第6章 壊れる
その日、私はついに、自分という名の鏡を、自らの手で叩き割ることにした。
悠人のいない部屋、悠人のいない時間、悠人のいない思考。それらすべてを奪還しようとした私の孤独な戦いは、無惨な、あまりに無惨な敗北に終わった。
いや、敗北という言葉すら、そこに含まれる抵抗の余地を予感させる分、まだ生ぬるいのかもしれない。私は、自分自身の精神の深淵に、悠人という名の絶対的な神を飼い慣らしてしまったのだ。
私が右を向けば、内側の悠人がその意図を祝福する。私が絶望に震えれば、彼はその痛みのメカニズムを論理的に解説し、私の頬を伝う涙さえも、彼の冷徹で慈愛に満ちた掌の上に回収される。私の主観は、すでに彼という客観に完全に侵食されていた。
私は、自分がもはや一人の人間として機能していないことを理解した。私は、悠人の全知全能性を証明するためだけに存在する、血の通った観測対象に過ぎない。
(……壊してしまおう。すべてを)
深夜、静まり返った部屋の真ん中に立ち、私は自分の名前を何度も、何度も繰り返し呟いてみた。
「栞。……栞、栞、栞。私は、栞」
けれど、その音節が唇から零れ、重たい空気に溶けるたびに、内側の悠人が耳元で囁くように微笑む。
『いい名前だよね。僕が君という個体を識別し、愛で、呼びかけるために存在する、世界で最も甘美な記号だ。君がその名前を呼ぶとき、君は僕に呼ばれているのと同じなんだよ』
私は、己の鼓膜を突き破らんばかりに耳を強く塞いだ。けれど、声は外側からではなく、私の脳髄の奥底、神経の束が絡み合う暗暗から直接響いてくる。逃げ場など、最初から私の体内には残されていなかった。
私は狂ったようにキッチンへ向かい、銀色に光る一振りの包丁を手に取った。
死にたいわけではなかった。ただ、彼がどうしても予測できない、論理の枠外にある最大級のバグを自分自身の肉体に刻み込みたかった。
彼が慈しみ、磨き上げ、完璧な状態で標本箱に収めている栞という存在に、取り返しのつかない醜い傷をつけ、彼の構築した完璧なデータセットを、修復不能なまでに台無しにしてやりたかったのだ。
冷たい鋼が、窓から差し込む月明かりを反射して、死神の鎌のように青白く光る。
私はその刃を、自分の腕に押し当てた。皮膚がわずかに沈み込み、鋭い刺激が脳に伝わる。
その瞬間、沈黙を切り裂くように、スマートフォンのバイブ音がテーブルの上で爆鳴した。
画面は見なくてもわかった。世界でただ一人、私を観測し続けている男、悠人だ。
私は、金縛りにあったかのような硬直の中で、震える指で通話ボタンを押した。
『栞。……包丁を置きなさい。今の君は、セロトニンが著しく低下し、一過性の自傷衝動に思考を支配されているだけだ。そんなことをしても、僕の愛に傷はつかない。ただ、君の美しい肉体が損なわれるだけだよ』
受話器から漏れる彼の声は、これまでで最も優しく、そしてこの世の終わりを告げる福音のように、恐ろしいほど静かだった。
「……どうして。どうして、わかるのよ? ここには誰もいない。監視カメラなんて一つもなかった。なのに、どうして私が今、包丁を握っていることがわかるの!?」
『わかるよ、栞。君のスマホの加速度センサーが、異常なほどの静止と、それに続く極度の緊張を伴う震えを検知したから。そして何より、僕の胸が今、張り裂けそうなほど痛んでいるからだ。
……君が自分を傷つけようとするその刹那、僕の神経もまた、君と同じ場所で血を流している。僕たちは、もう別の個体ではないんだ』
私は、脱力感に襲われて包丁を床に落とした。
カラン、という虚しい金属音が、私の自我が崩壊する音のように部屋に響き渡る。
私はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
