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私を殺す優しさ  作者: 都桜ゆう


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第3章 見られている気配

 その気配は、もはや悠人が目の前にいるかいないかに関わらず、私の生活のすべてを塗りつぶし始めていた。


 朝、目が覚めた瞬間から、私は誰かに見つめられているような感覚に襲われる。

 重い瞼を持ち上げ、誰もいないはずの寝室を見渡しても、そこにあるのはいつもの見慣れた家具と、昨夜脱ぎ捨てた部屋着だけだ。窓の鍵もしっかりとかかっているし、ドアに隙間もない。けれど、部屋の隅の暗がりに、あるいはクローゼットの僅かな隙間に、悠人のあの穏やかな視線が留まっているような気がしてならないのだ。


 私は、悠人に対する恐怖を明確な形として自覚し始めていた。

 それは刃物を向けられるような鋭利な恐怖ではない。もっとじっとりとした、逃げようのない泥沼に沈んでいくような、粘着質な恐怖だ。


 私は抵抗を試みることにした。

 彼が私の行動を予測し、その精度を誇るのなら、その予測の母体となっている私の規則性を破壊すればいい。私は自分の生活リズムを、意識的に、そして徹底的に歪ませることにした。


 まず着手したのは、彼が私の呼吸を読んでいると言ったSNSだ。

 私は毎晩、午後十一時過ぎにログインする習慣を捨てた。


 あえて午後八時に一度だけ開き、何も投稿せずに閉じる。あるいは、深夜三時にわざとアラームをかけて起き、全く興味のない経済ニュースのリンクをシェアする。私がかつて好んでいたハッシュタグをあえて避け、自分の趣味とは正反対の、例えば釣りやバイクといった分野の投稿を熱心に巡回した。


 食事も変えた。嫌なことがあった日に買う塩バターロールを封印し、あえて胃が受け付けないような激辛のインスタント麺を無理やり喉に流し込んだ。

 通勤ルートも毎日変えた。各駅停車に乗り、わざと一駅手前で降りて、地図も見ずに知らない路地を歩き回ってから会社に向かった。

 

「……これで、分からないはず」

 

 鏡の前で、私は自分の顔を確認する。

 表情を殺す。感情を動かさない。悠人の前では、私は私であってはいけない。彼が知っている栞というプログラムを、私は内側から上書きしようと必死だった。


 しかし、その抵抗が始まって三日が過ぎた頃、私は更なる絶望に叩き落されることになる。

 その日、私はわざといつもと違う美容院を予約し、髪を数センチだけ切り揃えた。


 悠人が「長めの髪が好きだ」と言っていたからこその、ささやかな反逆だった。美容院を出た後、私はスマートフォンを電源オフにしたまま、普段なら絶対に行かないような、騒がしいゲームセンターの隅で時間を潰した。

 

 午後八時。そろそろ帰らなければ不自然だと思い、最寄り駅に降り立つ。

 改札を出て、私は周囲を警戒した。悠人が待ち伏せしているのではないか。


 いない。

 街灯の下にも、コンビニの前にも、彼の姿はなかった。

 私は少しだけ勝利を確信した。私の予測不能な行動が、ついに彼のロジックを上回ったのだと。


 ところが、マンションの自室の前に辿り着いたとき、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。

 ドアノブに、小さな紙袋が提げられていた。

 中には、私が一番好きなメーカーの、けれど一度も彼に教えたことのない種類の刺激の少ない洗顔料と、一枚のメッセージカードが入っていた。


『髪、少し切ったんだね。すごく似合っているよ。

 今日は慣れない場所をたくさん歩いて疲れたでしょう。

 夜更かしや、慣れない食べ物は体に障るから、今夜はこれで顔を洗って、ゆっくり休んでね。

 深夜三時に起きるのも、もうやめておいた方がいいよ。君の体調が心配だから』


 私はその場にへたり込みそうになった。

 カードを持つ指が、ガタガタと震えて止まらない。

 

 ――どうして。

 どうして、全部知っているの。

 SNSのデタラメな投稿も、私が夜中に起きていたことも、彼には私が彼を欺こうとして行っている偽装であることまで、完全に見抜かれていた。


 彼は私を見ているのではない。

 彼は、私の思考回路そのものを、自分の脳内に複製しているのだ。

 

「私の中に……悠人がいる」

 

 その言葉が、不意に口から漏れた。

 私が「こうすれば彼を驚かせられるだろう」と考える、その思考の出発点に、すでに彼は先回りして座っている。私が右に行こうと決める一秒前に、彼は私が右に行こうと決める理由を理解している。


 私は部屋に入り、震える手で鍵を三重にかけた。チェーンも通した。

 それでも、気配は消えない。


 シャワーを浴びているとき、背後の壁に彼が立っているような気がして、何度も振り返る。湯気の中に、彼の穏やかな微笑みが浮かんでいるような錯覚に陥る。

 鏡を見れば、そこに映る自分の顔が、だんだんと悠人の理想とする栞に作り替えられていくような、そんな生理的な嫌悪感が全身を駆け巡った。


 翌日、私は会社でデスクに向かっていても、仕事に集中することができなかった。

 背中を通り過ぎる同僚の気配、キーボードを叩く音。そのすべてが、悠人へ情報を送るセンサーのように感じられた。

 

 休憩中、私は意を決して友人の美咲みさきに電話をかけた。

 悠人のことを相談したかった。この異常な状況を、誰かに、客観的な視点から「それはおかしいよ」と言ってほしかった。


「もしもし、美咲? ……うん、ちょっと、相談したいことがあって」


 私は声を潜め、給湯室の隅で電話口に囁いた。


「……彼のことなんだけど。……ううん、喧嘩とかじゃなくて。なんて言うか、見られすぎているというか……」


 そこまで言ったとき、私の視界の端に、何かが映った。

 給湯室のドアの隙間。

 誰もいないはずの廊下から、微かな視線を感じた。

 私は慌ててドアを開けたが、そこには静まり返った廊下が伸びているだけだった。

 

