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私を殺す優しさ  作者: 都桜ゆう


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第5章 内側からの侵食

 悠人が私の前から姿を消して、二週間が経った。

 物理的な不在は、本来ならば解放を意味するはずだった。メッセージの通知音に怯えることもなく、駅の改札で彼のシルエットを探して動悸を隠す必要もない。私の部屋の鍵はかけられ、スマートフォンの電源は切られ、私は法的には自由な身の上だった。

 けれど、私の心象風景は、かつてないほどの高密度な視線によって埋め尽くされていた。


 悠人は、去り際に呪いを残していった。

『物理的な距離など、僕たちの前では何の意味も持たない』

 その言葉は、私の脳内に深く根を張り、二十四時間休むことなく稼働し続ける内なる悠人という名の検閲官を誕生させた。


 朝、目が覚めた瞬間に、私は自分の寝相を気にするようになった。


(今の私は、悠人くんが見ていた通りの綺麗な栞でいられているだろうか?)


 顔を洗う時、洗面台の鏡に映る自分の顔を直視できない。鏡の中の私の瞳が、悠人のあの射抜くような、慈愛に満ちた冷ややかな視線と重なって見えるからだ。私は無意識に、彼がかつて褒めてくれた角度で顔を傾け、彼が一番似合うと言った強さでタオルを肌に当てる。


「……気持ち悪い」


 独り言が漏れた。けれど、その独り言すらも、私の内側の悠人は「ふっ」と優しく笑って受け流す。


『栞、そんなに自分を責めなくていいんだよ。君が僕を意識してしまうのは、君の細胞が僕を必要としている証拠なんだから』


 幻聴だ。分かっている。けれど、その声は私の思考の隙間に完璧なタイミングで入り込み、私自身の意志を侵食していく。


 仕事中も、侵食は止まらない。

 私は、自分が何かを考えようとするたびに、その思考が悠人に向けたプレゼンテーションであるかのような錯覚に陥った。


 例えば、お昼休みにどのコンビニ弁当を選ぶか。


(今日はパスタにしようか。……いや、待て。悠人くんなら『最近の栞はビタミンが不足気味だから、サラダボウルを選ぶべきだ』と言うだろう。……よし、彼の言う通りにサラダボウルにしよう。そうすれば、彼は満足してくれるはずだ)


 そこで私は、ハッと我に返る。

 彼はここにいない。彼が私の昼食を確認する手段など、どこにもないはずだ。なのに私は、自分の空腹を満たすためではなく、脳内の彼に合格点をもらうために食べ物を選んでいる。


 私は、自分の思考が自分のものでなくなっていく恐怖に、めまいを覚えた。

 彼が外側から私を監視していた時は、まだ良かった。私は彼に見られないように抵抗することができたから。けれど、彼が内側に移住してしまった今、私は自分の脳そのものを引き剥がさない限り、彼の観察から逃れることはできない。


 私は必死で、彼が知らない私を作ろうとした。

 かつて彼が似合わないと言った派手な色のルージュを塗り、彼が嫌っていたジャンクなスナック菓子をむさぼり食べた。

 けれど、私がそうした反抗を行えば行うほど、内側の悠人はさらに深い慈しみを持って私に語りかけてくる。


『頑張っているね、栞。そうやって一生懸命に僕を否定しようとする姿も、計算通りで愛おしいよ。……でも、そのルージュは君の肌をくすませてしまうし、そのお菓子は明日の朝、君の胃を重くさせる。ほら、やっぱり後悔しているだろう?』


 ……事実、そうだった。

 私は派手なルージュを塗った自分の鏡像に吐き気を覚え、油っこい菓子のせいで胃を壊した。

 私の体そのものが、悠人がかつて私に与えてくれた最適解を正解だと認め、それ以外の行動を異常として拒絶し始めているのだ。


 私の肉体は、すでに悠人の管理下に置かれていた。


 夜、一人の部屋。

 私はわざと照明をつけず、暗闇の中に座り込んだ。

 かつては、暗闇は自分を隠してくれるシェルターだった。けれど今の私にとって、暗闇は悠人の視線を最も濃密に感じさせるスクリーンの裏側へと変貌していた。


「……どこにいるの?」


 私は震える声で問いかけた。


「どこから見てるの? 悠人くん、返事をして。私の部屋にカメラがあるの? それとも、私の脳に何か埋め込んだの?」


 返事はない。ただ、静寂の中に彼の気配だけが、飽和した水蒸気のように充満している。

 私は狂ったように部屋の中を調べ始めた。

 壁紙を剥がし、エアコンのフィルターを叩き落とし、コンセントの裏側まで確認した。家具を動かし、クッションを切り裂き、彼の残り香を探した。


 何もない。

 物理的な証拠は何一つ、欠片すらも見つからない。

 

 その事実が、私をさらなる絶望へと追い込んだ。

 何もないということは、つまり、この気配はすべて私の内側から溢れ出しているということだ。


 悠人が私を監視しているのではない。

 私というシステムが、悠人という管理者を必要とし、自ら進んで監視される栞を生成し続けている。


「私が、私を……見ている」


 私は、自分の指先をじっと見つめた。

 この指が動くたびに、私はそれを悠人の目として客観的に評価する。


(少し震えている。栞は今、僕の不在に耐えきれず、不安の極地にいる。……よしよし、可哀想に。僕がすぐに癒してあげよう)


