似非紳士
「やっぱり…犯人は中川美紀さんでしょうか?」
騒動に巻き込まれた生徒全員に帰宅の指示が出された後、戻ってきた宮代とともに昇降口を目指して廊下を歩いていた晶は、隣を歩く彼に先ほどの麻衣との会話の内容を掻い摘んで説明していた。
麻衣の話を聞いて晶の中でますます美稀が犯人である可能性が高まったが、宮代はどう思っただろうか。そう思い彼に問いかけると、宮代は考え込むように黙り込んでしまった。
(やっぱり、素人がどうにかできるなんて思い上がりだったのかな…)
そのまま無言で昇降口に辿り着いた二人は、靴を履き替えて外に出る。すると、途端に強い西日が照りつけてきて、晶は思わず目を細めた。
真夏よりはマシになったものの、いまだに焼き付くような暑さを感じる空気の中、晶は手で陽の光を遮りながら宮代と共に正門へと続くアプローチを進む。
「―――犯人、まだ特定されてないってさ」
「っていうか、その時間は誰も部室棟の二階にいなかったらしいよ?」
「なにそれ!じゃあ犯人は幽霊とかいうわけ?」
「うわっ!マジかよこわ〜っ!」
騒ぎの影響でグラウンド使用の部活も中止となり、校門前は帰宅の途に着く生徒たちで溢れかえっていた。聞こえてくるのはどれも今日の騒動の話題で、晶の心に重いものが圧し掛かる。
(もう、被害が私だけでは収まらなくなってきた…こうなると、早く犯人を突き止めないとさらに被害が広がっちゃうかも)
自分にしか被害はないと甘く考えていたら、結局事態を悪化させてしまった。今日の被害も、重傷者が出なかったのは運が良かっただけかもしれない。
晶は不安な気持ちで周りを見渡す。今のところあの視線は感じないが、この人混みの中でいつまた襲ってくるかもわからない。そう思うと、罪悪感と共に焦燥感が胸に募る。
西日を受けた木立の影がアプローチの上に伸びている。時折吹き付ける強い風に煽られてざわめく影と、どこからか響いて来る蜩の鳴く声に落ち着かない気持ちを持て余していると、今まで黙っていた宮代がようやく口を開いた。
「…俺も、気付かない振りしてたけど、やっぱ中川は特に俺に拘ってる気がするな…。でもあんなことになるなんて、未だに信じられないよ」
いつも陽気な彼には珍しく、厳しい表情で応える宮代は事件の後からずっと顔色が優れず、いまだにショックから立ち直れていない様子だった。晶が心配して見上げると、宮代は更に顔を顰めて「はぁ~」っと深い溜息を漏らす。
「でもどうすればいいんだ?…俺が中川のことをフればいいのか?でも、告白されてもいないのにそれはおかしいだろ?…ただの勘違い野郎になるかも…」
「それは…ないんじゃないですか?稲生さんも、中川さんは宮代先輩に夢中って言ってましたし…」
先ほどの麻衣との会話を思い出して晶が言うと、宮代は苦虫を潰したような顔をする。
「夢中って言っても、別にそれが恋って決まったわけじゃないよな?アイドルとか、二次元キャラにも夢中になるやつはいるんだし」
「た、確かに…」
言われてみると、現に晶は香月に対して似たような感情を抱いている。夢中とは認めたくないが、少なくとも『推し』認定している段階で、晶の中で彼に対する感情的な動きがあることは確かだ。
しかし香月に対して執着心があるかと言ったら否定できるし、彼が他の女性と一緒にいるところを想像してみても、特に汚い感情は湧いてこない。それに対して美稀の場合はもっとドロドロしたものがその目に宿っていたように思う。
(……あれ?)
