第2章 優しさの密度
悠人と過ごす時間は、まるで重力のない深海を漂っているようだった。
どこにも角がなく、摩擦もなく、私が不快という名の水圧を感じる前に、その原因は彼の手によって鮮やかに、そして音もなく取り除かれる。
それはあまりに完璧な調律であり、私の生活はいつの間にか、悠人という名の潤滑油がなければ滑らかに回らないほどに、彼の配慮によって塗り固められていた。
けれど、その優しさの密度が、私の許容範囲という名の境界線を越えて上昇していくにつれ、私の胸の奥には、出口のない湿った空気が澱のように溜まり始めていた。感謝という名の重石が、じわじわと私の自由な呼吸を妨げている。
週の半ば、どんよりとした曇り空が広がっていた木曜日のことだ。
その日の仕事は、思い出したくないほどに最悪だった。
職場の先輩である佐藤さんが、明らかに自分自身の確認ミスで生じさせた書類の不備を、あろうことか私に責任転嫁し、課長の前で執拗に責め立てたのだ。
その後の修正作業のために強いられた三時間の残業。オフィスの冷房で冷え切った体と、理不尽な怒りで波立つ心。駅へ向かう足取りは、泥の中に足を踏み入れているかのように重かった。
私はあえて、SNSには何も書かなかった。
悠人は心配性だ。少しでも弱音を吐けば、彼はすぐにでも私の元へ駆けつけようとするだろう。あるいは長文の慰めのメッセージを送ってくるはずだ。
今の私に必要なのは、彼に気を遣わせることでも、彼からの過剰な同情を受けることでもなく、ただ一人で静かに夜風に当たり、自分の中の毒を薄める時間だった。
スマートフォンの画面を暗くしたまま、最寄り駅の改札を出る。
改札の向こう側、いつもの待ち合わせ場所でも、目立つ場所でもない、少し離れた街灯の下。そこに、見慣れたシルエットが立っていた。
「……悠人くん?」
信じられない思いで声をかけると、彼は私を見つけるなり、ふっと慈しむような笑みを浮かべた。その手には、近所のベーカリーの紙袋と、湯気を立てているカフェラテのカップが二つ握られている。
「おかえり、栞。お疲れ様。……大変だったね、佐藤さんのこと。課長の前であんな言い方をされるなんて、本当に辛かっただろうね」
私は、改札機に手を置いたまま凍りついた。
佐藤さんの名前を出した記憶はない。今日、彼女とトラブルがあったことも、残業になった理由も、誰にも、一文字も送信していない。会社の同僚と悠人は繋がっていないはずだ。なのに、彼はまるでその場にいたかのように、私の屈辱を言い当てた。
「……なんで、佐藤さんのこと、知ってるの? 私、誰にも言ってないよ」
「ああ、ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ」
悠人は私に歩み寄り、当然の権利を行使するように、温かいラテのカップを私の手に握らせた。指先から伝わる熱が、冷え切った体に染み渡る。けれど、その温かさが、同時に私の内側を鋭く抉るような違和感へと変わる。
「三日前の夜、栞がSNSで『明日の会議資料、完璧に仕上げた』って投稿してたでしょ。あのプロジェクトのメイン担当が栞と佐藤さんだってことは以前聞いていた。なのに今日、本来の退社時間の直前に栞のログインがパタリと途絶えて、その三十分後に佐藤さんだけが『仕事が終わらなくて最悪、もう帰りたい』って愚痴を投稿してたんだよ。
……佐藤さんの性格なら、自分のミスを栞に押し付けて、自分は被害者面をして先に帰るだろうなって。それくらい、栞の周りの環境を観察していれば簡単に導き出せる結論だよ」
彼は事もなげに言った。
それは、パズルのピースを組み合わせるような、冷徹なまでの推論だった。確かに筋は通っている。けれど、その結論を導き出すために、彼はどれほどの熱量で私の、そして私の周囲にいるはずの他人の動向までも監視し、分析していたのだろうか。
「……それだけで、わざわざ駅まで来てくれたの?」
