第4章 「見ないで」
限界という境界線は、いつの間にか音もなく踏み越えられていた。
朝、目が覚めた瞬間から、私の世界は悠人の視線という名の透明な檻に閉じ込められている。
かつては、何を食べても、何を飲んでも、自由な味がした。けれど今は違う。
トーストを焼けば、その焼き加減一つにすら「悠人なら、今日の私の体調に合わせて『もう少し水分を残すべきだ』と考えるだろうか」という疑念が混じる。水を飲めば、その一口の嚥下が、彼の頭の中にある栞のバイタルデータの一行を更新しているような、言いようのない寒気に襲われる。
私は、自分の部屋で着替えることすらできなくなっていた。
物理的に悠人がそこに立っているわけではない。盗撮カメラを血眼になって探しても、何一つ見つからない。
けれど、私の関節がどう動き、どの筋肉に力が入り、どの下着を手に取ったか――そのすべてを、彼は理解という名の精緻なレンズを通して、リアルタイムで捕捉している。そんな確信が、私を全裸で凍てつく街中に立たされているような、剥き出しの羞恥心と絶望へと叩き落としていた。
クローゼットの前で、私は指先を震わせながら立ち尽くす。
(今日は、この明るいレモンイエローのシャツにしよう。……いや、待って。悠人くんは、私があえて明るい色を着ることで、今の陰鬱な気分を偽装しようとしていると見抜いているんじゃないか?)
そう思った瞬間、そのシャツは私を縛り上げる拘束衣のように見えてくる。
(じゃあ、反対に地味な紺色にしよう。……でも、それも彼を裏切るためにあえて逆を選ぼうとする浅はかな反抗として、彼の計算式に組み込まれている。私がどう動こうと、それは彼が読み終えた台本の一行に過ぎない)
選べない。
自分の意志で何かを選択するという行為そのものが、悠人という巨大な観測システムに新しいデータを提供する餌に思えてくるのだ。
私はクローゼットの前で崩れ落ち、声を殺して泣いた。自分の呼吸の乱れすら、彼には栞が今日、この時間に情緒を乱した理由としてアーカイブされているのだろうと思うと、涙を流すことさえ恐ろしかった。
その日の夜。悠人が予告なしに私の家を訪れた。
彼はいつものように穏やかな足取りで、私が昨日、SNSで一瞬だけ指を止めた広告に出ていた、季節限定の高級ショコラを携えていた。
玄関を開けた瞬間、彼は私の顔を見るなり、まるで傷ついた小鳥を見守るかのような、あどけないほど純粋な慈愛の表情を浮かべた。
「栞、ひどい顔色だ。……朝、クローゼットの前で二十分も立ち止まっていたね。無理に僕の予測を裏切ろうとするのは、君のデリケートな精神に余計な負荷をかけるだけだよ」
その言葉が、私の心の中でギリギリと張り詰めていた最後の一本の糸を、無慈悲に、そして鮮やかに断ち切った。
「……悠人くん。座って。話があるの」
私は、自分の声ではないような掠れた音で言った。
悠人は、すべてを予見していた聖者のような静かな動作で、ソファの端に腰を下ろした。
彼は、これから私が何を言い、どんな表情で、どのタイミングで言葉を詰まらせるのか、そのすべてをすでに知っている。そんな傲慢なまでの落ち着きを湛えて、私の言葉を待っていた。
「どうしたの? そんなに震えて。……僕に、言いたいことがあるんだろう? 『もうこれ以上、私のことを見ないで』って。そう言おうとしているのが、君の喉の動きでわかるよ」
まただ。また先を越された。
私が意志を持って口を開くより先に、彼は私の言葉を奪い取り、自らの所有物にしてしまう。
「そうよ!」
私は立ち上がり、激しく叫んだ。
「お願いだから、もう見ないで! 私の生活を、私の思考を、勝手に透視しないで!
