第1章 気づく前の優しさ
陽だまりのような人だ、と私はずっと思っていた。
カフェの大きな窓から差し込む午後の光は、まるで彼を祝福するために用意された舞台照明のようだった。向かい合わせに座る悠人の、少し色素の薄い髪が柔らかく透けている。
彼は手元の文庫本に視線を落としたまま、時折、琥珀色のコーヒーを一口だけ啜った。その所作の一つひとつが静かで、無駄がない。
私はといえば、読みかけの雑誌を広げたまま、さっきから同じ行を何度も行き来していた。
三月も半ばを過ぎ、窓の外を歩く人々の装いも軽やかになりつつある。春の訪れは喜ばしいはずなのに、私の頭の片隅には、古いテレビの砂嵐のような、不快なノイズが居座っていた。
「……栞、無理しなくていいよ。今日はもう、お店を出ようか」
ふいに頭上から降ってきた穏やかな声に、心臓が跳ねた。
顔を上げると、悠人が本を閉じ、困ったように眉を下げて私を見つめていた。その瞳は、春の海のように深く、凪いでいる。
「え? まだコーヒー半分くらい残ってるし、大丈夫だよ。この特集、面白くて」
「ううん。さっきから一分おきに、左の目元を無意識に押さえているよ。瞬きの回数も、いつもの倍くらいになってる。……気圧のせいかな、低気圧が近づくと出る『いつもの』が始まってるでしょ」
指摘されて初めて、自分の左手がこめかみを強く圧迫していたことに気づいた。言われてみれば、数分前から目の奥がじわりと熱を持ち、脈打つような痛みがじわじわと脳を侵食し始めている。けれど、それは私自身ですら少し目が疲れているだけと無意識の底に沈めようとしていた、かすかな違和感に過ぎなかった。
「あ……本当だ。言われるまで自分でも気づかなかった。よく見てるね、悠人くん」
「わかるよ。栞のことなら、何だって。……顔色に出る前から、呼吸の浅さでなんとなく伝わってくるんだ」
悠人はまるで「明日の天気は晴れだね」と言うのと同じくらいの自然さでそう告げると、私の返事を待たずに伝票を手に取った。スマートに席を立ち、レジへと向かう彼の背中を見送りながら、私は自分の掌を見つめた。
彼はいつだってそうだ。私が自分の不調を自覚するより、一歩早くその兆しを掬い上げてくれる。
店を出ると、春の風が少しだけ冷たく感じられた。私は無意識に肩をすくめたが、その瞬間に、温かな重みが肩にかかった。悠人が自分のトレンチコートを脱いで、私の肩にかけたのだ。
「あ、いいよ。悠人くんが寒くなっちゃう」
「僕は大丈夫。それより、はい。これ」
彼が自分のカバンから取り出したのは、小さなアルミのケースと、未開封のミネラルウォーターだった。ケースを開けると、そこには私がいつも愛用しているメーカーの鎮痛剤が二錠、きれいに収まっている。
「えっ……用意してたの?」
「昨日、仕事のスケジュールが立て込んでるって言ってたから。無理して画面を見てるだろうし、今日は天気が下り坂だから、絶対に頭痛が出ると思って。水はさっき、栞が注文してる間に駅前のコンビニで買っておいたんだ。常温。冷たいと体に響くから」
差し出されたペットボトルの温度を掌で受け取りながら、私は言葉を失った。
至れり尽くせり、という言葉だけでは足りない。まるで、私の未来をあらかじめ体験してきたかのような、完璧な準備。感謝の気持ちはもちろんある。けれど、それ以上に凄すぎるという圧倒的な感覚が、感謝の波を追い越していく。
「……ありがとう。助かる」
「いいんだよ。栞が笑っていられないと、僕も苦しいから」
悠人は私の頭に軽く手を置いた。その手は驚くほど優しく、そして迷いがない。私の痛みがどこにあるのかを完全に理解しているような、的確な指の添え方だった。
家まで送ってもらい、薬を飲んで一眠りすると、夜には痛みもすっかり引いていた。
私はベッドの中で、スマートフォンの青白い画面を眺めていた。
特に何をつぶやくわけでも、誰かと連絡を取りたいわけでもない。ただ、寝る前の儀式のように、SNSのタイムラインをぼんやりとスクロールする。今日食べたケーキの写真、知人の愚痴、流れてくるネットニュース。
