その正体は
「この辺りなら、大丈夫かな」
夕闇の気配が濃くなってきた時刻。公園にやってきた晶は、人気のない一角にベンチを見つけると、そこに腰かけた。
高台にあるこの公園は見晴らしが良く、晶が座ったベンチからはちょうど夕暮れに沈む街の景色が一望できた。眼下に広がる街には明かりが灯り始め、その向こうには夕焼けを受けて茜色に染まる空と群青色の海が見える。
この場所は奥まった所にあるためか辺りに人の気配はなく、今はただ沈みゆく夕日を惜しむような虫たちの鳴き声と、風に揺れる木々の葉擦れの音が聞こえるだけだった。
時折吹く風に夜の気配が混じり始める。晶は心を落ち着かせるために息を深く吸うと、時間をかけてゆっくりと吐き出した。
(いよいよ、来る…)
先ほどからさらに強まった視線を受け、晶は覚悟を決める。麻衣と別れてからもあの刺すような視線はずっと付いて回っていたが、それがとうとう間近に迫って来たのが分かった。
(とにかく、まずは稲生さんを説得しよう…そしてあの蛇の正体だけでも掴まなきゃ…)
宮代の家が代々祀る蛇の神と彼女にはどんな繋がりがあるのか。彼女は本当に神をも使役する力のある人間なのか。そのあたりを上手く聞き出して説得できればいいが、果たして彼女はまともに話を聞いてくれるだろうか。
しばらくじっと息を詰めてその時を待っていると、刺すような視線の中に一際冷たい殺気の様なものが混じり始め、晶はゾクリと背筋を凍らせる。
急いで後ろを振り向くと、そこには燃えるような夕陽を背にして、真っ黒い人影のようなものが佇んでいた。
その影はじっと動かず、晶のことを見つめている。
「い、稲生…さん?」
試しに呼び掛けてみるも、返事は返ってこない。代わりにさらに強まる視線に、晶は全身が総毛立ち、無意識に身を固くした。
赤い夕陽を背にしたその足元から、まるで蛇のような影が伸びる。本能的な恐怖を感じた晶は思わず立ち上がり、その場から一歩退く。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られるが、晶は脚にぐっと力を入れ、何とかその場に留まった。
影はずっと動かないままこちらを見ていたが、やがて晶の耳にぶつぶつと小さな声が聞こえ始めた。
「……ンデ……タシジャ……ナノ?……ドウシテ……」
話しかけるというよりは独り言のように聞こえるその声は、だんだんと狂気じみてきて、やがて叫ぶような声に変わる。影の姿もはっきりと人間の女の子の形を取り始め、それは見覚えのあるものに変わった。
(……やっぱり…!!)
その影は完全に麻衣の姿になった。彼女は憎しみを込めた眼で晶のことを射貫くと、徐にその手を晶の方へ翳しながら叫ぶ。
「なんで?どうして私じゃないの!?どうしてこの女なのよっ!!」
「稲生さん!あなたずっと宮代先輩のこと…」
「そうよ!!ずっと好きだった…憧れだった!!あの人の目に映るのは、私以外考えられない!!あんたなんかじゃない!!私は認めない!!!先輩の前から消えろっ!!」
「!!」
普段の穏やかな表情とは一変し、まるで幽鬼のような顔で手を伸ばす麻衣から、目に見えない何かが放たれた。途端に晶は大きな風圧のようなものをもろに浴び、その衝撃で後ろに倒れ込む。
しかし、晶は尻もちをついただけで特に怪我を負うことはなかった。倒れる前に一瞬だけ身体が熱くなったが、どうやらタマの加護が働いたお陰で無傷でいられたらしい。
(よかった...!タマ様の力が上回った!ありがとうございます!!)
この守りがなければもっと吹き飛ばされていたか、どこか大怪我をしていた可能性もある。晶は心の中でタマに礼を言いつつ立ち上がって体勢を整えると、慎重に麻衣の生霊を見据えた。
「はぁっ…はぁっ…なんでっ!!?」
晶にダメージを与えられなかったことが余程腹に据えかねたのか、彼女は苛立ちを顕わにし、再び憎しみに顔を歪めた。さらに先ほどの攻撃で力を出し切ったのか、苦しそうに肩で息をしている。
その時、彼女の腕に何かの模様が浮かび上がったのが見えた。
(何?…あれは……鱗?)
