097
地役人に紛れて後方に踏ん反り返るのは、大久保一翁。例の如く目を細めて怜を睨んでいる。(ーーーように見えるが本人は普通の表情をしているだけである)
「知り合いか?」
「閣下は逃げた方がええかも…」
「名は?」
「大久保忠寛」
「ほう。お奉行様か」
高杉は一秒考えて踵を返した。
「このまま連れて行こうと思っていたが……ま、あの数じゃ無理だな」
無謀な賭けはしない主義である。
「長州も行きたくないけど、江戸はもっと嫌や」
「あの様子じゃ、何処へ逃げても捕まるだろうな」
「(小栗)先生はアホやなかったみたい」
怜が上海へ行ったことを知っているということは、二ヶ月間指を加えて待っていたわけではなさそうだ。となれば、植木村の方も手が回っていると考えて良いだろう。
「まあ、えーわ…。いつかは顔出さなあかんことやし」
高杉は怜の度胸に感服し、クククと含み笑いをすると、ポンと肩に手を置いた。
「健闘を祈る」
シュッと耳元で風が吹いて、振り返った瞬間にはもう高杉の姿はなかった。人波が押し寄せた先に、挙げた手が見えた気がしたけれど、その時はもう一翁の腕が怜を捉えていてーーーーー
「久方ぶりだな」
「おぉ…これはこれは」
怜は左手を前に腹に当て、右手を後ろにして西洋式にお辞儀した。
「御存命、誠に喜ばしく」
ひくりと一翁の口角が上がった。
◇◇◇◇◇◇◇
肥後
鬱蒼とした木々が揺れ、馬の蹄が地面を蹴った。土煙を上げ、幾人もの男達が目指す場所は"植木村"である。村の人々は不安げな眼差しで見送り、一際偉そうな馬上の男に深々と頭を下げる。もちろんその御方がいずれの高貴な生まれかなど知る由もない。ただ威圧感漂う雰囲気に飲み込まれているだけだった。
数十騎からなる部隊の中央辺りには小さな子供がいた。周りに守られるようにぱかぽこと奇怪な音を立てながら通り過ぎていく。
「先生おおきに!」
「うむ」
怜はご機嫌で黄褐色のロバに乗っていた。一翁からのプレゼントである。
「あんたの名前は"大久保君"や」
「それはやめよ」
「えー」
怜はあーでもないこーでもないと悩みながら、しばらくすると見慣れた風景に到着していた。
そのまま江戸へ直行かと、内心では戦々恐々としていた怜だったが、一翁に"用事"を済ませてからで良いと告げられた。小栗からそのような打診があったと言うが、無理矢理連れて行っても怜の場合、あの手この手で逃亡するのは目に見えているため、一翁もその意見には賛成だった。
雲一つない青い空に、拓けた風景が眼前に広がる。太陽が地を照らし、生い茂る木々が第二の我が家を取り囲んでいた。
「ブオォオォオォーーー!」
大地を揺らしながら走ってきたのは、佐藤君である。役人達は驚きの声を上げ、馬が恐怖に暴れ出す。(ロバはボーッとしていた)
怜はヒョイと飛び降りると佐藤君の元へ駆け出した。
「ぼーちゃんもおいで!紹介するから!」
「ヒ…ー…?」(ぼー…ちゃん…?)
ロバの名は"ぼーちゃん"に決定したようだ。
「佐藤君!!」
怜は猪に飛び付いた。
「ブオォオンブオォオン」
「元気やったー?」
「ブオォン…」
「ああ、あの人らは大丈夫やから心配せんでええよ」
佐藤君は一翁に気付くと身体を小さくして「お久しぶりですね御役人様」と頭を下げた。
「佐吉君らは?」
「ブォーン」
怜と佐藤君は横並びに、その後ろをロバが続いて歩き出す。間口から夫婦が顔を出し、怜は手を振りながら駆けていった。
実のところ、小栗からの打診はそれだけではない。怜がこの地に拘る理由を知りたいのである。
「お前達はここで待機せよ。一刻後に出発する」
「御意」
一翁は馬から降り、怜の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇
「怜!元気やったか!」
「心配しちょったんよ!いきなり上海に行くって連絡がきて」
「私も上海なんか行くつもりなかったんやけど、気付いたら上海やったんよ」
「何それこわい」
三人は再会を喜び合う。
千香は涙を滲ませ、怜を抱きしめた。
何せ風のように突然の別れであり、怜の私物も全て置きっ放しで、猪も夜鷹も消えてしまったのだから無理もなかった。(数日後に猪は帰還したが)
「ごめんね。二人とも」
「無事やったらそれでよかばい」
「今度はゆっくり出来るん?」
怜は申し訳なさそうに首を振った。
「それが、ちょっと江戸に行かなあかんようなって……」
「ええ!?」
二人は目を丸くした。
「あ、それはそうと西瓜どうなった?」
佐吉と千香は顔を見合わせた。
表情の変化に怜は悪い予感がして、菜園の方へ走り出す。順調に育っていればいくつかは収穫出来る西瓜もあるだろうと推測していたが、どうも雲行きが怪しいようだ。
家屋の右手から裏へ廻ると怜は眼前に広がった菜園に目を見張った。そこには剥き出しの畝が一直線に並んでいるだけである。
「全然芽が出んばい…」
佐吉が申し訳なさそうに言った。
「芽が出ん…」
怜は首を傾げた。
何故、芽が出ないのか。にわか素人の怜に分かるはずがなかった。
「何でやろ…」