美稀の瞳に宿る醜い感情の色を思い出すと、何か既視感のようなものを覚えた。しかしそれを思い出す前に宮代が再び重い溜息を吐いたことで、考えが霧散する。
「…でもまぁ、どんな夢中にせよ、俺に執着?してるなら可能性はあるよな。中川と話し合って解決できれば一番だけど、本人に自覚がなかったらまた同じことが起こるかもしれないし。まぁ…俺が逆に告白して、一旦付き合ってから別れるって方法もあるけど」
「…それは、お互いにとてつもなく不毛ですね…」
「でも、それで解決できるならそれが一番じゃない?俺が最低な男になって愛想つかされればいいんだから」
「そんな…」
無理をしておどけた様に言う宮代は、決してそんな事はしなそうなタイプに見える。麻衣の話では美稀は宮代の誠実さに惹かれたというようなことを言っていたので、その作戦は効果的ではありそうだが、果たして宮代が人格を曲げてまで不毛なことをする意味が本当にあるのだろうか。
どうにか別の方法で穏便に彼女の宮代に対する拘りを無くすことはできないものか。晶が考えながら帰宅の生徒たちの波に沿って校門を出ると、ふと何かが視界の隅に映った。
なんだろうと顔を上げてみると、すぐ目の前にある通りの反対車線の路肩に、見覚えのある黒塗りの高級車が停められているのが目についた。
「…あれ?もしかして…」
「?静野さん、どうした?」
突然立ち止まった晶に宮代が振り返るのと同時に、その車の運転席から見覚えのある男性が降りてきた。
「―――晶さん、ご無事でしたか」
「ほ、堀越さん!?一体どうしてここに!?」
道の向こうで彼女に向かって軽く手を上げて微笑む堀越の姿に、晶は思わず驚きの声を上げる。
その頭から爪先まで完璧に洗練された堀越の姿は、まるで映画から抜け出てきた往年の名優のように様になっていた。その証拠に、近くを歩いていた女子生徒や通行人の女性がチラチラと彼を見ながらその頬を赤く染めている。普段は更にアクの強い主人のせいで忘れがちだが、改めて屋敷の外で見ると堀越もまた常人には出せないオーラを持っていることに気付く。
(…普段は香月さんが人外すぎるから、感覚が鈍っていたのかも…。堀越さんもこうして改めて見るとかなり渋くて恰好良いよね…)
何故か顔を赤くしつつ、通りを渡って慌てて堀越の元に駆けつけた晶は、その後部座席に香月の姿を見つけて更に狼狽えた。
「え?え!?香月さんまで…どうかしたんですか?」
驚く晶に堀越は眉を下げて気遣う表情を向ける。
「実は…タマ様の守りが発動したとご本人から聞き及びまして、それで瑠依様が晶さんの無事を確かめたいとおっしゃったのです」
「タマ様が?」
確かに、ガラスの破片が降ってきても無傷だったのは、タマの加護が発動したおかげだったのだろう。でも、それがタマに直接伝わっていたとは知らなかった。
チラリと後部座席の香月の顔を見ると、彼は何も言わずに綺麗な笑みを浮かべたまま、晶のことをじっと見つめている。いつもなら見惚れるその笑顔が、何故だか今日は恐ろしく感じて、背筋がブルリと震えた。
(お…怒ってる…?)
晶の頭に昨晩のことがチラリと過ぎる。あの時の香月は一体何に怒っていたのか。その理由がいまだにわからない晶は、今朝の普段通りの彼の姿を見ても、その目がずっと同じ色をしているような気がして内心戦々恐々としていた。
今の香月にもどこか昨夜と同じ雰囲気を感じて、晶は慌てて頭を下げる。
「わ、わざわざありがとうございます!…いろいろありましたが、こうして何とか無事でした」
礼を述べて無事を示して見せた晶に、香月はゆっくりと頷いた。
「…それなら良かった。じゃあ、帰ろうか」
作り物のような綺麗な笑顔のまま言う香月に、晶は少し緊張しながら「ちょっと待っててください」と言い置くと、素早く踵を返して宮代の元へと戻る。