良く見ると蛇の鱗のような模様がその腕に浮き出ている。それを見て晶はハッと気付いた。
もし麻衣が蛇を使役しているのなら、自身が動かずとも蛇を使って攻撃すれば良いはずだ。でも本人がこれほど苦しんでいるとなると、考えられることは―――
「稲生さん!!あなた、もしかして蛇に操られて―――」
「ソの通リダ、小賢しイ小娘め。オ前ナドこノ世かラ消えてシマウがよイ」
その聞き覚えのある奇妙な声を聞いた瞬間、晶は全身を締め上げられるような苦しさに襲われ、一瞬にしてその意識を手放した。
***
「このあたりじゃ」
宵闇に沈んだ公園を通り過ぎようとしたところで、車の窓から顔を出していた子供の姿のタマが声を上げた。それを聞いた堀越は、すぐに車速を緩めると公園脇の駐車スペースに車を滑り込ませる。
タマと香月は後部座席のドアを開けて急ぎ降り立つと、足早に公園の中に足を踏み入れる。入口の石に刻まれた『みはらし公園』という名から、ここが高台にある公園だと推測できるが、公園内はすでに夕闇に沈み、ぽつりぽつりと街路灯がついている以外はほとんど何も見えなかった。
香月は心の中で舌打ちをする。それなりに広い公園だということが覗えるが、この暗闇の中で彼女を探すのは更に時間を要するだろう。既にタマが香月に晶の異変を知らせてからこの場所を特定するまでにそれなりの時間を要してしまった。彼女が今どんな状況なのか知る術のない香月は、ただ手遅れにならないようにと願いながらタマに尋ねる。
「静野さんは、どのあたりにいる?」
「ちょっと待て…かなりわしの加護が薄れているらしくてな…多分こっちの方じゃ」
タマは走るように駆け出し、香月もその後に続く。遊具が設置されたエリアから木立が茂る植え込みを抜けると、やがて広々とした広場のような場所に出た。
広場の向こうに目をやると、夕焼けの残り火に照らされて薄らと浮かび上がる水平線と街の夜景が見える。広場の端の方には街路灯に照らされたベンチが並び、なるほどこの場所が『みはらし公園』の所以なのかと納得する。
タマはその中の一つを見定めると、何かを見つけたようにハッとして走る速度を速めた。香月も続いてベンチに近付いていくと、傍に誰かが倒れていることに気付く。
香月が手元の明かりで照らすと、それは晶だった。
「!!静野さん!!」
香月が咄嗟に抱き起こして声を掛けるも、晶はピクリとも動かない。香月がすぐに彼女の口に手を当てて呼吸を確かめるが、ちゃんと息はあった。そのことにホッとしたのも束の間、急に晶が苦しそうに呻き始め、その呼吸が荒くなっていく。
香月が晶の状態をよく見ようと目を凝らすと、微かに彼女の身体に巻き付く影のようなものが見えた。
「これは…」
「蛇の呪いじゃな」
タマが断言するように言うと、香月はタマの顔を見上げた。
「蛇の…呪い?それは――」
言いかけた時、何者かの気配を背後に感じ、香月とタマは同時に振り返って身構える。するとそこには、いつの間にいたのか暗闇に紛れるようにしてじっとこちらを見ている何者かの姿があった。
その姿は完全に人間の少女の形を取っているが、明らかに霊体だった。
「…その子、まだ苦しんでる?」
暗くてその顔までは判別できないが、その霊体の表情にはあからさまに喜色が浮かんでいた。楽しむ様な弾んだ声を聞いて、香月はこれが最近晶を苦しめていた生霊かと確信する。
「…この子に、何をした?」
「ふふふっ…目障りだったから消えてもらおうと思ったんだけど、案外しぶとくて…」
「何…?」
その時、再び晶が呻き声をあげた。苦し気に息を詰める彼女は、何かに抗うように微かに身を捩る。その顔には既に玉のような汗が浮き出ていた。
その様子に、生霊はますます燥ぐような声を上げた。
「だけど、そろそろ本当に消えちゃうかも?神様は私の願いを叶えてくれるはずだし。うふふ!これでやっと先輩は私を見てくれる…」
