返せるもの
「あれ?…ここは…」
気が付くと、晶は茜色の夕闇の中にひとり立っていた。
見渡せばそこは海沿いを走る国道の交差点で、見覚えのあり過ぎるその場所に気付いた晶の心臓は一瞬で凍り付く。
その交差点は、晶の父親が事故で亡くなった場所だった。
なぜ自分はここに立っているのか。晶は焦りのまま今までのことを思い出そうと必死に記憶を辿る。
「…えっと、確か公園で稲生さんの生霊と対峙して、それで攻撃を受けて…それからどうしたんだっけ…?」
一度目の攻撃は躱せたはずだが、その後が思い出せない。もしかするとまた攻撃を受けて気を失っているのだろうか。夢でもなければ、晶がこの場所に一人で立っている理由がわからない。
晶は混乱する頭を落ち着かせるために一度深呼吸をすると、ゆっくりと辺りを見回す。
鈍色に染まる曇天は今にも泣き出しそうで、薄闇の中で灯った街灯の下には萎びた青い花が、ひび割れたガラス瓶に挿されている。今目の前に見える光景は、いつも遠くから眺めていたものとほとんど違いはなかった。
そのうちに、本当に雨が降り出してきた。
(あの時と同じだ…)
あの日。雨の中で再会した父親に抱き着いて泣いたことは、今でもはっきりと思い出せる。香月のおかげで、晶は本当の意味で父親と別れることができた。その時、晶はもう大丈夫だと自分の中で区切りをつけたのだ。
それなのに、まだ自分はこの場所に囚われているというのか。
この交差点は晶にとって向こう側へ通じる境界のような場所だった。現に晶は父親の死後、その現実を受け入れられなくてこの場所に近付くことさえできなかったが、ここに来ることができれば父親が向こう側へと連れて行ってくれるかもしれないと期待もしていた。
(…でも、お父さんとちゃんとお別れできたんだから、もうこの場所に用はないはず)
これが夢ならば、早く目覚めなければ。そう思い、晶は交差点から離れるため、街灯に照らされたそこから暗がりに足を踏み出そうとした。
すると、途端に地面のアスファルトから黒い靄のようなものが立ち上がり、晶の足を絡めとるように纏わりついた。
「わっ…な、なにこれ!?」
その靄はあっという間に蛇の形を成すとスルリと足首に巻き付き、そのまま晶の脚を這い上がった。その冷たい鱗の感触にゾワリと肌を粟立てるのも束の間、一瞬にして全身を絡めとるように巻き付いてきた蛇に、晶は身動きが取れなくなる。
「やっ…く、苦しい…」
蛇の胴体に全身を締め上げられ、圧迫感に耐えられずにその場に倒れこむと、今度はがっちりと地面に縫い留められたように動けなくなった。
「…たす…け…っ」
苦しみのあまり助けを呼ぼうとするが、晶は思わず言葉を飲み込む。ここがもし晶の夢の世界なのだとしたら、ここにはきっと自分以外誰もおらず、助けに来てくれる存在など現れないのではないか。
そう思い至ると、途端に無力感に襲われ、晶は身体の力を抜く。これが香月の言い分を受け入れずに無謀な判断をした自分への報いなのかと思えば、乾いた笑いが込み上げてきた。
「…はははっ…バカだね私。やっぱり何もできなかった…」
無力な自分はただ周りに迷惑をかけただけで、自分の思いすら貫けない無責任な人間だった。自嘲するように独り言ちると、どういう訳か今まで痛いくらい締め上げてきていた蛇の拘束が、少しだけ緩んだことに気が付いた。
「…あれ?」
晶は藻掻くのをやめて全身の力を意識して抜いてみる。するとさらに拘束が緩んだ。どうやらこの蛇は晶が藻掻けば藻掻くほど締め上げてくるようだった。
拘束は解けないままだが圧迫感がなくなったことにほっと息を吐くと、さてここからどうするべきかと晶は考え始める。
この場所から出ようとしたらこうなったのだから、ずっとこのまま境界であるこの場所に留まらせるのが蛇の狙いなのだろうか。それとも、単純に晶を死に追いやりたいのか。
(このまま、死んじゃうのかな…私)
『死』という単語を思い浮かべた途端、視線の先にある街灯の明かりが届かない暗がりで、真っ黒な何かがポカリと口を開けたような気配がした。
(あ……あれは、入口…)