「宮代先輩!すみません…。今日はここで失礼します。私も明日までに中川さんをどうすればいいか考えてきますね!」
「え?あ、うん、わかった。俺も良く考えてくるよ。…それにしても、あの人は静野さんのお父さん?随分格好良いけど…」
宮代は校門の傍で晶たちの様子を見ていたようで、父親にしてはオーラがあり過ぎる堀越の存在に違和感を持ったのか、不思議そうに彼を見ていた。そんな宮代に晶は思わず吹き出す。
「ふふっ…いいえ、あの人はバイト先の上司ですよ。じゃあ先輩、また明日よろしくお願いします」
「ええ?あ、おお!…じゃあまた」
晶の言葉に驚いた顔を見せた宮代に手を振って別れると、晶はすぐに二人の待つ車へと戻る。堀越が晶のために開けてくれた後部座席のドアの奥では、香月が笑顔のまま頬杖をついて晶を待っていた。
「失礼します。…お待たせしてすいませんでした」
内心、ひどく落ち着かない気持ちで隣に乗り込むと、香月は困ったような笑顔で首を振る。
「いや、こっちが勝手に迎えに来ただけだから、気にしないで。それに、余計なお世話だったかなと反省していたところ」
「え?」
思わぬ言葉に晶がキョトンとすると、香月は優雅に首を傾け、窓の外に視線を流した。
「…さっきの彼、例の生霊の被害者だよね。僕は作戦の邪魔をしたかな?」
彼の視線の先を追うと、宮代がこちらの車を気にしながら歩き始めるところだった。
「あ…いえ!そんなことないです!…それに、作戦は思った以上に効果がありすぎまして…」
晶が言い淀むと、香月はすぐに視線を戻して眉を寄せる。
「どういうこと?」
「ええっと―――」
走り出した車内で、晶は香月に今日起こった件について話をした。犯人の目星についても中川美稀でほぼ確定だがまだ決定打に欠けることを伝え、ついでにずっとモヤモヤしている自分の考えを口にする。
「―――でも、彼女の拘りを失くすって言うことは、好きな人を忘れさせるってことですよね?それって簡単なことじゃないと思うし、それに、人を好きになることは悪いことじゃないのに…無意識でやっているのだとしたら、彼女も何だか可哀想に思えて…」
近付く女性を恨み呪うくらい相手のことを好きになるなんて、今の晶には理解できない。でも、それほど激しい情熱を持って相手を想うような恋ができるのは、ほんの少しだけ羨ましい様な気もした。
「宮代先輩が彼女を好きになれば解決できるかもしれないですけど、こうなってしまってはそれも難しそうですし…。それで、あの…昨日あんな啖呵を切っておいて大変恐縮なのですが…香月さんに何かいい案がないかご相談したくて…」
香月に迷惑を掛けないと決めたばかりだったが、今日の出来事で事態の悪化を感じ取った晶は、これ以上周りの無関係な人々を巻き込まないためにも四の五の言っていられなかった。これでもし香月に返さなければいけない恩が増えたとしても、自分がその分頑張って返していけば良いだけだ。晶は永久雇用も辞さない覚悟で香月に頼る決断をした。
(でもやっぱり、都合が良すぎるかな…?)
恐々と香月の様子を窺うと、彼は少し目を見開いた後、すぐにその目元を柔らかくして僅かに口角を上げた。その表情に喜色の様なものを感じ取った晶は、心の中で「はて?」と首を傾げる。
「…君の頼みなら、僕はいくらでも相談に乗るよ。だって僕は、君のナイトのつもりだからね」
そう言うなり、香月は流れるような動作で晶の右手を取ると、その甲に軽く口付けを落とす。
(!!!…や…やられた!!)
そのあまりの速さに、晶は呆気にとられつつも顔を真っ赤に染めて言葉に詰まる。
彼に手の甲にキスをされるのは初めてではなかったが、久しぶりだったので気を抜いていたことが悔やまれた。こうされると晶はどんな反応を返せばいいのか分からなくなるから苦手で、今までは事前に察知してできるだけ回避してきたのだ。
(これは、『推し』のファンサービスとしては許容範囲を超えてると思う…!)