生霊はまるで夢を見るかのようにその目を細め、恍惚と言うに相応しい表情を見せる。
そんな生霊を静かに見定めた香月は、深く息を吐き、自分の中のスイッチを意識的に切り替えた。
「―――お前は、この子に何をした?」
彼が言葉を発したその瞬間、周りの空気がガラリと変わった
先ほどまで夜風に騒めいていた木々や虫たちの声さえピタリと止み、辺りは伏したように静まり返る。
まるで喉元に鋭利な刃物を突き付けられているような緊迫感の中で、彼の瑠璃色の瞳だけが怪しく瞬いていた。
浮かぶその表情は何の感情も窺えない無表情だが、睥睨するように目を細めて静かに相手を見据える香月の姿は、まさに畏怖という感情を想起させるものだった。
彼という存在から放たれる圧倒的な威圧感がその場を完全に支配していた。
「わっ…わた……私はっ…なにも…」
香月の視線を真っ向から受け、得も言われぬ恐怖に苛まれた生霊は、息も絶え絶えに言葉を絞り出す。
それに構わず、香月はさらに追い打ちをかける。
「―――もう一度聞く。この子に、何をした?」
爛々と輝く瑠璃色の瞳は、言い逃れを許さないとばかりに更に細められる。それを目にした彼女は恐慌し、震えながら言葉を重ねた。
「私じゃなくて…か、神様が…!」
「お前は、その神に何を願った?」
すでに呼吸さえ上手くできずに、言葉もまともに発せられないほど震えている生霊に対して、香月はさらに圧を強める。すると生霊はとうとう涙を流してその場にへたり込んだ。
「わ、私は…目障りなこの子に、き、消えろって…それで神様が、私の代わりに何かしたら、い、いきなり…倒れて…」
それを聞いて、香月の周りの空気が一層密度を増した。今やその瞳は冴え冴えとした真冬の満月のように冷たい光を湛えている。
「…『消えろ』と願ったと?」
「だ、だって…!先輩は…私の…い…いや…いやいや!!いやぁあああああああ!!!」
とうとう香月の重圧に耐えられなくなった生霊は狂った様に泣き叫び始める。次の瞬間、その体が弾けるように散り散りになり、やがてそれは闇の中に紛れて霧散した。
再び夜の静寂が戻ってきた頃合で、少女姿のタマがゴホンと咳ばらいを一つ落とす。
「…あ~あ、主殿はやはり怖いお人じゃったな。威圧だけで生霊を返しよった…。それに、この空気。わしまで窒息しそうじゃ」
そう言って彼女は辺りを見回す。香月は生霊と対峙しながらも、近くに別の獲物が潜んでいることを考慮して周辺一帯に重圧を掛けていたようで、その空気はタマでさえ息苦しくなるほどだった。
香月はタマの言葉に無言で息を吐く。すると場の空気が一瞬で元に戻った。
「…そんなことより、静野さんの呪いが解けていない」
香月が自身の腕の中に抱えた晶に目線を移すと、先ほどから気を失ったままの彼女はずっと苦しそうに呻いていて、その額から一筋汗が流れ落ちた。
「何も引っ掛からなかったところをみると、小娘に呪いをかけた張本人は既にこの場から姿を消した可能性が高いな…そうなると、ちと厄介かもしれんぞ」
タマが心配そうに晶を覗き込む。香月は黒いジャケットの内ポケットからハンカチを取り出すと、そっと彼女の額を拭った。そのまま彼女を連れて帰るために身体を抱え上げるが、そのあまりの冷たさに香月は顔を顰める。
「取り敢えず、急いで屋敷に連れて帰ろう」
香月たちから少し離れた公園の植え込みの陰で、ある者が一部始終を見ていた。
「あ、あ奴ハ…一体何者じゃ?…ワラわの傀儡ヲ、一瞬デ返シよった…」
真っ向から受けたわけではないのに、遠くにいても息が詰まるような重圧を食らい、その者は息も絶え絶えにその場から逃げ去る。
「ジャが…アノ女は、コのママわラワの呪いヲ受けテ死の淵ヲ彷徨い続ケルじゃロウ…ひっひっひっ…イイ気味ダ」
苦しみながらも愉悦の笑みを浮かべて忍び笑うその者は、ズルズルと身体を引きずりながら夜陰に紛れるようにその姿を消した。