あの世へと続く深淵がその口を開いたことが、本能で分かった。常に自分の後ろに付き纏い、ふとした瞬間に口を開いてその機会を窺っていたそれが、今は大口を開けて晶のことを待っている。
普段は怖くて意識しないようにしていたその深淵が、今はちっとも怖く感じなくなっていた。
(…迷惑をかけるだけの人間は、もういない方がいいのかもね)
晶はじっとその暗がりを見つめる。少し身体をずらせば、たちまち堕ちていくだろうその先に、自分は最近まで憧れに似た気持ちを抱いていたのではなかったか。そこには寂しさも悲しみもなく、一人で泣く夜も来ない。
父と暮らしていたアパートで、夜な夜な羊の数を数えていた孤独な夜。寂しさと悲しみでどうにかなってしまいそうだった。
あそこに堕ちてしまえば、それらを二度と味わうこともないのだ。
(…でも…)
晶は心のどこかで躊躇する。今の自分は、そのどれも感じることなく日々を送ることができている。あれだけの寂しさも悲しみも成りを潜め、今この胸を占めるものの大半は、温かさと小さな灯のような熱だ。
それがどこから湧いてくるのかと自身に問えば、一人の顔が思い浮かんだ。
「…香月さん…」
これは、単なる憧れではなく、もっと別の感情だ。そう気づいたとき、無意識に身体に力が入った。
それに反応した蛇がまた晶のことを締め上げ、晶はそれに抵抗するよう力まかせに藻掻く。彼に貰ったものを、そのまま諦めてしまいたくなかった。前を向くための光と熱が、まだ晶の中に灯っている。それが消えない限り、晶は前を向いていくと決めたのだから。
「ううっ…くっ…!」
さらに増す圧迫感と苦しみに、晶は呻きながら足掻き続ける。その行為は、どこか生きることそのものに思えた。
晶は必死に身を捻りながら手足に力を入れて抵抗する。すると何とか右手だけが蛇の束縛を逃れて動かすことができるようになった。そのまま体に巻き付く蛇の胴体を掴んで剝ぎ取ろうとするが、その鱗は鋼でできているかのように硬質で、まるでびくともしない。
「くっ…!!」
さらに晶を押さえつけるように蛇が首にまで巻き付き、彼女の息の根を止めにかかる。気が遠くなるような苦しみの中、それでも諦めずに晶が爪を立てて格闘していると、どこからか砂利を踏むような足音が聞こえてきた。
(だ…れ…?おとう…さん…?)
ここは自分の深層心理の風景が映し出された夢の中の世界だと思っていた晶は、この境界の場所に現れる人物がいるならば、それは父親しかいないと思っていた。
これはもしかしたら、あの世からの迎えかもしれない。こちらに近付いてくる足音を聞きながら、苦しみに薄れゆく意識の中で晶は僅かに諦観する。
(ここまで足掻いたのに…やっぱり、ダメだったか…)
それでも父親が迎えに来てくれたなら、それも悪くない。そう思いながら、晶はこれまで必死に繋ぎとめていた意識を手放そうとした。
その瞬間、父親ではなく別の人物の声が間近で響いた。
「静野さん!!」
その声を聞いて、晶は切れそうになっていた意識を取り戻す。やがて暗闇から姿を現した香月の姿を目にした晶は、何とも都合のいい夢だと自分に呆れながらも目に涙を浮かべた。
「こう…づき、さ…ん…!」
迎えに来てくれたのは、父親ではなく香月だった。そのことがただ嬉しくて伸ばした手を、香月はしっかりと握り返した。そのひんやりとした体温に触れ、晶の視界はさらに滲む。
「静野さん、しっかり!…今助けるから」
普段よりも焦った様子の彼は、晶の手を握りながら彼女の状況を見て僅かに顔を顰めた。全身に絡みつく蛇を手で掴もうとするが、彼の手はするりと空を掴む。硬質な鱗を纏った蛇は、その姿が見えているのに何度掴もうとしても掴めなかった。
その事実に香月は苛立ったように舌打ちをする。
「そういうことか…これが呪い…」
「そん…な…っ」
意識が朦朧とする中、この呪いは香月にもどうにもできないのかもしれないと悟った晶は、身体の力を抜く。すると蛇の拘束が再び緩んで息苦しさが少し収まった。
晶は香月を見上げると、彼に今伝えておくべき言葉を口にする。
「香月さん…ごめんなさい。迷惑かけないって言ったのに…。これはきっと馬鹿な私への報いなので、このまま香月さんは馬鹿な私のことなど忘れて戻ってください」