ふと、画面の上部に通知が表示された。メッセージの送り主は、悠人だった。
『少しは楽になったかな? 十一時を過ぎたし、そろそろ薬が切れて眠気が来る頃だね。おやすみ、栞』
時計を見ると、午後十一時二分。
確かに私は、夕食後に一度送ったスタンプで今日は早く寝るというニュアンスは伝えていた。けれど、具体的な時間は言っていない。それなのに彼は、私がスマートフォンの電源を落とそうとする、その最後の一瞬を狙ったかのようにメッセージを送ってくる。
「……ぴったりすぎて、ちょっと怖いな」
口の中で小さく呟き、私は苦笑した。
以前、彼に「どうして私が今何をしてるか、そんなに分かるの?」と尋ねたことがある。
その時、彼は少し照れたように笑いながらこう答えた。
『栞は、本当に分かりやすいんだ。集中しているときはSNSの投稿が止まるけど、ちょっと疲れてくると、特定のハッシュタグを無意識に巡回し始める。眠れない夜は、お気に入りのイラストレーターさんの過去絵を遡ってる。……ずっと見ていれば、自然とリズムが聞こえてくるんだよ。音楽みたいに』
ずっと、見ている。
それは、恋人としての深い愛情と、執着に近い関心の表れなのだろう。
私のささやかな癖を見つけ出し、それを栞らしいと受け入れてくれる。私が何を求め、何に苦しんでいるかを、言葉にする前に察してくれる。
かつて付き合ってきた人たちは、皆、私の不調に気づかなかった。私が「頭が痛い」と言えば「大丈夫?」と口では言うものの、ゲームの手を止めることはなかった。それに比べれば、悠人は奇跡のような存在だ。私の人生から不快な摩擦をすべて取り除いてくれる、透明な緩衝材のような人。
悠人と付き合い始めてから、私の生活からは不意打ちという概念が消えた。
雨が降りそうになれば、彼は傘を持って会社のビルの下で待っている。私が仕事でミスをして落ち込んでいる時には、何も言わずにお気に入りの店のチーズケーキを買ってきてくれる。私が「あ、ティッシュが切れそう」と思った翌日には、ストックが棚に補充されている。
それは、天国のような心地よさのはずだった。
けれど。
鎮痛剤が効いて、静まり返ったはずの脳の深部で、小さな、本当に小さなノイズが鳴り続けている。
砂嵐のような、あるいは、微細な虫が這うような、正体不明の違和感。
悠人が私を見てくれるとき、その瞳の奥にあるのは、純粋な慈しみだけなのだろうか。
彼は私の表層……行動パターンや、表情の筋肉の動き、生活のログ……それらを極めて精緻に、機械的に読み解いているだけなのではないか。
――便利すぎる道具を、自分の体の一部として埋め込まれてしまった時のような、不気味な心許なさ。
私はスマートフォンの電源を切り、枕元に置いた。
暗闇の中で、悠人の穏やかな声がリフレインする。
『わかるよ。栞のことなら、何だって』
それは深い信頼の証。私たちは、誰よりも理解し合えている。
そう自分に言い聞かせながら、私は深く毛布を被った。
窓の外では、街灯が音もなく私を照らしている。
カーテンの隙間から漏れる光が、寝室の床に細長い帯を作っている。
その光が、まるで誰かの視線のように、寝返りを打つ私の背中をじっと凝視しているような――そんな馬鹿げた錯覚を振り払うようにして、私は強く目を閉じた。
気のせいだ。
彼が私のことを大切に思ってくれている。ただ、その熱量が少し、普通の人より高いだけなのだ。
明日になれば、また彼が用意してくれた完璧な一日が始まる。
その幸福を疑うなんて、私の方がどうかしているのだ。
深い眠りに落ちる直前。
枕元に置いたスマートフォンが、微かに振動した気がした。
通知はないはず。気のせい。……あるいは、私がこれから夢を見ることを、彼はもう予見しているのだろうか。
意識が闇に溶けていく中で、最後に残ったのは、やはりあの陽だまりのような、それでいて冷ややかなほどに正確な、悠人の微笑みだった。