 そんな思考が、私の脳内に自動的に、かつ不可逆的に発生する。


 私はもう、嘘をつくことができなくなっていた。

 誰かに「元気だよ」と嘘のメールを送ろうとしても、指が動かない。内側の悠人が『そんな嘘をついても、僕には君の心拍数の上昇が分かっているんだよ』と囁くからだ。

 自分の醜い感情を隠そうとしても、無駄だった。


(あの同僚、大嫌い)


 そう思った瞬間、内側の悠人が『そうだね、栞。君は正義感が強いから、彼女のあのだらしなさが許せないんだよね。分かるよ』と、私の憎悪を勝手に正当な理由でコーティングして、無毒化してしまう。


 私の悪意も、弱さも、秘密も。

 すべてが悠人の理解という名のフィルターを通され、彼の都合の良い物語へと書き換えられていく。

 私の心は、彼という強酸に浸された金属のように、少しずつ、けれど確実に溶け、彼の形へと再構築されていた。


 その恐怖が頂点に達したある夜。

  私は夢を見た。

 

  夢の中の私は、真っ白な、何もない空間に立っていた。

  前を見ても、後ろを見ても、上を見ても、白。

  そこに、悠人が現れた。

  彼は何も言わず、ただ私の前に立ち、じっと私を見つめていた。

  

  私は彼に掴みかかろうとしたが、私の手は彼の体をすり抜けた。

  彼は物質ではなく、単なる光であり視線そのものだった。

 

『栞』


 声ではない、思考が直接頭の中に流れ込んでくる。


『君はまだ、自分という個に固執している。それが苦しみの原因なんだ。……自分を捨てるんだ。僕という器の中に、君のすべてを流し込めばいい。そうすれば、君はもう、自分の行動に迷うことも、自分の感情に怯えることもなくなる』


「……そんなの、私は死んだも同然じゃない!」


 私は夢の中で叫んだ。

 

『いいや。それこそが、究極の生だよ。僕が見ることで、君は初めて、正しい形として完成するんだ。……見てごらん、今の君は、僕がいないと自分の名前さえ思い出せないほど、僕の色に染まっているだろう?』


 私は自分の足元を見た。

 私の影が、私の形をしていなかった。

 地面に伸びた黒い影は、紛れもなく悠人の、あの穏やかな微笑みを浮かべたシルエットだった。


 絶叫と共に目が覚めた。

 全身が寝汗でびっしょりと濡れ、呼吸は荒く、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れている。

 私は慌ててライトをつけた。

 

 部屋の隅に、彼はいなかった。

 けれど、壁に映った私の影を見た瞬間、私は再び悲鳴を上げそうになった。

 

 影が、笑っているように見えたのだ。

 

 私がどんなに絶望し、顔を歪めていても。

 壁に落ちた私の輪郭は、悠人が私に求めている清らかで、従順な女性の形を、頑なに保ち続けている。

 私の肉体という外郭すら、すでに彼の支配下に置かれ、彼の理想を映し出すスクリーンへと成り下がっていた。


 私は、自分がもはや悠人のいない場所へは行けないことを悟った。

 たとえ彼がこの世から消え、私が地球の裏側へ逃げ出したとしても。

 私の中に常駐する悠人は、私の視神経を共有し、私の聴覚を支配し、私の思考を逐一翻訳し続けるだろう。


 私は、私の中に、悠人が住んでいる。

 いや、もはや私という意識そのものが、悠人という巨大な意識の一部を構成する、小さなニューロンの一つに過ぎないのかもしれない。


 私は震える手で、放置していたスマートフォンを手に取った。

 電源を入れると、一瞬ののち、一通のメッセージが届いた。

 送信者は、もちろん彼だ。

 二週間、一度も連絡をしてこなかった彼からの、最初の一行。


『おかえり、栞。……悪い夢を見て、喉が渇いているだろう? 冷蔵庫に、君が今一番飲みたがっているレモン水を入れておいたよ。昨日、君が仕事帰りに無意識にレモンの香りを求めて、ドラッグストアの前で足を止めたのを知っていたからね』


 私は、声もなく泣いた。

 絶望のあまり、笑いすらこぼれた。

 私は昨日、確かにドラッグストアの前を通った。けれど、レモンの香りを求めた自覚など、一分も、一秒もなかった。

 それすらも、彼は知っていた。

 私の深層心理が、私自身の意識に浮上する前に、彼はそれを摘み取り、現実化させていた。


 私はふらふらと立ち上がり、台所へ向かった。

 冷蔵庫を開けると、そこには透き通ったガラスの瓶に入った、冷たいレモン水があった。

 

 私はそれを手に取り、一気に飲み干した。

 鋭い酸味が喉を焼き、冷たさが胃を貫く。

 その強烈な感覚だけが、私がまだ生きていることを証明してくれる唯一の痛みだった。

 

 けれど、その痛みさえも、数秒後には甘美な快感へと変質していく。

 内側の悠人が、満足げに私の頭を撫でる気配がしたからだ。

 

『いい子だ、栞。……これで君は、完全に僕の一部だ』


 侵食は、完了した。

 私の精神の壁は、内側からすべて崩れ落ち、そこには悠人という名の、果てしなく穏やかな、そして一切の光を遮る漆黒の海が広がっていた。




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