秘密
「来るかなぁ…」
あくる日、晶は麻衣と話をするべく、放課後に彼女を呼び出すことにした。
待ち合わせ場所に早く着いた晶は、落ち着かない気持ちのままきょろきょろと辺りを見回す。指定したのは人目に付き難い北校舎裏で、先日と同様に、校舎の壁に沿って設置された物置の前には使い古した机や椅子などの不用品が山のように積まれて雑然としていた。この場所は校舎の陰にあたるため、さらに陰鬱でうらびれた雰囲気もあり、あまり長居はしたくない場所だった。
(稲生さん、手紙読んでくれたかな…)
正直、殺されそうになった相手に昨日の今日で会いたくはなかったが、解決のためには何としても彼女の拘りを解き、蛇との関係を聞き出さなければいけない。晶は勇気を振り絞って彼女に呼び出しの手紙を書いたのだが、彼女は晶からの手紙にどんな反応を示しただろう。もしかすると、晶の無事を知って激高し、読む前から破り捨ててしまったかもしれない。あるいはとどめを刺そうと意気込んでやって来るのだろうか。
陰鬱な雰囲気も相まって先ほどから胸のざわめきが止まらない晶は、ソワソワと視線を彷徨わせる。すると、隣から落ち着いた低い声がした。
「静野さん。もし怖いようなら、離れて隠れていても大丈夫だよ?」
「い、いえ!大丈夫です!」
晶は慌てて隣に立つ人物を見上げる。そこには、晶に気遣わしげな視線を向ける香月の姿があった。
これも落ち着かない原因の一つで、彼は再びこの学校の生徒に扮して晶の手助けをするために来てくれたのだ。
晶の学校の制服に身を包んだ彼は、先日と同様、変装のために黒茶色の瞳に黒縁の眼鏡を掛けていた。その姿は一見普通の生徒に見えるが、やはり顔の美しさは隠しようもないらしく、彼の持つ独特の雰囲気が自然と人目を引いてしまっていた。
ならば彼の美しい顔を隠せばいいのかというとそうでもなく、たとえ顔を隠しても、そのスタイルの良さや立ち姿、仕草の一つ一つにオーラのようなものが滲み出てしまうらしい。その常人ならざる気配に周りの生徒たちの注目を浴びてしまいそうになり、晶は慌てて香月をここまで連れて来たのだった。
(マジで危なかった…前回の変装の時も思ったけど、何て言うか…香月さんってどんな格好をしても王子の風格?みたいなものが隠せてないよね…)
今回麻衣と対峙するにあたって、人気のない北校舎の裏を指定したもう一つの理由がこれだったのだが、この選択は間違っていなかったと晶はひとり胸を撫で下ろす。
(それにしても―――)
晶は隣に立つ香月をチラリと見遣る。自分とは違って、普段よりも口数が少なく落ち着いて構える香月の様子に、晶は先ほどからほんの少しの違和感を抱いていた。
(香月さん…何だか静かすぎるくらい静かだけど、どうしたんだろ?今朝はすごいギラギラしてて『殺る気』って感じで、かなり好戦的だったよね…?)
晶は思い出しながら内心首を捻る。
―――昨日、見事に眠らされた晶が次に目を覚ましたのは、今日の朝だった。
目覚めた直後、「おはよう」という声と共に気怠い様子で起き上がる彼の姿を見た途端、はだけた胸元と低く掠れた声がセクシー過ぎて、晶は起き抜けに盛大に鼻血を噴くという刺激的な朝を迎えた。
昨晩、晶の夢の世界で彼の願いを叶えると約束した手前、こうなることは覚悟していたつもりだった。しかし、いつ見ても見慣れぬ彼の寝起き姿を前に、果たして身が持つのだろうかと鼻血を流しながら一瞬だけ心許ない気持ちになったのもまた事実で。
でもそれが香月の頼みだというのならば、たとえ出血多量で瀕死になろうとも彼の願いを叶えようと改めて心に誓った朝だった。
そんな晶の決意を知ってか知らずか、香月は目覚めた時から心なしか上機嫌で、晶が鼻血と格闘している時いきなり、「じゃあ今日は約束した通り、静野さんに危害を加えた奴に思い知らせに行こうか」と眩しい笑顔で宣った。
それはもう神々しいまでにキラキラした、ともすればギラギラした笑顔で。あんなに攻撃的な笑顔を晶は初めて見た。
(…あの笑顔って今までのパターンからすると、やっぱり何かに怒ってたのかな?でも、この落差は一体…?)