「それだけじゃないよ。栞は、本当に理不尽なことがあった日は、帰り道に必ずあのパン屋さんの塩バターロールを買うじゃない。でも今日は残業で、お店が閉まる時間に間に合わない。だから、僕が先に買い占めておいたんだ。一番いい状態の二つをね。
ほら、まだ温かいよ」
紙袋を覗くと、確かにまだオーブンの名残を宿したパンが入っていた。
私の、自分でも無意識だったストレス解消のルーティンまでもが、彼の頭の中では、予測可能なデータとして処理されていたのだ。
「ありがとう」
そう言った私の声は、空洞を抜ける風のように頼りなかった。
嬉しい。助かる。ありがたい。脳はそう命令しているのに、体の芯がそれを拒絶している。
彼は私の望むものを完璧に提供してくれた。でも、それは私が望んでいると自覚し、言葉にする権利さえも彼に先取りされ、奪われてしまったような、奇妙な剥奪感だった。
その夜、私は小さな反抗を試みた。
わざといつもより一時間遅く風呂に入り、髪を乾かす時間も引き延ばした。
そして、普段は見ないような深夜の過激なアクションアニメを、音量を上げてテレビで流した。
悠人の予測を裏切りたかった。私の行動が、彼の計算式の中にだけ存在する模範回答ではないと証明したかったのだ。
深夜一時。テレビから流れる派手な爆発音と電子音を背景に、私はソファで膝を抱え、薄暗いリビングでじっとしていた。
不意に、テーブルの上に置いたスマートフォンが、一度だけ、短く振動した。
心臓が口から飛び出しそうなほど強く脈打つ。画面を見ると、そこにはやはり、悠人の名前があった。
『まだ起きてるんだね。あのアニメ、栞が好きそうな絵柄だもんね。でも、あんまり夜更かしすると、明日の朝の血圧が心配だよ。低血圧なのに無理は禁物。……あ、もしかして、さっきのパン、味が濃すぎたかな? もし喉が渇いているなら、冷蔵庫の二段目にある麦茶を飲むといいよ。あれ、栞が好きな煮出しのタイプだから』
背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
テレビをつけていることも、私がまだ眠っていないことも。さらには私の喉の渇きや、冷蔵庫の中身まで。彼はまるで、この暗いリビングのどこかに潜み、私の呼吸の乱れを観察しているかのように言い当ててくる。
『どうして、起きてるって分かったの?』
震える指で、私は初めて、逃げ場のない疑問を打ち込んだ。
数秒後、すぐに既読がつく。
『さっきメッセージを送ろうとしたら、栞のアカウントが数分以内にアクティブになっていたから。それに、今の時間はあの放送局で、以前栞が作画が綺麗だねって褒めていた監督の新作が始まる時間だ。
栞なら、嫌なことがあった夜は現実逃避のためにあのアニメを見るはずだって、確信していたよ。……冷蔵庫の中身は、先週末に僕が買い出しのメモを作ったときに、あそこに置くのが一番取り出しやすいと思ったから。入っているのは当然だよね』
また、理屈だ。
すべては、彼なりのロジックに基づいた推測と管理なのだ。
彼はストーカーのように私の後をつけているわけではない。物理的なカメラを仕掛けているわけでもない。
ただ、私という人間を構成するすべての要素……過去の発言、思考の癖、好みの傾向、行動のテンポ……それらを執拗なまでに収集し、脳内の演算装置でシミュレーションし、その結果に従って動いているだけ。
それが、何よりも恐ろしかった。
物理的な拘束よりも、思考の先回りの方が、はるかに逃げ場がない。
私が何を好きで、次に何をしたいのか。それを自分自身が意識するより先に、彼は知ってしまう。私が自由意志だと思っているすべての選択が、彼にとってはすでに読み終えた台本の一行に過ぎないのではないか。
翌週末。私は最大の抵抗として、突発的に一人で映画に行こうと思い立った。
悠人には一切告げず、カレンダーの共有設定もオフにした。彼に言えば、必ず「僕も行こうか」と言うだろうし、チケットも席も、私の好みの位置を完璧に予約してしまうだろう。私はただ、自分の意志で、自分の好きな席に座り、自分のタイミングでポップコーンを口に運びたかった。