少しだけ恨みがましい目を香月に向けると、彼は楽しそうに笑ってから軽く首を傾げる。
「そうだね…静野さんの話を聞く限りでは、その中川さんが犯人だとしてどうにか宮代君への拘りを解いたとしても、また別の女性が同じようになる可能性が高いと思うな」
「えっ?…ど、どういうことですか?」
「…彼が以前仲良くなった女の子も、静野さんと似たような経験をしているんだよね?…今回の犯人とされている中川さんが宮代君に執着を見せるようになったのは高校からではなかったかな」
「あ…確かに…」
晶は麻衣との会話を思い出す。彼女は美稀が中学時代、同級生の男子に熱を入れていたと言っていた。しかしそれだと辻褄が合わない。もしかして美稀の前にも宮代に執着していた人物がいて、その人物も同じように生霊を飛ばして彼と仲良くなった女の子を襲ったということだろうか。
「…でもそれだと変ですよね?生霊って誰でも簡単に飛ばせるものなんですか?」
その問いに、香月は少し考える様に顎に手を添えて宙を見つめたまま続けた。
「いや、一般人ではよっぽどの強い想いがない限り難しいのではないかな。でも、何らかの力が作用すれば或いは可能なのかもしれない。…というのも、静野さんを襲った生霊だけど、本来なら生霊は相手に付き纏って精神的に追い詰めるくらいしかできないはずなんだ。今回のように、人を突き飛ばしたり物を動かしたり壊したりする例を僕はあまり聞いたことがない」
「え…そうなんですか?」
「うん。もしそんなことができる生霊がいるとするなら、その生霊は…例えば力のある何者かが故意に飛ばしているか、もしくはその者に使役されている可能性がある」
「『使役』って…操られているってことですか?」
「そう。まだ確証はないけど、どちらにしてもその何者かが今回の黒幕の可能性はある。でも、他者の生霊を使役するなんて普通の人間にできる芸当じゃない。もしもそんな人物が昔から宮代君の周りにいてずっと彼に執着しているとすれば、かなり厄介なことになりそうだ」
話がややこしくなってきて、晶は声に出して整理してみた。
「ええっと、つまり?…宮代先輩に執着している力を持った人物が、自分の生霊か宮代先輩に想いを寄せる女性の生霊を使って、宮代先輩の周りにいる別の女性を攻撃しているってことですか?…ちょっと意味が分かりません…。何でそんな遠回しなことをするんでしょう?」
そんなに強い想いを寄せているなら、直接宮代にアタックすれば良いのではないか。それが怖くてこんな嫌がらせを続けてるというのならかなり迷惑な話だ。現にこちらは死の危険まで味わっているのだからたまったものではないと晶は思う。
「確かにね。そんな力を持つ人間なら、想う相手にこんなまどろっこしい手段を使わなくても、己の持てる力を使って相手を思いのままにできるだろうし」
「…え?」
そんなことが本当に出来てしまうのか。俄には信じがたくて晶が思わず彼を見つめると、香月はそれを受けて美しい瑠璃色の瞳を細めて嗤う。そんな彼の表情を見て、晶は何故かゾクリと背筋が寒くなった。
香月の表情は笑顔のはずなのに、どこか仄暗さを纏っていて、そこに薄ら寒い何かが身を潜めているような気がして晶は本能的に目を逸らしてしまう。
そんな晶を見てクスリと笑った香月は、「或いは…」と話を続ける。
「その力ある人物は正体を隠したいのか、もしかしたら何か制約があるのかもしれないな」
「え…制約?それって…どんな?」
先程感じた恐怖心を振り払うようにして尋ねると、香月の方もいつも通りの穏やかな表情に戻って首を少し傾げた。
「そうだな…これは憶測でしかないけど、宮代君本人に強い加護がついているから、犯人の力では振り向かせることができないとか…それで邪魔だと思う女性を攻撃することしかできない」
その言葉に、晶は思い当たる節があった。
「そっ…そういえば!関係あるかは分かりませんが、宮代先輩と一緒にいる時にあの刺すような視線はほとんど感じませんでした!これって、つまり…その加護のおかげってことになるんでしょうか?」