未だに香月の怒りポイントが分かっていない晶の頭の中は、沢山の疑問符で溢れ返る。そんな好戦的だった彼は一体どこへ行ってしまったのか。彼は今、朝とはまるで別人のように落ち着いた様子で口数も少なく、ともすればどこか物憂げな雰囲気を漂わせていた。
晶への気遣いは変わらないものの、待ち合わせて出会ってから今まで必要以上の会話は殆どなく、今もどこか思慮深い眼差しで遠くの方を見つめている。晶はその落差がとても気になっていた。
晶の胸の内を現すように、周りに植えられている桜の木の葉が風に煽られてザワザワと音をたてる。それ以外は運動部の掛け声やボールを打つ乾いた音が時々風に乗って聞こえてくるだけで、辺りはやけに静まり返っていた。
しばらく二人の間に沈黙が続き、いい加減間が持たないと思った晶は思い切って口を開く。
「あ…あの、香月さん!ええっと、もし稲生さんが昨日のこととか、蛇について何も知らなかったとしたら、彼女のこと、どうすればいいんでしょう?」
香月の話によれば、麻衣の生霊は昨日晶を発見したときに彼によって本体に返されたという。あれだけ晶を悩ませた生霊を一体どうやって返したのかは気になるところだったが、これで晶への攻撃はひとまず成りを潜めるだろうと彼は言っていた。
しかし、晶を苦しめた蛇の呪いについては、その正体を突き止められなかったらしい。
晶は麻衣の生霊の腕に現れた蛇柄の模様を思い出す。もし彼女の方が蛇に操られていたとして、今までのことを自覚が無いままにやっていたのだとしたら、その柵を解いてやらない限り再び晶や宮代の周りに被害が及ぶだろう。彼女もある意味被害者と言えるが、無自覚の人間から本人も意識していない柵を解く方法などあるだろうか。
(…それとも、サイキック・アドバイザーの香月さんには、何か他に手があるのかな?)
そう思って訊いてみると、当の香月は晶と目線を合わせることなく、遠くを見つめたまま静かな笑みを浮かべる。
「…その子に自覚があろうとなかろうと、僕がやることは同じだから」
ぽつりと零されたその意味深な答えに、晶はキョトンとした顔を見せる。
「同じ?…一体、何を―—―」
再び晶が尋ねようとしたとき、校舎の角から誰かがやってくるのが視界の端に映った。晶が慌てて見返すとその姿は麻衣のもので、俯きがちに歩いて来る彼女の様子に晶はどこか違和感を持つ。
「あれ?稲生さん…?」
体調が悪いのか、ひどくゆっくりとして覚束ない彼女の足取りは見ていて危なっかしく、晶は思わず彼女に近づいた。
「稲生さん、大丈夫?」
警戒しながら近付く晶に、麻衣は気付いて顔を上げるも、その顔色は真っ青で今にも倒れそうに見えた。
「…静野さん、お待たせ。…ちょっと、昨日の夕方から調子悪くて…いつもの貧血かと思ってたんだけど…。それより、話って何?……っていうか、その人は?」
麻衣の声は弱々しいものの、晶の後ろからやってきた香月の顔を見て、少しだけ驚いたような表情を見せた。その顔は昨日のことで彼を警戒しているというよりも、彼の美貌に驚いて好奇の色が滲んだものに見える。
晶は香月と一瞬だけ目を合わせると、再び麻衣に向き直る。
「この人は私の…友達で、ちょっと手伝いに来てもらったの。あの、それで…話っていうのは…単刀直入に聞くけど、昨日の公園でのこと…稲生さんは覚えてる、よね?」
「…公園?何のこと?」
相変わらず顔色は悪いもののキョトンとした顔を見せる麻衣は、本当に心当たりがないように見えた。
(え、ホントに!?何にも覚えてないの!?…これじゃあ蛇の呪いについても…)
