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イヌゴリラの森1

「ユースケ君、先頭を頼むよ。僕は後ろから行く。アリカさんは真ん中で」


 おっさんが低く、声を殺して言う。先頭・・・か。足元から、再び恐怖が上がってくる。だが、すぐにそれを押し戻した。今更、怖がることもないだろう。落ち着け。自分に言い聞かせる。


「もう、だからあたしに気をつかわなくてもいいってば」


 アリカが不平を口にする。


「まあ、僕らも一応、男だから。少しは恰好つけさせてほしいな」

「・・・・・頭にネクタイ巻いた人に言われたくない」


 アリカに言われて、おっさんはやっと自分がおもしろい恰好をしているのに気付いたのか、慌てて巻き付いたネクタイを外し、ポケットの中に押し込んだ。


「いやあ・・・はは・・あのままだったとは、お恥ずかしい・・」


 ネクタイを取ったことで、酔っ払いのおっさんは、ハゲのおっさんへと変化した。なんだか、おっさんの個性が急に萎んでしまった。これでは凡庸なただのハゲたおやじである。


「よし、行こう」


 気を取り直し、小さくつぶやくようにそう言って、俺は背を屈め、中腰の姿勢を取る。二人も同様に行動する。

 おっさんと俺は手に鉄の棒。アリカも手にしっかりとスタンガンを握りしめ、肩口にバックのひもを、落ちないように何重かに絡めて固定した。

 ちらとイヌゴリラの方を見る。変わらず、こちらを向いている。彫像のように、そこから動いた気配はない。やつの視界から外れるよう、俺たちはしっかりと腰を屈める。


 静かに、音をなるべくたてないよう、ゆっくりと歩を進めた。一列に並び、一定の間隔を保って進む。


「ゆっくり、そうっと・・・ね」


 アリカが俺たちの耳に届くか届かないかの声で、囁く。わかっている。やつをなるべく刺激しないように動く。


 連結部に差し掛かる。出口のドアは壊れ、開きっぱなしになっていた。そこから外へと踏み出す。


 じっとりと、湿った空気が肌にまとわりつく。電車の中にいるときはあまり意識しなかったが、外に出て、初めてこの世界の空気を感じた。Tシャツ一枚の装いでは少し、肌寒い。思ったより湿度が高く、ジメッとした冷たい風が、頬を触る。足元の土も、柔らかい。足を踏み出すごとに、何センチか沈み込むような感覚があった。


 不意に、アリカに肩を叩かれた。びくっと過剰に反応してしまう。あやうく声を上げてしまうところだった。こんな時に何なのだ。歩を止めて振り向き、両手を上げ「何?」といったようなポーズを取る。アリカは、不安げに、足元を指さした。下?下がどうしたというのか。アリカに促され、下を見る。


 赤黒い、シミのようなものが、ちょうど電車の下あたりから大きく広がっている。これは・・まさか血液?アリカが発する強烈な香水の匂いに阻まれ、臭気を確認することは出来ないのではっきりとしたことはわからない。だが、何かの血に見える。いったい何の?どうしてここに?


「来た・・・・来た来た来たっ・・来たっ!走れっ!!!」


 おっさんが叫んだ。それと同時に、俺の耳にも異変が届く。音だ。大きな、等間隔の音。これは足音か?!イヌゴリラ、やつが迫っているのか。


「走れっ!走れっ!」


 状況もわからない。だが、躊躇している時間はなかった。ただまっすぐに走る。電車から離れるように、足に力を込め、ペースなど気にせず一目散に走った。


「来てるのっ・・・?!あいつが!」

「来てるっ!こっちへ!・・・」


 アリカの声が後ろで響く。おっさんが、それに答える。すでに二人とも息を切らしていた。


「音だ・・・・音がっ!・・ほら来たあっ!!」


 足を止めず、振り返る。後ろ、数メートルの間隔でアリカ、おっさんと並ぶ。電車からはすでに数十メートルは離れている。電車の右端、そこから、大きな影が現れるのが見えた。そして、信じられない速さで、存在感を増してきている。大きくなる。こちらへと近づいてきている。


 四足で、その巨体を前後左右へと大きく揺らし、一気にこちらへと距離を詰める。予想を上回る速さだった。低く、腹に響く咆哮をあたりに響かせながら、やつは俺たちを威嚇している。その威容に、足が竦んだ。しかし、止まるわけにはいかない。本能的に察した。止まれば死ぬ。


 甘かった。あわよくば、素通りできるかもしれない、などと考えていた。狙いは俺たちではないのかもしれないと、思っていた。だが、やつは明確に俺たちを目指している。全ての予想が甘かったのだ。


 木々の間を縫って、ただあてもなく走る。数えられないほどの樹木が視界の端をあっという間に流れていく。血液がものすごい速さで全身を駆け巡っているのがわかった。心臓が痛い。息も切れる。足がもつれる。だが、ペースを落とすことができない。力尽き、足を止めた時、それは死を意味する。やつに肉をえぐられ、骨を砕かれ、生きたまま食われる光景が頭を巡る。それ意外を連想することができない。間近で迫るやつの迫力に、圧倒されていた。


 二人はついて来ているのか。不安になり、後ろを向く。アリカは、先ほどと変わらず、俺から数メートルの位置。おっさんは・・・・・・少し遅れている。顎が上がり、肩で息をしているのがわかる。ふらふらと足取りが覚束ない。


 怪物との距離はもうさほどない。ほとんど怪物の手が届きそうな距離まで後退している。あのままではまずい。すぐにでも捕まりそうだった。


「おっさん!早く!早く走れっ!」

「おじさんっ!」


 悲痛な叫びが、空しくあたりに反響する。俺もアリカも、すでに察していた。おっさんは、おそらく逃げきれない・・・・捕まる!


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