イヌゴリラの森2
「早く!走れっ!」
俺とアリカは立ち止まり、おっさんに向かって叫ぶ。どうやら、おっさんにはもう、それほど体力は残されていない。
人間の胴体ほどあろうかというような怪物の腕がおっさんの背中へと伸びる。おっさんは覚悟を決めたのか、それとも限界点を迎えたのか、足を止めた。そして、瞬間、振り向きざまに鉄の棒を振るう。
憶測で振るった鉄棒は、空を切り、怪物の胸あたりをかすめる。外れた・・・!怪物は意に介さず、おっさんの足首を乱暴に掴んだ。岩のようにごつごつとした指の一本一本が、まるで粘土でもつかむかのような気軽さで簡単にめり込んでいく。みしみしと音を立てて、おっさんの足が見る間に変形した。
「うわ・・・ああああああ?・・・・あああ」
自分に何が起こったのか、信じられないといったような表情で、おっさんが悲鳴を上げた。怪物はおっさんの足首を掴んだまま、離さない。おっさんの苦悶を、慟哭を、愉しんでいるかのようだ。執拗なまでに、ぐにぐにと、同じ部分を押さえつける。まるで、粘土細工で遊ぶ子供である。しかし、そこに無邪気を感じることは出来ない。何か、意図が見える気がする。何か・・・・。
「ユースケ!やばいよ!おじさん、食べられちゃう!!」
食べる?本当に?違和感がある。あいつにそんなつもりがあるのか。嫌に頭が冷たい。目の前で人が死にかけているのに。どうして?俺の中に危機感が生じない。まだ、余裕がある。そう思える。
あいつの目的はなんだ?あの怪物の狙い。
「逃げろおおお!早く!行けっ!行ってくれええ!!」
おっさんが俺たちに向かって声を上げた。青白く、生気のない顔で叫ぶ。怪物は、足を弄ぶことに飽きたのか、今度は、おっさんの右腕を掴む。そこにじわじわと力を込める。今度は先ほどのように急ぎはしない、ゆっくりと、真綿で締め付けるように押さえていく。徹底的にいたぶるつもりなのか。
余裕だと?俺は何を考えている。余裕なんてないはずだ。いま、俺たちが逃げればおっさんは死ぬ。間違いなく。しかし、どうする。俺たちで・・・俺でおっさんを助けられるか・・俺で・・。
「おおおあああああ!!」
おっさんの声にならない叫びが、耳に入ってくる。逃げてくれだって?そんな様で言ってくれる。ホントに逃げちまったらどうなる。あんたどうする気だ。そのまま惨めに死んでいくのか。逃げろなんて、簡単に言ってくれる。
「ユースケっ!」
アリカが再び、俺に向かって声を張り上げる。助けろっていうのか。俺に。俺なんかに期待しているのか。何が出来る。向かっても死ぬだけだ。勝ち目なんてない。だったら、どうする。俺は・・・・どうする。
アリカが走り出した。スタンガンをしっかりと握り直し、そのまま一直線に怪物へと向かう。無謀だ。あの怪物にスタンガンなんてちゃちなものが効くとは思えない。死ぬ。あのままだと、アリカも死ぬ。
逃げるか。二人を置いて、一人だけ。それもありだな、と頭の隅で考えた。出会って数時間の、限りなく他人に近い、ただの知り合いだ。助ける義理なんてない。
足が震える。全身の皮膚が粟立つ。あの怪物を見ろ。よく見ろ。あれは死の象徴だ。こんな貧弱な手で、足で、体で、立ち向かえる存在ではない。もっとも愚かなことは、あれと正面切って戦うことだ。あれと相対したとき、俺に訪れる結末は、死、だけだ。
十分、理解している。だが俺は、一歩、前に踏み出す。おっさんの持っていた携帯電話。待ち受け画面。あれを思い出していた。怒りが湧いてくる。ふざけやがって。逃げろ、だと。死ぬつもりだっていうのか。あの子を幸せにするんじゃなかったのか。何不自由ない生活を送らせてやるんじゃなかったのか。死んでどうする。それをあんた以外の誰がやれるんだ。
足の震えが止まった。一歩、二歩。スムーズに前に進める。走れる。
アリカは仲間だと言った。俺たち三人は仲間だと。一人で勝手に突っ走りやがって。何が仲間だ。相談もなしに走り出して。こんな時に足並が揃わなくてどうする。協力してやらなくてどうする。
ペースが上がる。思いっきり、腕と足を限界まで動かして走る。
散々、ヤキモキさせやがって、あの醜い怪物。どうしてやろう。恐怖は消し飛んだ。身体も軽い。やれるはずだ。いや、やってやる。こうなったら、イヌゴリラの野郎め、やってやるぞ。
怒りは、炎となり、動力となる。余計な感情など捨てろ。今、俺はただ、怒っていればいい。薪をくべ、燃やし尽くせ。
「アリカーーー!後ろからいけ!外から回り込め!俺が気を引く」
鉄の棒を、両手で握る。集中しろ。自分に言い聞かせた。ここからは死線だ。どう転ぶか、俺が選ぶことになる。