晶は思わず香月の顔を見上げる。すると、彼は表情を変えぬまま晶の肩を軽く引き、彼女の前に進み出た。
「…稲生さん…だっけ?君は昨日の夕方から体調がすぐれないみたいだけど、本当に心当たりはない?」
「え?…」
キョトンとする麻衣に、香月は目線だけで隣に立つ晶を示した。
「ここにいる静野さんは、昨日の夕方に何者かに襲われたんだ。彼女を邪魔に思う誰かが仕掛けたことなんだけど…そう、例えば宮代君に思いを寄せる誰かさんとかね」
言いながら、香月は目線を戻し麻衣の目を射貫く。その視線を受けて彼女はビクリと肩を揺らした。
「な、なんでそんなこと…あ、もしかして、美稀が…?」
顔を強張らせた麻衣に、香月は晶が今まで見たことのないような冷笑を浮かべた。
「そうやって、お友達の影でずっと宮代君のことを想い続けていたの?執着するくらいに?」
「え……何言ってるの?…私は別に、先輩のことなんて…」
元々悪かった顔色を更に白くしながら、麻衣は顔を引き攣らせて必死に否定の言葉を紡ぐ。二人の様子を固唾を飲んで見守っていた晶は、その時、麻衣が肩にかけていた鞄の何かを掴んでぎゅっと握ったことに気付いた。
(…あれは…)
それは、彼女が以前お守りだと言っていた布袋で、確か宮代と同じ神社のものだった。
(アレの中身は、宮代先輩と同じ蛇?…だとすると、やっぱり呪いはその神様の仕業ってこと?)
宮代の家が代々祀っている蛇の神が今回の黒幕で、その神が麻衣を操っていたということだろうか。しかしそうなると、その神が宮代の周りにいる女性ばかりを襲う理由が分からない。
それに何より、今回の対峙すべき相手が神だとしたら、いくら香月でも「思い知らせてやる」ことは不可能ではないだろうか。タマの時ようにその力を借りることはできたとしても、たかが人間が神と敵対して敵うはずがない。
晶がその事実に思い至り内心狼狽えていると、香月は何を思ったか突然麻衣に近付いた。
「ちょっと失礼」
「なっ、なに?」
驚いて身を引こうとした麻衣の腕を掴んだ香月は、掛けていた眼鏡を外して彼女の顔を間近で覗き込む。それに驚いたように目を見開いた麻衣は、やがてピタリと動きを止めた。
時間にしてほんの数秒間、香月に見つめられた彼女はまるで人形のように瞬き一つせずに香月の顔を見つめていた。その目は見惚れているというよりも、どこか遠くを見るようなぼんやりとした目線だった。
すると彼女は突然、糸が切れた様にがくりと膝から倒れ込んだ。
「!!い、稲生さん!?」
香月が咄嗟に彼女の体を支えたので怪我をすることはなかったものの、麻衣はまるで人形のように無抵抗に崩れ落ちた。晶が焦って様子を覗うと、麻衣は香月の腕の中で目を閉じたまま穏やかな呼吸を繰り返していて、一見して深い眠りに就いているように見える。
晶は何が起きたのかまったく分からず、不安げに香月の顔を見上げる。すると彼はその視線から逃れるようにその顔を俯かせ、気絶している麻衣の体を近くの物置の陰に凭れかけさせた。
「…このまましばらく眠った後、目が覚めたら彼女は宮代君への思いを失っているはずだよ」
「え…?」
言われた言葉の意味が一瞬理解できず、晶は呆然と香月を見返す。
「そ、それって……どういう…?」
「…心配しなくても、彼女の生活に支障が出ないようにしたし、宮代君への想いだけを綺麗に消したよ。だから、もう二度と君が彼女の生霊に襲われることはないはずだ」
つらつらと言葉を続ける香月に、晶は理解が追いつかない。彼は今、何と言った?