「ああ、その可能性はあるかもしれないね。或いは、ただ単純にその力を持った何者かが宮代君に危害を加えないようにしていたのかもしれないけど」
「た、確かに…」
晶は無意識にポケットの上から真珠のバレッタの存在を確かめる。タマの加護がついたこの真珠はこれまで幾度も晶を守ってくれた。宮代にも同じように加護があるとしたら、一体どんなものだろうか。
その時ふと、宮代がトイレの幽霊の存在に怯えていた時に握っていたお守りのことを思い出した。肌身離さず持ち歩いていると言っていたそれは、確か、誕生石でできた根付だと言っていた。
「…もしかして、あのお守りに加護が?確か九月の誕生石って…サファイアだっけ?」
「サファイアがどうかした?」
ぶつぶつと独り言を呟く晶を不思議そうに見る香月に、晶は説明する。
「えっと確か…宮代先輩が持ち歩いているお守りが、誕生石のサファイアでできたものらしいんです。それが強力な加護だったりするのかなぁって」
「…そうなんだ。サファイアの主な石言葉は、『誠実』『慈愛』『忠実』『真実』『徳望』だったかな。揺るぎない心、一途な愛、冷静な判断力を象徴する石だといわれているね」
「『誠実』に『徳望』…先輩にぴったりだ…」
まだ短い付き合いだが、宮代の誠実さは話していれば分かるし、そこに惹かれた美稀のような女の子もきっと多いのだろう。それに、彼から滲み出る人望のようなものは、彼を人気者にしている要因だ。それが石の力なのか、彼本来の気質なのかはわからないが、まさに彼にぴったりな石のように思えた。
そんなことを考えていると、隣からどこかヒンヤリとした空気が流れてくる。何だろうと晶が顔を上げて隣の香月を見ると、彼は何故かまた綺麗な笑顔に戻って晶を見ていた。
「えっ!?…どうかしましたか?」
「いや?何でもないよ。とにかく、いろいろ話したけど僕としてはやはり、静野さんが宮代君に関わらなければいいという結論になるかな」
「ええっ!?そんな…」
突き放すような言葉に、晶は再びショックを受ける。香月には昨夜もこのまま引き下がれないと話したばかりなのに、ここまできてもやはり彼は宮代を見捨てろと言うのか。
悲愴な顔を見せる晶に、香月は笑顔のままで問うように首を傾げた。
「今回の件は、明らかに力のある何者かが関わっていると考えられる。つまり、その力ある存在をどうにかしなければ解決しない。そんな相手を君と宮代君でどうにかできると思う?」
「それは…」
晶は言葉に詰まる。晶は少し霊が見えるようになっただけのただの一般人だ。とてもではないがそんな力を持つ人物と対等に遣り合えるわけがない。
「静野さんが今後彼と関わらなければ、君にも、今回のように周りにも危害が及ぶことは当分ない。これが今、君たちにできる最良の解決策だと思うけど?」
「…でも、それじゃあまたいつか、先輩の周りの女性が被害に遭うってことですよね?…そんなの、先輩が悪いわけじゃないのに、ずっとこのまま好きな人も作れないなんて…」
やはり、自分たちの力では解決できないのか。諦観の思いで俯きかけた晶はハッと思いつく。
それなら香月に依頼という形で解決を頼んでみたらどうだろうか。依頼料を払えば彼ならどうにかしてくれるかもしれない。果たして依頼料はどれくらいだろう。晶に払える額で請け負ってくれるだろうか。そう考え始めた途端、香月が笑顔のまま口を開く。
「……僕は、君に害さえなければそれでいい」
「え…?」
晶は思わず香月を見返す。低く冷たく響いたその声は本当に彼から発せられたものだろうか。今の彼が見せる表情とは真逆の印象に、晶は信じられない気持ちで彼の綺麗な笑顔を見つめた。
「僕に迷惑をかけたくないのなら、君は宮代君と離れて自分の安全を確保するべきだね」
これ以上ないくらいの美しい笑顔を見せながら、香月は深い海を映したような瑠璃色の瞳を細めてそう言い捨てた。
