屋の前に辿り着き、そこで立ち尽くしていた。
「うーん…寝る前にクッキーって、明らかに不自然だよね…?」
そう呟きながら、自分が持つトレーを見る。数種類のクッキーを載せた皿と厨房で用意したティーセットを見ながら、晶はまた気持ちがしぼんでいくのを感じていた。先ほどまでは自然に食べてもらえると思っていたが、このタイミングは完全に外しているのではないだろうかと再び逡巡する。
「やっぱり、明日のお茶の時間に堀越さんに頼んで…いやでもそれじゃあ賭けの条件としてダメかな…」
やはり焼きたてが一番だし、せっかく入れたお茶も冷めてしまうと覚悟を決めた晶は、えいやとドアをノックする。すると、いつもはすぐに開くドアが開かず、返事も聞こえてこない。
「あれ?香月さん、まだ来てないのかな?」
ノブを回してドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。晶は部屋に入ると壁についているライトのスイッチを入れる。パッと明るくなった部屋の中では、数えきれないほどの黒猫が晶を出迎えるが、そこに香月の姿はなかった。そのことに少しだけ残念な気持ちになった晶は自分自身に驚く。
(あれ?…何で香月さんが先に部屋にいなかっただけで残念な気持ちになるんだろう?)
シンと静まり返る室内は、相変わらず晶の好きな黒猫グッズで溢れている。それなのに、ちっとも気分が上がらない。それを不思議に思いながら、晶は部屋の奥に進んで窓際の机の上にトレーを置いた。
カーテンが開きっぱなしの窓から月が見える。庭で見た時よりも角度を変えて優しい光を放つ弓張月をしばらく眺めた晶は、カーテンを閉めると無意識に溜息を吐いた。この部屋で香月を待つのは初めてだ。手持無沙汰で落ち着かない晶は、ベッドに座ると転がっている黒猫のぬいぐるみを抱き込み、ぼんやりと今日あった出来事を反芻する。
「思い返してみれば、かなり内容の濃い一日だったなぁ」
委員会の仕事にトイレの幽霊先輩。宮代との会話とさくらのポスター。それから帰り道の視線とミイラになった小山との出会い。そしてレンと双子との再会と、かなり衝撃的な出来事ばかりで、いまだに気持ちが追いついていない気がする。特にレンが人間の言葉を話したことは一番の衝撃で、今でも夢か狸に化かされたのではないかと思ってしまう。
「でも、また会えるって言ってたし、それが本当ならもう受け入れるしかないよね…」
「誰にまた会えるって?」
いきなり香月の声が聞こえて、晶は驚き振り向く。すると、今し方入ってきたばかりらしい香月が、ドアノブに手をかけたまま立っていた。その顔は普段通りの穏やかな表情に見えたが、先ほどの問いかけの言葉にほんの少しだけ圧のようなものを感じた晶は、無意識に背筋をピンと伸ばす。
「香月さん!お、お疲れ様です。えっと、さっきのは独り言で…特に意味はない、です」
「…そう」
そう言って笑顔で首を傾けた香月は、ドアをパタンと閉めると晶から顔を逸らして部屋の奥へと進んだ。何でもないその行動に少しだけ違和感のようなものを感じた晶は、そのまま黙って彼のことを見つめる。
すると突然、香月が不自然に動きを止めた。何事かと思って彼の視線の先を追った晶は、「あっ!」と声を上げる。
「あ、あ、あの!お茶を用意してみたんですが…えっと、お茶請けにクッキーも作ってみたので…よ、よかったらどうぞ!!」
今まで散々頭の中で練りに練って用意していたセリフがまったく出てこず、これは失敗したと晶は焦った。もっと自然に勧めれば、香月も流れで一つぐらい食べてくれたかもしれないのにと心の中で自分を責める。
自分の失態に項垂れていると、それまで黙ったまま動きを止めていた香月が、コホンと咳払いをして振り向いた。
「ありがとう。…頂くよ」
そう言った彼は、若干ぎこちない動作で机の前に移動すると、ストンと椅子に腰かける。それをポカンと見ていた晶は、ハッと気付くと慌てて立ち上がった。晶も急いで彼の前に立つと、トレーからティーカップとクッキーの皿を取り出して彼の前に置き、ティーポットからカップにお茶を注ぐ。熱いお茶からはほのかに湯気が立ち、花のような香りが広がった。寝る前だからとハーブティーを選んだが、彼の好みに合うだろうか。
「どうぞ…あの、お口に合うか分かりませんが…」
おずおずと少し緊張しながら言うと、香月も何故かいつもより少し硬い表情で「ありがとう」と口にしてティーカップを持ち上げると、一口飲んだ。そしてクッキーを一枚手に取ると、そのままゆっくりと口に運び、一口齧る。
「…美味しい…」
独り言のように呟く声は思わず漏れた言葉のようで、香月はそのまま真剣な顔でクッキーを食べ進める。その予想外の反応に晶は目を丸くした。先ほどの双子程の勢いではないが、香月もあくまで上品に、しかし手を休めることなく食べ続け、晶が呆気に取られているうちに皿の上のクッキーはあっという間に消えてしまった。
「ご馳走様。とても美味しかった」
「…は、はい!よかったです!食べてくれて、ありがとうございました」
香月の食べっぷりに驚いていた晶は、慌てて居住まいを正し、ぺこりと頭を下げる。それを見て香月が思わずといった風に笑い出した。
「はははっ!静野さんがお礼を言うなんておかしいな。礼を言うべきは僕の方だよ。ありがとう」
「…は、はい!」
この時の香月の笑顔が何とも無邪気に見えて、晶は思わずその笑顔に見惚れてしまった。香月がこんな笑顔を見せるなんて、よほどクッキーが好きだったのかもしれない。いや、もしかしたら甘いお菓子全般が好きなのだろうか。
(今まで甘いもを食べている所を見たことがなかったから、知らなかった…)
また一つ、彼のことを知ることができて晶の胸はうずうずと落ち着かない気持ちになる。「知りたい」という欲望はどうやっても抑えられない人間の性なのだ。決して香月の秘密を探りたいわけではないが、こうやって意図しないところで知ることができるのは、存外嬉しいものだと晶はにやけそうになる頬を必死に抑えた。
その後おやすみの挨拶を交わし、ベッドに潜り込んだ晶は香月のキーボードを叩く音を聞きながら、布団の中でごそごそと携帯端末を取り出した。
(食べてくれたこと、糸ちゃんに伝えなきゃだけど…何て伝えよう?そのまま伝えたら傷つかないかな?)
メッセージ画面を開き、少し考えた後で短いメッセージを打ち込む。文章を確認した晶は送信ボタンを押し、端末の画面を閉じた。
薄暗い部屋の中で、先ほどの爽やかなお茶の香りが少し残っている。そっと香月の背中に目を向けた晶は、自分の胸が先ほどからずっと疼いているのを感じていた。
(香月さん、美味しそうに食べてくれた…良かった)
これは久しく感じていなかった感情だ。胸が温かくなると同時に、どこか落ち着きなく騒めいている。この感情に名前を付けるなら何だろうと考えながら、晶はゆっくりと目を閉じる。
この様子だと今夜はしばらく眠れそうにない。それでも、胸から溢れそうになるこの気持ちをギュッと抱いて眠るのも悪くない。そう思いながら、晶は布団を頭からかぶって自然と上がってしまう口角を隠した。
今日からゆっくり更新になります。