「ちょ、ちょっと待ってください!綺麗に消した…って、…それって、記憶を…消したってことですか…?」
自分で言葉にしても、まるで現実味がない。どこかのSF映画かファンタジー小説にありそうな設定だが、不思議と冗談だと思えないのは、香月ならそれが本当にできてしまうような気がしたからだ。
そんなことができる人間がいる訳ないと思う反面、今までの香月の不思議な言動を思い出すと、冗談とは思えない。徐々にそれが事実であるという実感が湧いてきて、晶は驚愕の眼差しで彼を見つめるしかなかった。
「…そんなこと、本当に出来るんですか…?」
思わず尋ねた晶に、香月は薄らと微笑んで見せる。その口元は笑みの形を取っているものの、瞳の奥に得も言われぬ濁りのようなものが見えて、晶は思わず息を詰めた。
「…ああ。僕は、人の深層心理に入り込むなんて造作もなく出来るんだ。そして記憶のデータを書き換えることも容易に出来る。―――これが、僕の秘密の一つ」
そう言って人差し指を口に当てた香月は綺麗な笑顔を見せる。
「記憶の…データを…?」
晶は頭の中が真っ白になりかけながら、香月の綺麗な笑顔をただ見つめる。人の記憶をまるで電子データをいじる様に簡単に操作できるなんて、そんなことが本当に可能なのか。そもそも本当に彼はそんなことが出来てしまうのか。
―――だとすれば、今、自分の頭の中にある記憶だって、もしかしたら―――
懐疑心が頭を擡げそうになり、晶は慌ててそれを打ち消す。
そんな晶を見つめる彼はずっと綺麗な笑顔のままだった。そのいつもと変わらない美しさが、どういう訳か今はいかにも作り物めいて見えて、晶は思わず背筋が冷たくなる。
(あ……)
その時、彼の瞳の中に仄暗い何かを感じ取った晶は、衝動的に彼の手を取った。
「じ、じゃあ!もしかして…今まで私のことを眠らせてくれたり、夢から助け出してくれたのも、その力のおかげってことですか!?」
「…え?」
晶の言葉が予想外だったのか、彼の顔は人形のような笑顔から途端に無表情に変わった。そのことに少しだけ安堵しつつ、晶はそのままの勢いで続ける。
「その力で私のことを何度も助けてくれたんですよね?本当にありがとうございます!おかげで、私は何度も救われました…考えれば考えるほど、感謝しかありません!」
そう言って晶は彼の手をぎゅっと握りしめる。その手はいつもよりもさらにひんやりとしていて、思わず不安になるくらい冷たかった。
香月が明かした彼の秘密は衝撃過ぎて、いまだにすべてを飲み込むことはできない。しかし先ほどの彼が見せた表情から、ここで反応を間違えたらきっと取り返しのつかないことになる。そんな風に感じた晶は、必死に彼の手を握りしめた。
当の香月は無表情のまま晶の顔を見つめた後、握られた手にゆっくりと視線を落とした。
「…怖くは…ないの?」
「え?」
周りの木々の騒めきに掻き消されそうなほど小さく零した彼は、その顔に薄らと笑みを張り付けている。そのどこか諦観の色が浮かんだ顔を見て、晶は何故か胸が締め付けられた。
「…僕はいつでも君の記憶を操作できる。そんな人間の近くには誰だって居たくはないはずだ。もしも君が無理をして―――」
「いいえ!!」
晶は香月の言葉を遮るように、大きな声で否定した。
「怖くは、ないです。…だって……香月さんは、私を救い出してくれた人だから」
晶は真っ直ぐに香月の目を見つめる。この言葉に嘘はないのだと彼に伝えるために。
「―――暗くて寂しくて怖い夜から救い出してくれたあなたを、怖いなんて思う訳ありません」