当日。私は家を出る直前までスマートフォンを機内モードにし、カバンの中に隠した。家を出てからも電源を切ったままにした。
映画館の暗闇の中で、上映が始まった瞬間、ようやく私は深い溜息をつくことができた。
スクリーンの中の物語に没頭している間だけは、悠人のあの射抜くような、それでいて穏やかな視線から解放されているような気がした。映画館の重厚な椅子が、私という存在を彼から隠してくれているように思えた。
二時間の映画が終わり、劇場の外に出る。
眩しいほどに明るいロビーで、私はおそるおそるスマートフォンの電源を入れた。
数秒後、濁流のように通知が滑り込んできた。すべて、悠人からのメッセージ。一番上の日付は、映画が始まるわずか五分前のものだった。
『今日は一人でリフレッシュしたい気分だったんだね。勝手に来て邪魔しちゃ悪いから、外で待ってるよ。映画、楽しんできて。終わる頃に、出口の近くにあるカフェの、栞がお気に入りの窓際席をキープしておくよ。新作のフラペチーノ、今日から発売だって栞が言っていたの、覚えてるから』
指先から血の気が引き、スマートフォンの画面が滲んで見えた。
私は映画に行くなんて、一言も言っていない。映画館の名前も、時間も、作品名も。
なのに、彼は私が今、この映画館の、この回を観ていることを知っている。
ロビーを見渡す。震える視線で人混みの中に、彼の姿を探す。
いない。どこにも彼の姿は見当たらない。
けれど、カフェの方へ視線を向けると、ガラス越しに、窓際の席で優雅にコーヒーカップを傾ける悠人の姿が見えた。
彼は、こちらに気づくと、ふっと柔らかく手を振った。
その微笑みは、聖者のように純粋で、濁りのない、そして底知れない優しさに満ちていた。
「……なんで」
私の唇から、自分でも驚くほど乾いた掠れ声が漏れた。
「なんで、知ってるの……? 怖いよ、悠人くん……」
彼は席を立ち、こちらへ歩いてくる。
その足取りは軽く、一点の迷いもなければ、不審な影すらない。
「そんなに震えないで、栞。
……だって、昨日の夜、栞が何気なく開いていたブラウザの履歴に、この映画館のスケジュールページがあったでしょう? それに、栞が今朝選んだ靴。あれは長距離を歩くのには向かないけど、長時間座っていても疲れにくい、映画用の柔らかい靴だ。
玄関のスマートロックが開いた時間と、今の電車の間隔を計算すれば、この回の上映に間に合うように家を出たことは明白だよ」
彼は私の目の前で立ち止まると、慈しむように私の頬を撫でた。
その指先は温かいのに、触れられた場所から神経が麻痺していくような、耐え難い戦慄が走る。
「僕はただ、君の行動を、君よりも少しだけ丁寧に読み解いているだけだよ。それが愛しているということだろう?」
私の内面が、すべて透明なガラスケースに入れられて、隈なく観察されている。
プライバシーという名の、自分を守るための最後の薄い膜を、彼は優しく、けれど強引に剥ぎ取っていく。
「悠人くん、もうやめて……お願いだから、私のことを見ないで……」
「いいんだよ、栞。何も言わなくて。……君が今、僕に対して言葉にできない恐怖を覚えていることも、全部、分かっているから」
悠人は、さらに深く、私の魂を包み込むように微笑んだ。
その瞳の中には、恐怖で顔を歪める私の姿が、逃れられない標本のようにくっきりと、永遠に残る形で映り込んでいた。
私は、何も言えなくなった。
拒絶の言葉さえ、彼に先回りして理解という名のオリの中に閉じ込められてしまうのだとしたら。
私の心の中に、私自身の尊厳は、あとどれくらい残されているのだろうか。
差し出されたフラペチーノは、驚くほど甘く、そして、ひどく泥のような味がした。私はそれを受け取ることしかできなかった。それが、彼にとっての正解だと知っていたからだ。