***
「はぁ~…」
溜息を吐きながら、晶はせっせと箒を動かし、それほど汚れてもいないエントランスのタイルの上を掃く。
夕食の準備に取り掛かる前、晶は空いた時間を屋敷の玄関の掃き掃除に費やすことにした。悩み事がある時は身体を動かした方がいいと何かで聞いたことのある晶は、今まさにそれを実践してみているものの、先ほどから必死に身体を動かしていても頭の中のモヤモヤはいつまで経っても晴れる気配を見せない。
今までは父親に相談すれば大体のことは解決の目途が立ち、その日は心安らかに眠れたものだが、今は相談相手にさらに悩まされるという状況で、このままではいくら美しい子守唄を聴いたとしても今日は眠れる気がしない。しかもその悩みの種である人物と同じ部屋で眠るのだから、堪ったものではない。
「まぁ、香月さんの言うことは間違ってないよ?でもさ、こう…人情?みたいなものが…」
「晶ちゃん、どうかしまして?」
「うわっ!」
いきなり声を掛けられ、驚いた晶は箒を取り落とす。ぶつぶつと独り言を呟きながら一人の世界に入り込んでいた晶は、背後から近づく気配に気付かなかった。
あわてて振り向くと、そこには世にも美しい妖精、ではなく香月の婚約者で晶の友人でもある百鬼糸が立っていた。
「い、糸ちゃん!!」
「ごきげんよう、晶ちゃん。お仕事に精が出ますわね」
長いまつ毛に縁取られた黒曜石のような瞳を細めて笑う彼女は、スラリと姿勢の良い立ち姿に着物が似合う和風美人で、紺青色に桔梗と月の柄が入った単衣の着物姿は正に秋の夜に現れた精霊のようだった。
いつもは緩めに編み込まれている艷やかな黒髪が今日はきっちりと結い上げられていて、装いに合わせたメイクもばっちり施されていた。それだけで普段より大人っぽく豪華な印象を与える彼女は、正に美人の上位互換のような存在だ。
彼女にかかれば、たとえジャージ姿だろうと作業着姿だろうと気品ある装いとして見えそうだが、こうして見るとやはり彼女の魅力を最大限引き出せるのは和装なのかもしれないと妙に納得する。
「晶ちゃん?大丈夫?」
彼女に見惚れたまま呆けた顔で黙った晶を、糸は心配そうに覗き込む。それにハッと正気を戻した晶は慌てて手を振った。
「ごごごめん!ちょっといきなりでびっくりしちゃって…糸ちゃんようこそ!今日は香月さんに会いに来たの?」
訊かれた糸は、紅の差された口元を白魚の様な手で覆い、女神の様な顔で笑った。
「ふふふっ、いいえ、今日は賭けの清算のために参りましたの」
「え…あっ、そっか!」
糸とは香月が晶の手作りクッキーを食べるかどうかの賭けをしていたのだった。彼が食べれば糸の勝ちで、食べなければ晶の勝ちだったのだが、彼は先日お茶のお供に手作りクッキーを食べてくれたので、晶が賭けに負けた結果になった。その旨を糸にメッセージで送っていたのだが、晶はそれをすっかり忘れていた。
晶は糸が香月に対してどんな感情を抱いているのか未だに掴みかねている。以前は香月のことを便宜上の婚約者と話していたが、それは表向きで、本当は彼のことを少なからず想っているのかもしれないと晶は何となく察していた。
だから晶は慎重に、至極真面目な顔で糸にフォローを入れる。
「…糸ちゃん、あのね?香月さんは私が作ったクッキーを食べてくれたけど、香月さんならきっと他の誰かが作ったものでも食べてくれたと思うよ?だって…紳士だから」
先ほどの彼とのやり取りから、香月のことを素直に『優しい』と評す事ができなくなってしまった晶は、複雑な思いを抱きながらも二人の仲を取り持つために慎重に言葉を選んで糸に伝える。
すると、その美しい顔を可愛らしくキョトンとさせた糸が、次の瞬間盛大に吹き出した。
「ぶっふふっ!!…くくっ…晶ちゃん…ごめんなさ…うっふふふっ!!!」
口を押さえて必死に笑いを堪えようとするその姿に、今度は晶がキョトンとする。何がそんなに彼女のツボだったのか分からず、晶は首を捻りながら、珍しい糸の姿を見守るしかなかった。