父親がいなくなってから、何度眠れぬ夜を過ごしただろう。毎夜毎夜数えた羊の数は夜空に見える星の数をとうに越してしまった。それでも明けない夜にずっと震えていた自分を救ってくれたのは、夜の香りを纏ったこの冷たい手の持ち主だ。彼が与えてくれた温かな灯がなければ、今頃晶はどうなっていたか分からない。
そんな彼を怖いなんて思う訳がない。たとえ彼に記憶を操作されていたとしても、今の
晶の命は香月が与えてくれたもので出来ているのだから、それを否定するなんて出来るはずがない。
そこで晶はハッと思い至った。
「…あっ!…でも、もし私が香月さんの秘密を知ったことで何か不都合があるなら、遠慮なく私の記憶を消してくれて構いませんから!」
「……え…?」
晶の言葉に香月は目を見開いたまま動きを止める。それに構わず晶は続けた。
「なので、ええっと…できれば私が邪魔になるまでは、このまま香月さんの元で、働かせてもらえませんか…?」
その時が来るまでに、晶は覚悟ができるだろうか。
こんな重大な秘密を知ってしまったからには、いつかは晶も記憶を消され、香月との出会い自体が無かったことにされるのかもしれない。その時、果たして自分は自力で立っていられるだろうか。彼の記憶が消されても、彼から貰った灯は消えないでいてくれるだろうか。
(消えちゃうのは…本当は嫌だけど…)
今の自分を動かしてくれているものが消える。その想像ができなくて、晶は不安な気持ちになり思わず俯く。すると、しばらく動きを止めて沈黙していた香月が、晶の手をゆっくりと握り返してきた。
「…君が…それで本当に良いなら、僕は構わないよ」
柔らかい声色に驚いて顔を上げた晶は、彼の顔を見た途端、心臓がひときわ大きな音を立てて跳ねたのが分かった。
今まで見たことのないほど柔らかな笑みを湛えて晶を見ていた香月の瞳は、穏やかな春の海辺のような色を湛えて揺れるように煌めき、少しだけ赤味の差した目尻と頬は彼の瑞々しい笑顔を鮮やかに彩っていた。
そのいつもの大人びた表情とは違う純粋な笑顔に、晶はただただ魅了される。
(香月さんって…こんなに無邪気に笑うこともあったんだ…)
作り物のような笑顔も美しいと思っていたが、今の笑顔の方が断然好きだ。そう思や否や、晶は慌てて自分に突っ込みを入れた。
(いやいやいや…好きって何だよ!王子に対して畏れ多いよ私!!)
呪いによって拘束された深層心理の世界で、晶は彼が自分にとって特別な存在なのだと自覚した。自覚はしたものの、それをどうこうするつもりはなく、想いを否定はしないが、あくまでそれは自分の中で完結させるべきものだと考えた。
一度はこの灯をすぐに消してしまおうかと思いはしたが、これもまた与えられた大切なものだと思い直し、そっと胸の奥底に仕舞うことを選んだ。
選んだからには表に出してはならない。有紀に指摘された通り、顔に出ないように気を付けなければと表情を改めると、それを見た香月は今度は少しだけ意地悪そうな顔になって、ニヤリと晶の顔を覗き込んだ。
「それじゃあ、静野さんに選択権を与えよう」
「え?せ、選択?」
「そう。今回、この稲生さんの記憶を消したことで取り敢えず君への被害は収まるはずだ。でも、君が宮代君との関わりを続ければ、またこの子と同じように白蛇に操られる女性が現れるかもしれない。―――そこで」
香月は晶の前で右手の人差し指と中指を二本立てて見せる。
「選ばせてあげる。このまま一生宮代君と関わらないようにするか、僕におねだりして黒幕をやっつけてもらうかを」
「おっ…おねだり!!?」
晶はいきなり選択を迫られ思わず固まる。何を言い出すのかこの王子は。
「そう。僕は君のナイトだから、君の望みは全て無条件で叶えてあげたい。でもそれでは君は対等じゃないから嫌だという。ならば、報酬を要求すればいいのかなと思って」
