第1話「バベルの設計図(前日譚)」
言葉さえ通じれば、この世界の悲劇の半分は――
「言葉さえ通じれば、この世界の悲劇の半分は消えると思わない?」
若き日のサキは、大学の薄暗い研究室で、青白く光るモニターを見つめながらそう言った。
隣でコーヒーを啜っていたのは、まだ情熱的な眼差しを失っていなかった頃のロドリゲスだ。
当時、二人が取り組んでいたのは、後に『バベル号』の心臓部となるリアルタイム概念翻訳機『ポセイドン』の試作型だった。
「人間」という名のバイアス
彼らの目標は高潔だった。
超クジラの歌を、ただの音響データとしてではなく、「意味」として抽出すること。
しかし、その設計思想には、開発チームの誰もが気づかない、あるいはあえて無視した致命的な欠陥が組み込まれていた。
「いいかね、サキ。翻訳機に必要なのは辞書じゃない。文脈だ」
ロドリゲスはホワイトボードに巨大な円を描いた。
「超クジラが鳴く。それをAIが解析する。その時、AIは『人間ならこの状況でどう感じるか?』という膨大なデータベースを照合して、最も近い言葉を選ぶんだ」
「つまり、この機械は超クジラの心を、人間の型に流し込む装置なんだよ」
「それじゃあ、超クジラ自身の本当の気持ちはどうなるの?」
サキの純粋な問いに、ロドリゲスは自信満々に答えた。
「資源保護政策を動かすためには、人間に理解可能な言語へ変換せざるを得ない。感情の根本は、哺乳類なら共通のはずだという思い込みを利用する――」
「空腹、恐怖、愛情……そして何より痛み。これらは生存に不可欠な共通言語だと。ポセイドンが完成すれば、超クジラが痛い、殺さないでくれと叫ぶのを、全人類が自分の耳で聞くことになる――」
「そうなれば、もう誰も銛を打てなくなるはずだ。真実が歪んだのだとしても、海が救われるならそれでいいじゃないか」
数ヶ月後、彼らは水族館で保護されていた傷ついた超クジラを相手に、最初の疎通テストを行った。
ポセイドンのプロトタイプが、水中のクリック音を拾い、処理を開始する。
モニターに表示された言葉は、驚くほど明瞭だった。
『……タ、スケ……テ……』
「成功だ!」
研究室に歓声が上がる。サキも涙を流して喜んだ。
だが、その時、ポセイドンのログの端に、翻訳しきれなかったノイズが1行だけ残っていたことを、彼女は見落としていた。
《解析不能セグメント、概念「タスケテ」に付随する、高次元の諦念、または観察者への哀れみ》
当時の彼らは、それをただの機械の未熟なバグだと断じた。
超クジラが人間に助けを求めている。
そのわかりやすい物語こそが、彼らが求めていた正解だったからだ。
「これで、海に平和が訪れるわね」
サキはそう信じて、ポセイドンのメインプログラムに署名した。
しかし、彼女が作ったのは対話の架け橋ではない。
超クジラを人間に見立てるための鏡に過ぎなかった。
ポセイドンのアルゴリズムは、超クジラの声を人間にとって理解可能な論理へと強制的に変換し続ける。
それが後に、4頭の超クジラたちが放つ「痛み? ないよ?」という、人間側にとって最も都合が良く、かつ最も残酷な回答を生成するための土壌となってしまったのだ。
バベルの塔を建て始めた時、人類はまだ知らなかった。
言葉が通じた瞬間に始まるのは、和解ではなく、自分たちの言葉を押し付けるための、より深い搾取であるということを。
次は、言葉を捨てた現場で起きた、
一瞬の、しかし本物の共鳴を描きます。
見届けますか?<Y/N>