「…そんなにウケるなんて、私何かおかしいこと言った?」
彼女の笑いが収まってきた頃にそう尋ねると、糸は「はぁ〜楽しい」と本当に可笑しそうに目尻に溜まった涙を指で拭った。
「いつ振りかしら?こんなに可笑しいのは…。いえね、あの人が紳士だなんて言われる日が来るなんてと思ったら…うふふっ!」
「ええっ?…だって、香月さんこそ紳士って感じじゃないの?」
彼の立ち振る舞いからその言動に至るまで、晶の中では香月は紳士と言われる部類に入ると思っていた。でも、晶は本物の紳士に会ったことはないので、正解はわからない。糸に言わせてみれば香月は違うのだろうか。
「まぁ、ある意味では間違っていないのでしょうけど…でも、あの人、ちょっと人でなしなところがあるでしょ?」
「!!」
まさに今そのことで悩んでいた晶は、驚きすぎてまじまじと糸を見つめてしまう。やはり、糸は幼馴染で婚約者なだけあって香月の性格を把握しているのだろう。晶には糸が悩める子羊を救うために来た女神のように見えてきた。
晶は思わず両手の指を組んで祈るように糸の前に跪いて懇願する。
「糸ちゃ〜ん!!…ちょっと私の話を聞いてくださいませんか?」
***
とりあえず場所を移すために糸を客間に案内した晶は、厨房に下りて夕食の準備をしていた堀越に糸の来訪を伝えた。突然の報告に驚いた様子の堀越は、急ぎお茶の準備を整えた後で晶に接待を任せ、自分は香月に伝えてくると足早に地下の仕事部屋へ向かっていった。
「お待たせしました」
糸の待つ部屋まで戻ってきた晶は、ティーセットをテーブルに置くと心の中で気合を入れ、慎重にお茶を淹れ始める。堀越から教わって手順は完璧に覚えたが、美味しく淹れることができるかはまだ自信が無い。何度淹れても堀越が淹れるお茶に及ばず、その度に晶は首を捻っていた。
「今日は美味しく淹れられますように…」
思わず口に出してしまうと、晶の様子を見ていた糸が忍び笑いを漏らした。
「晶ちゃんが淹れてくれたお茶ですもの。美味しいに決まっていますわ」
そう言って可愛いらしく笑う糸は、友達の相談に乗るのが初めてらしく、どこか嬉しそうにしている。そんな糸に苦笑しつつ、晶は「どうぞ」と淹れたてのお茶を糸の前に置く。
糸は美しい所作でティーカップを持ち上げると、口元へと運ぶ。晶は緊張しながら彼女の動作を見守っていると、一口お茶を飲んだ糸がニコリと笑顔を見せた。
「…うん。美味しいわ。ありがとう、晶ちゃん」
「良かった〜…糸ちゃんに合格点貰えたなら、自信持っちゃう」
糸のお褒めの言葉に胸を撫で下ろした晶は、自分もティーカップを持って糸の隣に座る。本来なら使用人が客人の前で寛ぐなんてしてはいけないことだが、糸は今日、友達として晶に会いに来てくれたので遠慮はしなかった。糸も心なしか晶が隣に座ったことを喜んでいる様に見える。
しばしお茶を楽しみながら他愛ないお喋りをする二人だったが、いよいよ本題に入るべく晶が口を開いた。
「それでね…聞いてもらいたい話っていうのは、今私の周りで起きていることで―――」
晶は事の詳細を糸に話し、先ほどの香月の反応についても言及した。話を聞いた糸は、少し考えるように間を置いてから、じっと晶の顔を見つめる。
「…晶ちゃんの話は分かったわ。わたくしは瑠依様の言い分も尤もだと思う。言い方は悪くなってしまうけど、力のない晶ちゃんがどうにかできるようなものではなさそうだし、もし下手に手を出して取り返しのつかないことになっては恐ろしいもの」
「そう、だよね…それはそうなんだけど…」
自分もどこかで香月の言い分が一番正しいと理解していた。でも、晶の中でそれに納得できない部分が大きく膨らんで、持て余してしまっているのだ。
煮え切らない返事をする晶に、糸は優しい笑みを見せる。