「……は?…何て?」
眉を顰めて睨むような表情で聞き返す彼に、最後に珍しいものを見ることができたと少しだけ笑うと、晶は言葉を続けた。
「最後まで迷惑かけてごめんなさい…今まで本当にありがとうございました」
そう言い終わるや否や、晶は最後の力を振り絞って再び蛇に抵抗した。こんな場所で朽ちるまで彷徨うよりも、最後まで足掻いて死にたい。それが香月に示せる最後の誠意だと力の限り蛇に対抗すれば、それに応じて蛇の締め上げも容赦なく晶を襲い始める。
遠退きそうになる意識の中で、これが本当に最期になるだろうと晶が覚悟を決めた時、突然、その場の空気が変わった。
「……ざけるな」
地を這うような低い声に驚いて香月を見上げると、そこには冴え冴えとした色を湛えた瞳を向ける香月が、無表情のまま晶を見下ろしていた。
「こ…う…づき…さん…?」
苦しみに朦朧としながらも、晶の目をじっと見つめる香月がまるで別人のようで、晶は思わず息を吞む。すると、何を思ったのか彼は横たわっていた晶の身体にいきなり覆いかぶさってきた。
「!!」
晶を間近で見下ろす香月は、今まで見たこともないような鋭い眼差しで晶を射貫く。
―――許す訳ないだろ
彼が口を開いた訳ではないのに、チリチリと青い炎が揺らめく瞳にそう言われたような気がした。
初めて見る彼の表情に呆気にとられていると、香月は次第にその顔を晶に近付け始める。一体何をするのかと晶が身を固くした次の瞬間、彼は大きく口を開け、何と晶の喉元に嚙みついた。
「っ!!」
一瞬、自分の首に噛みつかれるのかと息を詰めた晶だったが、実際には晶の首に絡みついた蛇に香月は噛みついていた。驚くべきことに、先ほど手で掴めなかった蛇は香月に噛みつかれて断末魔の叫び声を上げている。
そのまま香月が蛇をかみ砕くようにその胴体を引き千切ると、蛇は聞くに堪えない叫び声をあげながら、やがて黒い靄になって消えていった。
全身の拘束が解かれ、息苦しさが消えた晶は咳込みながら息を吸い込み、体中に酸素を取り込む。
「ごほっ…!はぁっ…はぁっ…一体、何が…」
彼は一体何をしたのか。息を整えながら晶が香月を見上げると、彼も無表情のままじっと晶のことを見ていた。闇の中で煌めく瑠璃色の瞳はいつもの彼と同じものだが、その表情がまるで別人のようで、晶の胸に言いようのない不安が過る。
―――彼は一体、何者なのだろう?
「あ、あの…香月さん…?ありがとう、ございました……助かりました…」
とりあえず助けてもらった礼を言うと、晶に覆いかぶさったままの香月は目を閉じて長い長い息を吐く。しばらく黙って目を閉じていた彼は、その瑠璃色の目を開けると今度は先ほどとは打って変わって天使のような美しい笑みを浮かべた。
「…静野さん。また、危ない橋を渡ったね?」
「うっ…!」
最近見慣れてきた香月の美しい笑顔に、彼は本物だと安堵した途端、晶は言葉に詰まる。タマの加護だけを頼りに、力のある存在を相手にしようとしたことは自覚していた。でも、自分がやらなければ宮代の件はこのままずっと解決しないと思ったのだ。
「え~っと、その……これはですね…」
急いで言い訳を考えようと視線を彷徨わせていると、香月の笑顔の圧はだんだんと強くなっていく。心なしか顔も近付いてきていて、そこから逃れようにも気付けば香月の手ががっちりと晶の手首を拘束していた。
とうとう耐えられなくなって、晶は慌てて謝罪を口にする。
「ああああああのっ!すすすすみませんでしたっ!!」
「何が、『すみません』なのかな?」
美しい顔が間近に迫り、晶は別の意味でも狼狽える。少し顔を動かしただけでもどちらかの唇が触れてしまいそうな危うい距離に、晶の心臓は縮みあがった。
「えええっと、あのっ!一人で勝手な行動をして、また香月さんに迷惑を…」
「『また』?僕は今まで君に迷惑をかけられたことなんて一度もないんだけど?」
「…えっ?」
その言葉に目を見開いてぽかんとする晶に、香月は笑顔から一転して少し呆れたような目を向けてきた。やがてゆっくりと顔を離した彼は、ふーっと再び長いため息を吐くと晶の手首から手を離し、体を起こす。