私の死でさえ、彼にとってはセンサーの異常値と感情の同期という、冷徹な論理の檻の中に閉じ込められた既知の事象でしかない。私がどんなに自分を壊そうと、どんなに狂おうと、彼はその破片をすべて慈しむように拾い集め、元の理想的な栞へと修復してしまうのだ。
「……助けて、悠人くん。もう、私の中に私がいないの。どこを向いても、何を考えても、あなたしかいないの。私は、私が怖い……」
『そうだね、栞。やっと、本当の意味で認めてくれたんだね。
……もう、頑張らなくていいんだよ。一人で呼吸をしようとするから、そんなに苦しいんだ。僕の呼吸を、君の肺に流し込めばいい。僕の思考を、君の脳に預ければいい。君という意識の重荷を、すべて僕に委ねてしまえば、これほど楽なことはないんだよ』
玄関の鍵が、ゆっくりと、そして必然を伴って回る音がした。
私は一度も彼に合鍵を渡したことはない。管理会社に掛け合ったのか、それとも精巧な複製を作ったのか。けれど、そんな些細な事実は、もはや私たちの間にある巨大な境界線の崩壊に比べれば、何の意味も持たなかった。
ドアが静かに開き、逆光の中に悠人のシルエットが浮かび上がった。
彼は迷いなく私に駆け寄り、床で震える私を、壊れ物を扱うような手つきで力強く抱きしめた。
その腕の温かさ。その心臓の規則正しい鼓動。
それは、私の想像の中で膨れ上がった無機質な怪物の冷たさではなく、あまりに生々しく、あまりに心地よい、愛する男の体温そのものだった。
「おかえり、栞。……いや、ただいま、かな」
彼は私の耳元で優しく囁き、私の乱れた髪を何度も、何度も指で梳いた。
「これからは、もう一瞬も離れない。君が目を閉じている間も、君が夢の深淵を彷徨っている間も、僕が君の代わりに世界を観測し、意味を与えてあげる。
君は何一つ考えなくていい。何一つ選ばなくていい。ただ、僕という完璧に管理された宇宙の中で、漂っていればいいんだ」
私は彼の胸に顔を埋め、その温もりに縋り付いた。
恐ろしいはずだった。憎いはずだった。この男こそが私の人生を奪った張本人なのだ。
けれど、その圧倒的な全肯定と、私の存在すべてを掌握されているという究極の無責任さが、劇薬のような安らぎとなって、私のボロボロになった精神を溶かしていった。
自由でいることは、これほどまでに耐え難い苦痛だったのか。
自分で自分の人生を決定し、その選択の責任を背負い、孤独な夜の暗闇に怯える。
そんな過酷な重荷から、彼は私を完全に、永遠に解放してくれると言っているのだ。
「……私を、消して。悠人くん」
私は喘ぐような、懇願するような声で言った。
「私を、あなたの一部にして。もう、私として生きることに、疲れ果ててしまったの」
悠人は、歓喜に震えるような、深いため息を漏らした。
彼は私の顔を両手で包み込み、その瞳の奥にある絶望の色彩を、愛おしそうに覗き込んだ。
「約束するよ、栞。君という存在の全質量は、これから僕がすべて引き受ける。君の瞳は僕の瞳になり、君の言葉は僕の吐息になる。……これから僕たちが歩むのは、一人の人間が二つの体を持っているだけの、完璧に調和した王国だ」
その瞬間、私の中で栞という名の最後の一片が、パチンと乾いた音を立てて弾け飛んだ。
視界が、ゆっくりと白濁していく。
私はもう、自分の手足の末端がどこにあるのかさえ、判別がつかなくなっていた。
悠人が私の手を握れば、それが私の手なのだと認識する。悠人が「お腹が空いたね」と言えば、私の胃は忠実に空腹のサインを出す。悠人が「今日は幸せな一日だね」と囁けば、私の涙腺は逆らえない多幸感によって溢れ出す。
外界との境界線は、完全に消失した。
