096
江戸・薩摩藩邸
「一度、小栗殿と面会したいと思っている」
「それは、極秘ということで?」
東郷の問いに小松は頷いた。
「どうしても確認したいことがある」
「それは怜のことですか?」
「まあ、そういうことだ」
怜が渡航した後、小松は予定通り薩摩から京、そして江戸へとやって来た。途中、藩を揺るがす大事件があったものの、一先ず落ち着きを取り戻している。もちろん幕府内は混乱のさなかで、改革をめぐる激しい議論が佳境を迎えている状況だった。(文久の改革)
「あ、あの…」
「うん?」
「あの文様は一体何なのですか?」
怜が行方不明になっていることは、既に小栗の知るところではあるが、慌てるわけでもなく静観しているように見えた。ただ上海視察団の帰国日が知らされた昨日、長崎に使いを出していることが東郷の調べでわかった。
おそらくは港で怜を確保し、そのまま江戸へ連行するつもりなのだろう。無論それに対する反論はないが、それからどうするつもりなのか、全く予想がつかない。
今、もし怜が表に出ることがあれば、幕府ばかりか日本中が混乱状態に陥る。ゆえに薩摩にとって怜の存在は「凶」以外のなにものでもなかった。
「それはまた時期が来たら話そう」
東郷は一瞬何かを言いかけたが、思い止まり頭を下げた。
「この書状を届けてくれ」
「御意」
東郷は一礼すると、襖に手をかけたまま思い出したように「あっ」と声を上げた。
「鈴木君は来ていないのですか?」
「……あ、ああ…彼はね…」
◇◇◇◇◇◇◇
京・"後藤家"
「キョキョーーー!」
「ほれ、駄賃や」
チャリーンと小気味よい音が弾けた。
鈴木氏は空中に舞った文銭を、器用に嘴でキャッチした。
「ほんによう働く夜鷹や」
「ハツ、何しとるんや」
「ご近所の皆さんに文を届けてもらった御礼や。ほら明後日、茶屋に行く予定やったんやけど、明日にしてもらお思てな」
「そうか…」
鈴木氏は自活していた。
日々、ハツや朱美、他にも様々な女性達から仕事をもらい日銭を稼いでいるのだ。(ちなみに男性の頼みは一切聞かないと評判である)
「キョキョー」
後藤家の庭にある樹齢四百年のケヤキが鈴木氏の住処であり、幹の中腹の穴の中が寝床である。その中には文銭ばかりが山のように積まれ、その上で寝るのが至福の時だった。
「キョフ…」
鈴木氏は何かに気付いて顔を上げると、文銭の上に素早く枯葉を被せる。ふわりと外に飛び出してケヤキの頂点に辿り着くと、細い枝の上に止まり眼を閉じた。
「キョキョォオォ!!」
なだらかな風に乗って懐かしい匂いがした。
雄叫びを上げた鈴木氏はグンと上昇して後藤家を旋回する。嵐のようなけたたましい風圧を受けた後藤家の庭木は、暴音と共に一斉に裸木と化した。
「ひぃいいぃいぃ!!ワシの髪がーーー!なけなしの髪がーーー!」.
善治郎の頭部も多大なる影響を受けたようだ。
「まあ....」
縁側から様子を見ていたハツは、瞬く間に消えていく夜鷹の姿に、惚れ惚れと魅入った。
「"蒼穹に、矢羽の如き衝迫は、乙女の心をかき乱す、ウチと夜鷹の密ごころ……"」
ほうっと息を漏らすハツ。
「こんな時に短歌なんぞ詠んどる場合か!!」
ハツに文学センスは無い。
一方、同じ京の下。
長州藩邸
「向こうも本気ぽいっすね」
「だろうな…」
久坂は腕を組んで思案していた。
隣には伊藤俊輔。もちろん話の内容は怜のことである。江戸にいる吉田からの文では、小栗が怜を連れ戻す為、長崎奉行所の協力を得て、数十人体制で確保する予定とのことだった。
「まさか高杉が怜を上海に連れて行くとは思ってもみなかったが」
今回の怜誘拐は高杉の独断であり、久坂も桂も知らなかった。久坂が知ったのは既に出航した後、入江九一が久坂宛の高杉が記した書状を届けにきたからである。
「自由人っすからね…あの人」
「まあ、それは特に問題ないが…」
小栗が動き出すとなると、今度こそ怜は幕府側に捕らえられ、会うことも困難になってくる。いや一番心配なのは利用されるのではないかということだった。