身動きが取れるようになった晶は急いで半身を起こすと、その真意を問うべく彼のことをまじまじと見つめる。すると彼はそれを受けて苦虫を潰したような表情を浮かべながら続けた。
「…前回君が襲われた時、君は迷惑をかけたって恐縮してたけど、僕が何て言ったか覚えてる?」
「ええっと…」
あの時は、留守番を任されたのに屋敷への侵入者に襲われ、何もできないまま香月に助けられた。しかもそれは晶を狙っての犯行だったため、香月達にははた迷惑な事件だった。
晶は怯えて泣くばかりで、それを見かねた香月がずっと慰めてくれた。その時に「もう頑張らなくていい」とか、「僕を頼っていい」とか言ってくれたような気がするが、それを真に受けるほど晶の頭は能天気にはできていない。
「あれは、私を慰めるために言ってくれただけだって分かってます。本当にすみませ…!!」
謝るために頭を下げようとすると、突然頤を掴まれた。びっくりして彼の顔を見返すと、香月は先ほどまでの表情を消して再び無表情なまま晶をじっと見ている。
香月は晶の顔を上げさせると、その人形のような顔をぐっと近づけた。
「…聞き分けのない子だな。次が最後のチャンスだ。君が謝らなければいけないのは、何に対して?」
「っっ!!?」
いつになく強引な言動に、晶は戸惑いを通り越して混乱する。これでは紳士どころか恐喝する悪者のようではないか。
晶は場違いにも糸の笑い声を思いだした。相変わらず無表情な香月は、明らかに怒った空気を纏っている。ここで回答を間違えたら、一体どうなるのか。今の香月には何を仕出かすか分からない恐ろしさがあった。
晶は冷や汗を大量に流しながら、必死に頭を働かせて考える。確か前回は晶が危ないことをしたことで彼のブリザードを浴びた。そして今回それに加えて、彼が怒った原因が、もし彼の言葉を信じていなかった晶にあるのだとしたら……。
そう考えると、答えは意外とあっさり導き出された。
「ええっと…こ、香月さんを頼らないで、危ないことをしてごめんなさい…?」
「正解。よくできました」
そう言って香月は満面の笑みを浮かべると、その唇を晶の頬に寄せて軽く口付けた。
「っっっ!?!?!?」
彼は今、何をした?一瞬だけ何か柔らかいものが頬に触れたような気がするが、気のせいだろうか。ここで深く考えてはいけないような気がする。考えたら負けだ。キヌも言っていたではないか。香月は何も考えていないと。これは挨拶のようなもので、勢いでやってしまっただけで、彼にとってまったく深い意味はないのだ。
混乱する頭を無理やり鎮めようと奮闘する晶に構わず、香月は笑顔のまま立ち上がる。
「さて、静野さんが正しく反省したところで、今度こそちゃんと頼ってくれるよね?」
そう言いながら香月は手を差し伸べる。未だ混乱の最中にいた晶は、その大きな手を見て、ふと冷静さを取り戻した。
香月を頼るには、同じだけ頼られないといけない。そんな思いが頭を過り、その手を掴むことを躊躇させる。
「静野さん?」
焦れたように呼び掛ける香月に、晶は「これは夢の中かもしれないから」と頭で言い訳をして、思い切って胸の内を吐き出した。
「…私は、香月さんに頼るなら、同じだけ頼られたいんです!頼ってばかりで何も返せない自分が嫌で、あなたと対等でいたいんです!」
「…え?」
驚いたように動きを止めた香月に、晶は更に言葉を重ねる。
「何もかも香月さんに頼ってたら、きっと私はダメになります。あなたに依存して生きることになる。そんな自分が許せなくなる。だから、返せるものが見つからないと、あなたにこれ以上頼ることはできません」
今の環境はきっと、神様が与えてくれた人生のボーナスタイムだ。それに満足して与えられることが当たり前になったら、自分はきっと抜け出せなくなる。人生は等価交換だ。こんな何も持たない小娘が何を返せるのかと笑われるかもしれないが、与えられたものを返せない自分は許せなかった。
勢いに任せて胸の内を吐き出した晶は、言いたいことが言えてスッキリしたものの、今度は香月の反応が怖くなり思わず俯く。はっきりとした否定の言葉を投げてしまったが、彼はまた怒るだろうか。