「……栞? どうしたの?」


「あ、ううん、なんでもない。……ごめん、美咲。やっぱりまた今度にする」


 私は電話を切った。

 美咲に相談するという選択すら、悠人は予測しているのではないか。

 もし私がここで彼への不満を口にすれば、それは何らかの形で彼に伝わり、さらに完璧な優しさによって上書きされてしまうのではないか。

 

 恐怖のあまり、私は自分の感情を隠すことを選んだ。

 嫌だ、怖い、逃げたい。そうしたネガティブな感情を抱くこと自体が、彼に情報を与えることになる。

 私は自分自身の心を、無の状態に保とうと努めた。

 

 しかし、それは逆効果だった。

 その日の退勤時。会社を出た私を、悠人が駅前で待っていた。

 彼はいつものように優しく微笑み、私のカバンを持とうと手を伸ばした。


「最近の栞は、少し静かすぎるね」

 

 彼の言葉に、私は息が止まりそうになった。

 

「感情を動かさないように、一生懸命自分を押し殺している。……美咲さんに電話をしようとして、途中でやめたのも、僕を怖がらせないための配慮かな? そんなに気を遣わなくていいのに。僕はどんな君だって、愛しているんだから」


 私は立ち尽くした。

 美咲の名前。電話を途中で切ったこと。

 彼がそれを知っているという事実以上に、それを僕への配慮という風に、どこまでも自分に都合の良い優しさの文脈で解釈していることが、耐え難かった。


「……悠人くん。お願い、もうやめて」


「何をやめるの?」


「私を見るのをやめて。私のことを予測しないで。私は……私は、あなたのシミュレーションの一部じゃない」


 初めて、私は明確な拒絶を口にした。

 往来の激しい駅前で、私は震える声で彼に訴えた。

 周囲の人々が、怪訝そうな顔で私たちを見守る。けれど、悠人は動じなかった。

 

 彼は、悲しそうに目を伏せた。

 その表情は、愛する人に裏切られた悲劇の主人公そのものだった。


「見ていないよ、栞。僕はただ、君が苦しんでいるのが分かるだけなんだ。君が自分を傷つけようとしたり、一人で悩んだりしているのを、放置できないだけなんだよ」


「それが、私を苦しめてるの! あなたが私のすべてを知っていると思うだけで、私は自分の部屋にいても、心の中にいても、一人になれない!」


「……そうか。君はまだ、自分と僕が別々の人間だと思っているんだね」


 悠人は、独り言のようにそう呟いた。

 その言葉の意味を考えようとした瞬間、彼は私の肩に手を置いた。


「大丈夫だよ。無理に理解しようとしなくていい。……今は、僕の用意したこの流れに身を任せていればいいんだ。

 今日の夕飯は、栞が昔好きだった、お母さんの味に近い肉じゃがを作っておいたよ。味付けの隠し味に白味噌を使うのも、ちゃんと再現しておいたから」


 私は、絶叫したくなるのを必死で堪えた。

 母の肉じゃがの隠し味。そんなもの、彼に話したことは一度もない。


 実家に帰った際、私がキッチンで母の手元を眺めていた時の視線の動き。あるいは、母と電話で話していた時の、僅かな味噌という単語の響き。

 彼は、私の人生の断片を、ゴミ箱を漁るような執念で拾い集め、私の深層心理に眠る幸福の定義を勝手に構築し直している。

 

 家路につく道中、私は彼の隣を歩きながら、自分が自分ではなくなっていく感覚を味わっていた。

 

 私はもう、自分の意志で歩いているのではない。

 彼が提示する栞にとっての最適解というレールの上を、ただ転がされているだけなのだ。

 私が次に何を言い、何を思い、何に絶望するか。

 そのすべてが、悠人の頭の中ではすでに既知の事実としてアーカイブされている。


 マンションの廊下を歩く。

 エレベーターを待つ。

 鍵を開ける。

 その動作の一つひとつが、彼に見られることを前提とした演技のように感じられてくる。


 ――私の中に、悠人が()みついている。


 彼が隣にいても、いなくても、私の脳内には悠人ならどう判断するかという監視カメラが設置されてしまったのだ。

 私はもう、自分だけの秘密を持つことができない。

 

 夕食のテーブルに並んだ肉じゃがは、確かに懐かしい味がした。

 けれど、それを口に運ぶ私の喉は、砂を噛んでいるかのようにザラついていた。

 

「美味しい?」


 悠人が、期待に満ちた瞳で私を見つめる。

 

「……うん。美味しいよ」

 

 私は答える。

 それが、彼が最も望んでいる正解のセリフであることを、私はもう、自分の本能のように察知していた。


 自分の感情が、自分の意志から切り離されていく。

 私は、悠人の視線に最適化された栞という人形へと、静かに、確実に、作り変えられていく。

 

 その夜、私は鏡を見ることができなかった。

 そこに映っているのが、私なのか、それとも悠人が作り上げた理想の投影なのか、もう区別がつかなくなっていたからだ。

 

 暗闇の中で、再び気配がする。

 耳元で、彼の声が聞こえたような気がした。

 

『いいんだよ、栞。君は、僕が見ている通りに存在していれば、それでいいんだ』


 私は震える体を丸め、眠れない夜を過ごした。

 明日の朝、私はどんな顔をして目覚めればいいのだろうか。

 それすらも、彼はすでに知っているに違いないのだ。


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