「うちらも色々考えたんじゃけど、西瓜なんか育てたこともないし…」
「雨が降り過ぎたか、それとも日照りが続いたか、なんか原因があるはずなんやけど」
佐吉は思い立って家の中に入ると、直ぐに出てきて紙の束を差し出した。
「これ、一応記録ちゅうのを付けちょったんじゃけど」
「ナイスや佐吉君」
不揃いな字で書いた記録を辿ると、荒れた天候も無く、かといって日照りが続いた経過も無い。だとしたら最初に植えた時点で問題が発生していた可能性もある。
怜は畝の間を進み、土を掘り返した。
小さな種は何の変哲も無く、最初見たままの姿である。
怜はその一粒をつまんだ。
「柔らかいな…」
懐からグラバーに貰った種を取り出し、それと比べても一目瞭然である。受精した黒い種だからといっても、様々な原因で発芽しないこともあるのだ。
「前の種は期待半分やったし、今回は諦めて次はこの種を使うわ」
怜は薬包を佐吉に渡した。
「面倒やけど種を全部回収しよ」
「そうじゃな、うん」
また一からやり直しだ。
けれど一度や二度で諦めるほど、この野望を甘くみているわけでもなかった。この先、更なる困難が待ち受けようとも、けして自分から諦めるつもりはない。
「先生も手伝って」
「…なに?」
「こらー!そこで油売っとる場合かー!あんたらも手伝いーー!」
「「「ええぇえぇーー!!?」
一方
「ブォブォ?」(貴方様は?)
「ヒー…」(ぼ…ー…ちゃん…)
「ブォオォオォ」(はじめまして佐藤君です)
「ヒー…」(よ…ろ…し…く…)
人が多ければ作業も捗るというわけで、あっという間に種を回収した後は今後の話となった。
「また来年やね」
ほんの数ヶ月前に初植えを迎えたばかりだというのに出鼻を挫かれた感が満載で、先行き不安ではあったが、まだグラバーから貰った種もある。今ここで自分が落ち込んでいては、左吉も千香も気に病むだろう。
怜は自分を奮い立たせるように「よし」と顔を叩いた。
「また来年のために土と腐葉土、ほんで柵も少しずつ作っていこ。さっき渡した種は五十粒くらいあるはずやから、十粒ずつにわけて保管しとって」
「十粒?」
「もし病気の種とかあって移ったら困るし」
「そうじゃな。わかった」
早速立ち上がった佐吉の後ろから千香が水を持ってきた。
「御役人様もどうぞ」
「かたじけない」
「ありがとうございます!」
ひんやりとした井戸水はひと仕事終えた身体に染み渡る。怜も一気に飲み干してホッと息を吐いた。
「左吉さんも寄り合いとか参加して、色々勉強しちょるんじゃけどね」
千香がその背中を見つめて言った。
佐吉なりに何とか物にしたいようで、近頃では貸本屋を巡ったり、知り合いの畑へ出向いて話を聞いたり、また好意で貰った種を菜園の一角に植えていた。
「あれは?」
怜は菜園の小さな黄色の花が咲いた場所を指差した。地這いした蔓がほうぼうに伸びてしまい、地面を完全に覆っている。
「アレは"きうり"ばい」
「きうり?見ていい?」
「おう。もちろんばい」
怜は宝物を探すように蔓を掻き分けた。まるでジャングルのように密集していて蔓も絡みまくっているが、実は確実についている。
思わず怜は感嘆の声をあげた。
「綺麗な胡瓜!こんなん京でも見たことないわ!」
後藤家では滅多に食べることはない胡瓜だが、市場や八百屋では普通に見られる。だが大体どれも黄色っぽく、形も不揃いで苦いものばかりだった。ゆえにこの時代では胡瓜より真桑瓜の方に需要があり、よほどの物好きでない限り、あまり食べようとは思わない代物だった。
怜自身もこの時代の胡瓜は黄色っぽい物で、少しずつ品種改良されて現代の胡瓜になるんだろうと思っていたのだが、まさか未来と変わらないほどの青々とした胡瓜が、今まさに目の前にあるとは思わなかったのだ。
形はたしかに曲がっているものばかりだが、色も艶も文句の付け所がない。
「これはまだ未熟ばい。もっと色が変わらんと収穫出来ん」
怜は目を見開いた。
「…そうやったんや」
胡瓜は元々「黄瓜」と言われていた。
ひと昔前、中国から日本に伝来されたが、中国と同じ栽培方法で、収穫時期もまたそれを模範にしていたのだろう。中国では受け入れられたかもしれないが、日本人には受け入れられなかった。だから甘い真桑瓜の方が人気があるのだ。
「佐吉君、まず胡瓜は添え木をせなあかん」
「え?」
「実が重い植物は支柱を立てんかったら倒れてしまうやろ?」
怜はその辺に落ちた棒を持ってきて、土の中に突き刺した。
「この棒と茎を紐で括り付けるのが基本やよ。こうしとけば倒れる心配もないし、日光も満遍なく当たる。それに収穫もしやすくなるから」
「な、なるほど。確かに」
「蔓性の植物はそうした方がいいんよ。西瓜もそうや。蔓が伸びていったら隣りと絡まったりするやろ?そういうので病気になったりもするからね」
佐吉は頷きながら紙に筆を走らせた。
「ほんで、収穫時期やけど」
怜は地面に横たわった胡瓜を掴んでもぎり取ると、井戸水で綺麗に洗って一口食べた。
「今が食べ頃やね」
シャリと良い音がして佐藤君が吠えた。
「ブォォオォーー!」(くだせぇー!)