私は悠人の、悠人による、悠人のための、最高傑作たる観測装置へと成り果てた。
それから、どれほどの月日が流れただろうか。
私は今、柔らかな光が溢れる、真っ白な部屋にいる。
窓の外には手入れの行き届いた美しい庭が広がり、季節に応じた花々が、悠人の計算通り、一分の狂いもなく咲き誇っている。
私はレースのカーテンが揺れる窓辺の椅子に座り、ただじっとしている。
自分で立ち上がることも、自発的に声を出すことも、もう久しくしていない。
悠人が私の口に銀のスプーンを運べば、私はそれを赤ん坊のように飲み込む。悠人が私の髪を丁寧に梳かせば、私はその指先の微かな感触に、ただうっとりと陶酔する。
彼は毎日、私に今日の栞の状態を、まるでお天気キャスターのように報告してくれる。
「今日の栞は、朝の光を浴びた時の瞳孔の開き具合が、前日比で三パーセント向上したよ。とても素晴らしい。……九時十五分の時点で、君の幸福指数は過去最高値を記録した。僕の愛という栄養が、君の末端の細胞まで完璧に満たしている証拠だね。誇らしいよ、僕の栞」
私はその報告を、心地よい音楽のように聞きながら、心の中で、かつての私を思い出そうとする。
けれど、霧がかかったように思い出せない。
私がかつて何を愛し、何に怒り、何から必死に逃げようとしていたのか。
その煩わしい記憶のすべては、悠人によって「人格の安定を乱す不必要なノイズ」として消去され、あるいは僕との愛を深めるための過渡期の軌跡という美しいラベルを貼られて、彼の脳内書庫の奥深くに厳重に保管されてしまったからだ。
今の私には、秘密がない。
今の私には、意志がない。
今の私には、孤独がない。
それは、この上なく幸福で、完成された地獄だった。
ふと、悠人が私の背後に立ち、鏡越しに私を見つめた。
大きな姿見の中には、一点の曇りもない充足の笑顔を浮かべた悠人と、その隣で、人形のように虚ろでありながら、世俗の垢をすべて落としたような完璧な美を湛えた、かつて栞と呼ばれた女が映っている。
「……栞。今、君が何を考えているか、当ててあげようか?」
彼は私の首筋に鼻先を寄せ、深く、深く、私の香りを吸い込んだ。
「君は今、こう思っている。『悠人くんがいなければ、私は一秒も存在を維持できない。私は、悠人くんの視線という光を浴びている間だけ、生きることを許されている植物なのだ』……そうだね?」
私は、言葉では答えない。
けれど、私の体は、彼の言葉を全細胞で肯定するように、微かに、けれど激しく歓喜に震えた。
その生理的な反応すらも、悠人は満足げに手帳に記録し、私への報酬として優しい口づけを落とす。
私は、壊れた。
けれど、その壊れた破片の一つひとつを、悠人は舌で舐め、愛おしそうに繋ぎ合わせ、自分好みのパズルを完成させた。
私はもう、自分という存在を、自分自身の目で見ることができない。
私を見るのは、この広い世界のどこにも、ただ一人、悠人だけでいい。
光の溢れる白い部屋で、私は静かに、安らかに目を閉じる。
たとえ瞼を閉じ、視界を閉ざしたとしても、彼の視線は熱を帯びた赤外線のように私を焼き続けている。
その灼熱のような優しさに焼かれ、溶かされながら、私は永遠に終わらない、幸福な観察の海へと沈んでいく。
意識が溶け合い、個としての輪郭が完全に失われる境界線で、最後に聞こえたのは、やはりあの、陽だまりのような、どこまでも優しい声だった。
『愛しているよ、栞。……今日も君は、僕が設計した通りに、世界で一番、完璧だ』
その言葉を、私の魂の最期の記憶として、私の自我は、完全に、そして至福のうちに、絶命した。
(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).