あなたが私のすべてを知っているというその顔が、何よりも恐ろしいの。それは優しさじゃない、精神的なレイプよ! 私の心の中にある、私だけの聖域を汚さないで!」
心臓が破裂しそうなほど脈打ち、視界が白く明滅する。
これだけの暴言を叩きつければ、普通なら怒り、傷つき、あるいは激しい反論をするはずだ。
しかし、悠人は眉一つ動かさなかった。彼はただ、迷子を諭す親のような、あるいは迷える羊を見守る神父のような、深すぎる優しさを湛えて微笑み続けた。
「栞……。君は、ひどく混乱している。そして、残酷な誤解をしているよ」
「誤解なんかじゃない!」
「いいや、誤解だ。僕は、君を見ているわけじゃないんだよ」
悠人はゆっくりと立ち上がり、私との距離を詰めてきた。
私は後ずさりしようとしたが、背中に冷たい壁が当たり、逃げ場を失った。
至近距離で見つめる彼の瞳は、私を映しているのではなく、私そのものを透過して、その奥にある魂の震えをダイレクトに掴み取っているようだった。
「監視なんて、そんな低俗なことはしていない。僕はただ、君が苦しんでいることが、僕自身の神経系を通じて伝わってくるだけなんだ。
君が朝、服を選べずに泣いたことも、僕を拒絶するためにわざと嫌いなものを食べたことも。……それらはすべて、君が僕と一つになりたいと願う生存本能の叫びなんだよ。君の魂は、僕の視線というガイドラインを求めているんだ」
「……狂ってる。何を、言っているの……?」
「君は自分を独立した個体だという幻想に縋り付こうとしているけれど、僕たちの魂に境界線なんて、もう存在しない。
君が何を感じ、何に怯えるかは、僕が何を感じるかと同じ現象だ。……だから、僕が君の次の一手を予測するのは、僕が自分の指を曲げようと思うのと、本質的に何も変わらないんだよ。栞。君はもう、僕の一部なんだ」
彼の言葉は、あまりにも完璧な論理の形を借りた、純度百パーセントの狂気だった。
届かない。私の拒絶という矢は、彼の愛という巨大な真綿に吸い込まれ、消えてしまう。
私がどれほど嫌だと叫び、憎しみをぶつけても、彼はそれを愛ゆえの反抗や過敏な時期の混乱として処理し、自らの保護欲を肥大化させるための栄養にしてしまうのだ。
「見ないでって言ったね? でも、栞。そう強く願うこと自体、君の思考回路の九割が僕への執着で埋め尽くされている証拠じゃないか。
君が僕を遠ざけようと必死になればなるほど、君の意識は僕という存在を強烈に引き寄せる。……ほら、今の君の頭の中を見てごらん。僕のこと以外、何も考えられなくなっているだろう?」
私は言葉を失った。
その通りだった。彼を拒絶しようとあがき、彼の予測を裏切ろうと策を弄すればするほど、私の脳内は悠人というウイルスによって占拠されていく。私というOSは、すでに彼なしでは一秒も立ち上がることができないほどに侵食されていた。
「……っ、帰って。お願いだから、今は顔を見せないで。帰ってよ!」
「ああ、わかったよ。今の君には、クールダウンが必要だ。……これだけ大きな声を出してエネルギーを消費したから、数分後には低血糖で激しい脱力感が来るはずだ。
キッチンに、君が好きなブランドの高品質な蜂蜜を置いておくよ。それをティースプーン一杯分だけ舐めてから、十一時十五分に布団に入りなさい。そのタイミングを逃すと、明日の朝、君の自律神経は取り返しのつかないダメージを負うから」
悠人は、私の髪を愛おしそうに一度だけ撫で、満足げな溜息を漏らすと、何事もなかったかのように静かに部屋を出て行った。
再び訪れたはずの静寂。
けれど、部屋の空気は、先ほどまでよりも重く、粘り気を帯びたものに変質していた。
私は彼が置いていった黄金色の蜂蜜の瓶を、殺意を込めて睨みつけた。
(絶対に舐めない。十一時十五分にも寝ない。朝まで起きて、あなたの予測をゴミ箱に捨ててやる)
そう決意した瞬間、耳のすぐそばで、悠人の囁きが聞こえた気がした。
『……そうやって意地を張ることも、計算の内だよ。その健気さがまた愛しいけれど、最後には君は自分を愛する僕の助言に従うことになる。それが一番楽だと、君の細胞が知っているからね』
逃げ場など、最初からどこにも用意されていなかった。
拒絶すらも、彼にとっては愛の確認作業という名のバリエーションの一つに過ぎない。
私は自分の意志で怒っているのか、それとも彼が怒るだろうと予測したレールの上を、忠実に走らされているだけの家畜なのか――その境界線が、どろどろに溶けて消失していく。
翌日から、悠人の献身は、狂気すら置き去りにするほどの速度で加速した。
私が明確な拒絶を示したことで、彼は「栞は今、人生で最も不安定な危機的状況にあり、僕が二十四時間体制でケアしなければならない」という使命感に目覚めたようだった。
仕事中、デスクの電話が鳴る。内線ではなく、私の個人用スマートフォンだ。
「お疲れ様、栞。今、佐藤さんが君の背後を横切ったとき、君の左肩が三ミリほど上がったね。深層心理にある彼女への恐怖が、物理的な筋緊張として現れている証拠だ。