そう言って意地悪そうな笑みを浮かべて首を傾げる香月は、まるで美しい悪魔のようで、晶は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「そっ、そんな…おねだりって!?一体何をすれば…」
「僕も良く知らないんだけど、可愛く頼めば良いんじゃないかな?多分」
「た、多分!?」
自分でも良く知らないことを要求するなんて、この王子は何を考えているのだろうか。そもそもおねだりを知らないということ自体驚きだが、今はそれは置いておこう。
晶は考える。宮代と関わらないという選択肢は、本人も覚悟していたので不可能ではないだろう。でも、それだと何も解決しないまま、宮代は一生悩まされることになる。対して香月に頼ることを選ぶということは、「おねだり」は一時置いておくとして、香月が神と対峙する事になるわけで、それはかなり危険を伴うのではないだろうか。
「あの…香月さんは今回の黒幕について、その正体は分かっているんですか?」
「ああ、僕も君に協力すると言った手前、必要な情報は集めたからね。黒幕はどうやら宮代君の家系が代々宮司を務めている『厳島神社』に関係がある。糸が視えた蛇も、厳島神社に関係する神の化身が蛇だとされているから、もしかすると黒幕は神だったりするかもしれないね」
あっけらかんと話す香月に晶は驚愕の目を向ける。相手が神だとしても特に気負った様子を見せない彼には、何か勝算があるというのだろうか。
(それなら、香月さんに頼るしかない…よね?でも、おねだりって…)
正直、「おねだり」とはただ頼み事をするだけの事だと思っていた晶は、そこに「可愛く」を付け足されたことで頭が混乱してしまった。
「可愛い」とは一体何だろう。「可愛い」の概念を誰か教えてくれないだろうか。晶はぐるぐると混乱する頭の中で、今まで見てきた「可愛い」をものすごい勢いで反芻し始めた。小さい子供や動物の姿が多く思い出される中、数少ないながらも女性の可愛いとされる仕草が思い出され、それを真似すればいいのではと思い至る。
晶はゴクリと唾を飲み込んで覚悟を決める。緊張で震えそうになりながら、深く息を吸ってそれを吐くと、自然と赤くなった顔で再び香月の手を両手で握った。
「……あのっ、香月さん…香月さんの力で、その黒幕をやっつけてくれませんか…?お願いします」
そう言いながら、本来なら頭を下げるところを、晶はあえて首を傾げながら香月に目で訴えてみた。
「……」
晶は心底後悔した。これは可愛い女子がやってこそ効果がある仕草であって、自分のような芋女がやっても相手をドン引きさせるだけなのだと、後になって気付いたのだ。
(うわあぁぁぁぁぁぁっ!!これ全然可愛くなくない!?私がやってもダメじゃない!?)
現に香月は晶の顔を見つめたまま無表情で固まっている。完全に時が止まって彫刻のようになった彼の様子に、晶は後悔を通り越して申し訳なさが溢れかえってしまう。
「あわわわ!!香月さん!!す、すいませんでしたっ!!お見苦しいものを見せてしまって…」
晶は慌てて香月の目の前で掌を振る。さっきの衝撃で彼の脳機能を停止させていたらどうしよう。貴重な頭脳を壊死させてしまい、どう責任を取ればいいのかわからない。晶は彼の正気を取り戻そうと必死に手を振り続けた。
すると香月は右手で顔を覆い、そっぽを向くようにクルリと身体を反転させる。
「?香月…さん?あの、大丈夫ですか?」
「…うん」
か細い返事をした香月は軽く咳ばらいをすると、何を思ったかそのまま左手を上げて晶の頭の上に掌を置いた。
そしてそれを撫でるように動かし、優しく晶の頭に触れたのだった。