「でも、晶ちゃんの気持ちも理解できるし、人としてそれは正しいと思うの。苦しんでいる相手を見過ごせないっていう晶ちゃんの思いは、本来人が持つべき美点だと思うわ。瑠依様は何というか…物事を合理的に考えすぎるから、人として冷たいように感じるのよね」
言われて、晶はハッと糸の顔を見る。晶にとっては初めて見る香月の冷めた部分だったが、糸は当然のように彼を冷たいと評したことに驚いた。晶がその本性を掴みかねている香月は、婚約者で幼馴染の糸の前では本来の姿を見せているのだろう。そのことに少しだけ胸の奥が波立つような感覚を覚えたが、晶は気のせいだと思い込む。
「けど、それは晶ちゃんを守るための最善だと考えての事だと思うの。だから、彼のことをあまり誤解しないであげてね」
「誤解だなんて…確かに言い方にはびっくりしたけど、自分でも頭では香月さんの言い分は正しいって分かってたから」
糸に話を聞いてもらって、やはり香月の言い分が間違っていないことを納得することができたし、自分の言い分も認めてもらえたことで大分心のモヤモヤが落ち着いた。でも、いまだに正体不明の心の曇りが残っている気がする。
晶が心の中で首を傾げていると、糸も同じように首を傾げた。
「…晶ちゃんは、瑠依様の冷たい言葉に傷ついていたの?」
「え…?」
思いもよらない指摘に、晶は戸惑いの目を糸に向けた。
「今日は何だか少し元気がないし、話の内容からそうなんじゃないかって思って。それとも、他にも何かあった?」
「ええっと…」
晶は糸に指摘されて、改めて自分が何に落ち込んでいるのか考える。もちろん決定打は先ほど突き放すようなことを言われたことだが、それ以外にも彼に対して何か思うところがあっただろうか。晶はここ最近の彼とのやり取りを思い返す。
「…そうだ。最近、ちょっと香月さんが怒っている様な気がして…でも、私が何をして怒らせちゃったのかが分からなくて、それで落ち込んでたのかも」
明らかに不機嫌な態度を取られた訳ではないし、晶の気のせいかもしれない。それでも、この一か月を過ごしてきて、いつもと違うことが分かる位には彼のことが分かってきたと思う。
(それでも、ほんの少しだけだけどね)
心の中で一人呟くと、ますます気分が沈んできた。思わず溜息を吐く晶に、糸は穏やかな笑みで訊く。
「…それは、雇用主のご機嫌を損ねたという仕事上のミスで落ち込んでいるのかしら?」
「…え?」
言われたことの意味が上手く咀嚼できず、晶は呆けたような顔を晒す。仕事上のミスと言われ、それは違うと咄嗟に思ったが、ではどう違うのかと問われれば返答に困る。
もちろん、快適な職場環境を維持するためには、雇用主との関係は良好なほうがいい。でも、香月のことをそんな風に見ていたわけではなかった晶は、自分の落ち込みの原因が何に起因するのか上手く説明できない。
「えっと…でも、身近な人が怒ってたら、やっぱ気になるんじゃない?」
苦し紛れに出した答えに、糸は困ったような笑顔で首を横に振る。
「わたくしは、別にどうも思っていない方が怒っていても、特に何も感じませんわ」
「それは…」
同意しかけて、晶は口を噤む。それでは晶が香月のことを少なからず意識しているということになってしまう。意識していないと言ったらそれもまた嘘で、彼は晶の『推し』なのだから意識しないわけがないのだが、そのことを糸に上手く説明できる気がしなかった。
言葉に詰まった晶を優しい眼差しで見つめていた糸は、一つ息を吐くと驚くべきことを口にした。
「まぁ、それは置いておいて…瑠依様が怒っているかどうかについては、気にすることはないと思うわ。あの人は赤ちゃんみたいなものだから、いちいち振り回されては身が持たないわよ」
「へっ!?あ、赤ちゃん…!?」
その言葉に晶は衝撃を受ける。あの香月を捕まえて『赤ちゃん』呼ばわりするなんて考えられない。晶は驚愕の思いで糸を見つめるが、彼女は「ほほほ」と優雅に笑って見せた後でドキリとするほど鋭い視線を晶に向けた。
「そんなことより、晶ちゃん。いよいよ賭けの代償を払ってもらうわよ」