「ほ、ほんとか!?」
「黄色は熟し過ぎや。だから苦くなるんよ。佐吉君も千香ちゃんも食べてみ」
二人は顔を見合わせ、怜から胡瓜を受け取ると恐る恐る口に運んだ。シャリリと軽やかな音と共に二人の表情が驚きに変わる。
「凄い…全然苦くない」
「そうやろ?胡瓜はあんまり栄養はないけど、これからの時期には暑気払いにええし、水分補給にもなるし、味噌汁でも酢の物でもお漬物でも何でも使えるから重宝するよ」
怜はくるりと見渡した。
「さ、回収も思ったより早かったし、今から胡瓜収穫して、さっさと市場に卸した方がええ!佐吉君!この契機を逃したらあかん!」
「そ、そうじゃな!うん!」
「わ、私、籠持ってくるわ!」
「役人さんも手伝ってや!」
「「はいぃ!」」
その様子をずっと見ていた一翁。
まさか怜が農業に携わっているとは思ってもみなかったが、汗水流して働く姿を見て口元が緩んだ。
(相変わらず変わった奴だ)
◇◇◇◇◇◇◇
江戸・小栗家
「この度は此方の無理をご承知頂き、誠に有難うございます」
「いえいえ。お気になさらず」
小松は四十五度に頭を下げ、そして目の前の男を見た。小柄な体躯は、剣術など無縁にも見える。だが実際は直心影流の免許皆伝を許されている身である。また柔術、砲術にも長け、才知も富んでいるのだから、まさに文武両道を地でいく男なのだろう。
柔和な瞳の奥にはこちらを観察するような光が見え、けれど何処か楽しむような空気もあった。
「堅苦しいことは抜きにしましょう」
小栗はにこやかに微笑む。
「かの子供の件でしょう」
「ええ」
「ご承知かと思いますが、近頃まで上海の方に旅に出ておりましてね、近々帰る予定なのですが……あの通りの子供でありますゆえ、我らも手をこまねいているのですよ」
「私共も噂はかねがね聞いております。なかなか利発な子供だとか」
「"無謀"と言った方が正しいでしょうな」
「同感です」
怜が聞いたら拗ねるだろう。
「薩摩では大変お世話になったとか」
「いえこちらこそ、仲五郎が随分こちらで御面倒をおかけし」
「いやいや。五郎に世話になったのは私の方です。実に素晴らしい少年だ…博学才穎の上、温厚篤実でもある。しかしそれらをおくびにも出さぬ謙虚さ!更には見目麗しい美少年ときた!羨ましい限りだ!」
小栗の鼻息が荒くなった。
小松は少し引いた。
「それは……恐れ入ります」
「欲しい…」
「え?」
「はっ、あ、いや、申し訳ない」
小栗は頭を下げた。東郷のこととなると我を忘れてしまう彼の悪い癖だ。
「それで、かの子供の件ですが…」
小栗は一気に茶を飲み干し、ジッと小松を見つめた。
「回りくどいのは抜きにしましょう。幸いここには、我らを気にする者はいません。家の者も皆、使いに出しておりますゆえ」
道理で小栗本人が出迎え、自ら茶を淹れたわけだ。もちろん小松自身も今日は単身で乗り込んでいた。東郷は渋ったが、この話だけは胸の内にとどめる必要がある。何せ内容が内容だ。鼠一匹漏らすわけにはいかなかった。
「では、単刀直入に」
小松は一瞬目を閉じて、意を決したように真っ直ぐと見返した。
「怜は、天璋院様のーーーーーいや、家定公の"御息女"では御座いませんか?」
二人は気付かなかった。
そこに長州藩の"吉田稔麿"という鼠が一匹、潜んでいることをーーーーー