様子を窺っていると、しばらくじっと晶の目を見つめたまま動きを止めていた香月が、やがて瞬き一つした後にぽつりと零した。
「僕は…実を言うと、君に頼られることで自分のことを救っていたんだ」
「…え…?」
その言葉の意味を計りかねて、晶は顔を上げる。すると香月は僅かに眉を寄せて苦しみに湛えるような顔を見せた。
「…誰かのことを救っている実感が欲しかったんだと思う。それで安心感を得たかった。だから、君に頼りにされることを殊更望んでいたんだ。…君が僕を頼ることは、結果的に君が僕を救うことになっていたんだよ」
「??…それって、どういう…」
彼の言葉に晶は混乱する。頼ることで、彼を救っていたなんて、一体どういうことだろう。理解が及ばず頭を捻る晶に、香月は表情を緩めて困ったような笑みを見せる。
「つまり、君が自分ばかりと嘆くことは一つもないんだ。僕たちは完全にフェアな関係だよ。…ただ、それで君が納得しないなら、僕のために一つ願いを聞いてもらえないか?」
「えっ?も、もちろん!私にできることなら!」
ずっと彼の役に立ちたいと思っていた晶は、その言葉に飛びつく。先ほどの彼の言い分は良く分からないが、労働を提供する以外に役立つことがあるなら、喜んで請け負うつもりだった。
「じゃあ、もし静野さんが嫌でなければ……夜は今のまま、僕と一緒に過ごしてほしい」
「…え?…そんなことで、良いんですか?」
拍子抜けした晶は、ポカンと香月の顔を見上げる。このタイミングで一緒に眠ることを望まれるとは思わなかった。
「ああ。君と一緒に眠ることで、僕は君が思っている以上に救われているんだよ」
そう言って柔らかい笑みを浮かべる香月の瞳に、嘘は無いように見えた。
「本当…ですか?」
「ああ」
ずっと一緒に眠ることで晶ばかりが得をしていると思っていた。香月に頼りすぎている自覚があったが、そうでもなかったと知って、晶はいつも心にあったモヤモヤした気持ちがスッと消えていくのを感じた。
もしかしたら、先日香月が怒っていた原因も、香月が晶と一緒に眠ることを望んでいたからだったのかもしれない。そう思い至ると、晶は自然と口角を上げた。
「そんなことなら、お安い御用です!」
喜色を浮かべた笑顔を向ける晶に、香月は眩しそうに目を細め頷くと、再びその手を差し出す。
「―――良かった。じゃあ、これで心置きなく僕を頼ってくれるね?」
改めてそう尋ねられた晶は、彼の大きな手を見つめる。その手に自分の手を重ね、ぎゅっと握った。
「はい。私を、助けてください!……ところで、これって夢オチですか?」
いい感じにまとまったものの、これが夢でした!では意味がない。今までの遣り取りが晶の作った都合のいい夢の可能性もあるので、確認のため恐る恐る香月に訊いてみた。
すると彼は笑顔で首を横に振る。
「いや?確かに、ここは静野さんの夢の中みたいなものだけど、僕の存在は現実だよ。―――ほら」
そう言って晶の腕を引いて彼女を立たせた香月は、その勢いのまま彼女を横抱きに抱き上げた。
途端に彼の纏う夜の香りに包まれて、ブワリと顔を赤く染めた晶は慌てて彼にしがみ付く。
「な!な!なんで!?お姫様抱っこ…!!」
「いいから、じっとしてて」
そう言いながら、香月は晶の赤くなった顔を見つめる。その煌めく瑠璃色の瞳と彼の纏う夜の香りが、彼を本物だと示していた。
(ほ、本当に本物だ…良かった…)
晶はドギマギしつつも、心の中で安堵の息を吐く。彼の腕と彼の香りに包まれることでこんなに落ち着けるなんて、自分でも信じられなかった。
相変わらず綺麗な彼の瞳は、いつもより少しだけ優しい色をしているような気がする。その瞳の虜になりながら、晶は温かなリズムを刻む胸を押さえた。
彼の瞳に時折映るあの濁った色なんかよりも、こちらの色の方をずっと見ていたい。この綺麗な瑠璃色がいつまでも素敵な色を映していればいいのにと勝手な願望を思い描きながら、晶は彼の瞳を見つめ続けた。
(…もしかすると、今はやっぱり極上の夢の中なのかもしれないな…)
やがていつものようにその瞳に囚われた晶は、そんな風に思いながら、意識を青色の世界に沈めていった。