……デスクの引き出し、三段目の奥の裏側に、リラックス効果を誘発する特殊な香りのパッチを貼っておいた。誰にも気づかれないように、指先で少しだけ触れてごらん。一分で呼吸が整うから」
私は受話器を握る指を白くなるまでこわばらせ、半狂乱で引き出しを開けた。
……あった。
昨日、退社する時には間違いなく存在しなかった、小さな、けれど確実な支配の証が。
彼はいつ、どうやって、警備の厳しいこのオフィスに、私のデスクに忍び込んだのか。
恐怖で喉が引き攣れ、絶叫しそうになったが、ここで取り乱せばやはり重度の情緒不安定だと診断され、また彼のケアという名の監禁を正当化させてしまう。私は震える手でそのパッチを剥ぎ取り、粉々に引き裂いてゴミ箱の底に沈めた。
夜。這うようにして家に帰ると、郵便受けに一通の封書が入っていた。
切手のない、手渡しの手紙。悠人の筆跡だ。
『栞へ。
僕の優しさが、今の君にはまだ毒に感じられるようだね。
それは僕の不徳の致すところだ。深く反省している。
だから、しばらくの間、僕は君の視界から消えることにした。
君が一人の自由という名の孤独を存分に味わえるよう、配慮することにする。
……ただ、これだけは確かな真実として覚えておいて。
物理的な距離など、僕たちの前では何の意味も持たない。
君がどこで何を吸い、何を吐き出しているか。
僕の魂は、重力が星を引き寄せるように、君のすべてを捕捉し続けている。
君が自分自身を忘れても、僕は君を忘れない。
おやすみ、僕の半身』
一見、身を引くような潔い内容。
けれど、それは「物理的な視線などという幼稚な手段を使わずとも、私はすでにお前の内側に常駐しているのだ」という、最終宣告に他ならなかった。
その日から、悠人は私の前から姿を消した。
メッセージも来ない。駅前で待ち伏せされることもない。
私は、渇望していたはずの自由を手に入れた。
けれど、現実は、想像を絶する地獄だった。
姿が見えないからこそ、私は二十四時間、あらゆる事象の中に彼の気づきを探し、怯えるようになってしまったのだ。
スーパーで手に取ったペットボトルの茶。
(これを選んだ瞬間、彼は『やっぱりそれにしたか、喉が渇いていたんだね』と、どこかで頷いているのではないか?)
テレビから流れる凄惨なニュース。
(これを見て私が抱いた嫌だという感情を、彼はすでに予測し、自分の日記に書き込んでいるのではないか?)
深夜、ふと見上げた欠けた月。
(月を見上げた私の瞳のわずかな湿り気から、彼は私の心の空洞のサイズを精密に測定しているのではないか?)
悠人の実体は消えても、私の脳内に強制インストールされた悠人という名の絶対的検閲官が、私の思考の断片を一つ残らずスキャンし続ける。
私は、自分の部屋で一人でいるときですら、背筋を伸ばし、清廉潔白に振る舞うようになった。だらしない格好をしたり、行儀の悪い食事をしたりすれば、彼の理解という刃が、私の魂を憐れみの目で見下ろすからだ。
泣くことさえ、我慢するようになった。
泣けば、彼が「君の孤独が痛いほど分かるよ」と、透明な指先で私の涙を拭う気配がし、その感触に発狂しそうになるからだ。
私の世界から、私だけの秘密が跡形もなく消滅した。
ある晩、私は電気もつけない暗い部屋の中で、ふと姿見の鏡を見た。
そこには、頬がこけ、獣のように怯えた目をした、見知らぬ女が立っていた。
その女は、私だろうか。
それとも、悠人が望む儚く、守らなければ壊れてしまう、僕だけの栞というロールモデルを、命じられるままに演じさせられているだけの、空っぽの器だろうか。
私は鏡に向かって、掠れた声で死者のように囁いた。
「……見ないで」
返ってきたのは、自分の声ではなかった。
『見ているよ、栞。……君が今、自分という存在の重みに耐えかねて、僕という救済を求めているのが、痛いほどよく分かるよ』
幻聴だ。極限状態が生み出した、私の脳のバグだ。
けれど、その幻聴は、世界中のどんな真実よりも正確に、私の絶望の核心を射抜いていた。
私は、ついに悟った。
悠人にとって、私のプライバシーや境界線なんて、最初から一ミクロンも存在しなかったのだ。
彼は私を愛しているのではない。
彼は、私という存在を完全に領有し、その精神の統治権を行使しているだけなのだ。
私は糸の切れた人形のように崩れ落ち、冷たいフローリングに顔を押し付けた。
床の冷たさすら、彼が「今の火照った君には、これくらいの冷却が必要だ」と設定した、管理された温度のように感じられた。
逃げ場はない。
もし私が今、ここから飛び降りて肉体を滅ぼしたとしても、彼はその魂の消滅すらも「栞ならそうすると思っていたよ」と、慈愛に満ちた顔で受け入れるだろう。
「……助けて」
誰にともなく吐き出したその呻きすら、悠人の掌の上で、静かに収穫されるのを待つ熟した果実のように、甘く、無力に響いた。
私は、悠人の視線に最適化されたこの世界の中で、永遠に終わらない観察に身を委ねる準備を、自分でも気づかないうちに始めていた。
それが、この逃げ場のない地獄において、自我を保つための唯一の、そして最も致命的な敗北だった。




