第2話「個体Cと名もなき潜水士」
ああ。お前、ちゃんと生きて――
「……バカ野郎が」
深夜の『バベル号』。第3プールの縁で、潜水作業員のサトウは吐き捨てるように呟いた。
昼間、大勢の観衆とカメラの前で「痛くねえよ!」と吠え、わざと傷口を壁に叩きつけた個体C。
その狂言じみた強がりのせいで、彼の背中には無残な裂傷が広がり、海水が赤黒く濁っていた。
資源として判定された個体Cに、もはや高価な治療薬は割り当てられない。
痛くないのなら、自然治癒に任せればいいというのが、ロドリゲス博士たちの冷徹な結論だった。
サトウは、重い潜水服に身を包み、私物の強力な止血剤と抗生剤の軟膏を抱えて、独りプールへと潜った。
言葉のない水域
水中は、静寂に包まれていた。
ポセイドンのマイクも、スピーカーも、ここにはない。
あるのは、重い水の圧力と、個体Cの巨大な質量だけだ。
サトウが近づくと、個体Cの巨体がびくりと震えた。
昼間の威勢のいい青年の声ではない。
暗闇の中で、彼はただの一頭の傷ついた獣だった。
サトウはゆっくりと、攻撃の意思がないことを示すように両手を広げ、個体Cの背中の傷口に近づいた。
メスで焼き切られた組織、そして自ら壁にぶつけて裂けた肉。
そこから溢れる熱が、水の冷たさを通して伝わってくる。
(痛くないわけねえだろ。……バカが)
サトウは、分厚い手袋越しに軟膏を傷口へ塗り込んだ。
その瞬間、個体Cの全身に凄まじい緊張が走り、尾鰭が水面を激しく叩いた。
「……っ!」
サトウは水流に煽られ、壁に叩きつけられそうになる。
だが、彼は必死に個体Cの皮膚にしがみつき、塗り続けた。
「痛いなら、痛いって言えよ」
水中で吐き出された泡が、超クジラの大きな瞳の横を通り抜けていく。
サトウの心の中で、誰にも届かない言葉が漏れた。
「人間に舐められたくないのはわかる。だがな、死んじまったらプライドもクソもねえんだよ」
一瞬の共鳴
その時だった。
暴れていた個体Cが、急に動きを止めた。
サトウの胸に、言葉ではない何かが流れ込んできた。
それはポセイドンが翻訳するような、整った文章ではない。
もっと原始的な、熱い、ズキズキとした、喉の奥が焼けるような……。
強烈な、生の苦痛。
個体Cが、サトウにだけ、その防壁を解いたのだ。
痛くないと世界に嘘をつき続けるために、彼がどれほどの熱量を費やして神経をねじ伏せていたか。
その凄まじい疲弊と、剥き出しの痛みが、水の振動を通じてサトウの骨に直接響いた。
サトウは、超クジラの皮膚にそっと額を押し当てた。
言葉を介さないことで、初めて二人は同じ地平に立った。
(……ああ。お前、ちゃんと生きてるな)
言葉では、伝わらないことがある。
サトウは、以前からそれを知っていた。
数分後、サトウが浮上しようとした時。
個体Cの胸鰭が、そっとサトウの背中を押し上げるように動いた。
それは感謝でも、謝罪でもなかった。
ただ、同じ痛みを知る者に対する、不器用な挨拶だった。
翌朝。
個体Cは、再びカメラの前で「ケロッとしてるぜ!」と傲慢に振る舞い、大海原へと去っていった。
サトウは、甲板の隅でタバコを吹かしながら、その背中を見送った。
ポセイドンの記録には残らない、世界でたった二人……
一頭と一人の男だけが知る、静かな夜の記録だった。
次は、超クジラたちが言葉を完全に捨てたとき、海には何が訪れるのか。
その不気味な静寂を覗きに行きますか? <Y/N>