怜が簡単に幕府側に付くとは久坂も思っていない。むろん此方側に傾倒するとも思わないが、ただ怜が何をきっかけにして"転ぶ"か、小栗が知らないはずはない。
確かに久坂と怜は祝言の約束はしたものの、"口約束"であることには違いない。散々怜を翻弄し、あまつさえ上海渡航まで強制したのは"長州"である。嫌悪はあっても好意など皆無だろう。
つまり怜との間に存在するのは"口約束"という名の、極めて頼りない絆しかないのだ。
「どうします?」
「もちろん…」
しかし、だからどうしたというのだ。
今更取り繕ってもどうにもならない。
「怜は渡さぬ」
◇◇◇◇◇◇◇
江戸城
久光が江戸に下り、勅命を"利用"して幕政改革を要求したことは、少なからず幕府に動揺を与えていた。
「孝明天皇が至く信望なさっておいでのようだ」
「さもあろう。寺田屋の件では見事な裁きだったというではないか」
「しかし、まさか朝廷が口出しするとは…」
"禁中並公家諸法度"(きんちゅうならびにくげしょはっと)により、朝廷の幕政介入は不可能である。よって実質的には、朝廷が薩摩藩を通して改革を示唆したということだ。ともあれ、幕府側にしてみれば"介入"に違いなかったが、かといって朝廷相手に反故には出来ない。
世は外国人排斥運動に傾き、ひと月ほど前にもイギリス警備員二名が殺害されるに至っている。度重なる過激な事件は幕府の悩みの種であり、また外国人に対する弱腰の姿勢が、幕府の権威失墜に繋がっているのである。
久光の意向により、人事改革から軍事、制度に至るまで、幕府は受け入れざるを得なかった。
安政の大獄で失脚していた一橋慶喜、松平慶永らが復帰し、慶喜を将軍後見職、慶永を政事総裁職に、松平容保を新しく創設された京都守護職に任命したのである。
控えの間
「私が…京都守護職と…」
容保は独り言のように呟いた。
「京に"にしんの山椒漬け"はあるのだろうか…」
「殿…」
「あれが無いと、京になど行けぬ…」
「殿っ!殿は…にしんの山椒漬けが苦手で…ございまする!…うぅっ…」
無言のままハラハラと涙を流す美青年。
隣では平馬が泣き崩れていた。小栗はやれやれといった調子で白湯を口に含む。
確かに可哀想な御人だ。
藩財政は既に窮乏を極めていると聞く。蝦夷地、浦賀の警備を任され、先日などは直々に家茂より幕政参与に任命された。そこへきて京都守護職とは、矢面に立つ格好の餌のようなものだ。
「私はどうしていつもこうなのだろうな」
「肥後守様は聡明であられますゆえ」
「私は争いなど好まぬ。慎ましくとも、民が安寧に暮らせばそれだけで満足なのだ」
「だからこそ、でございます」
「又一…」
「だからこそ……貴方様のような御人が必要なのでございますよ」
これをきっかけに政事の中心は江戸から京へと移るだろう。諸藩の藩士らは次々と京に入り込み、天誅と称しては幕府を恨み、今より更に血を流し合うのだ。
皮肉にも、互いの中にあるのは"正義"という同じ"志し"だというのに……
◇◇◇◇◇◇、
小栗邸
「成る程…」
小栗は書状を文机の上に置いた。
小松帯刀という薩摩藩士。久光の信頼も厚く、常にそばに置いているとか。
「五郎、ならば君も怜が上海に渡ったことを知っているんだね?」
「は、はい」
小栗がそれを聞いたのは、植木村の夫婦からの情報によるものである。怜が表向き坂本龍馬に誘拐され、そのまま長州、そして肥後に行ったことは後の調べで分かった。
その後の足取りは全く途絶えてしまったが、肥後で起きた殺人未遂事件をきっかけに、ある夫婦が、奉行所に六歳の少女が行方不明になったと届出を出していたことで発覚した。しかしその届出は二日後に撤回され、よくよく調べさせると、夫婦の元に"怜"自身から文が届き、そこに上海視察の旨が書き綴られていたという。
おそらく、本人が書いたわけではないだろう。
「あの子を上海に連れて行った人物は、長州の者だね?」
「おそらく」
「そうか…」
"高杉晋作"
小栗の脳裏にその文字が浮かんだ。
視察団随行員の中にあったのは高須藩、佐賀藩、佐倉藩、浜松藩、そして長州藩の名があり、薩摩藩はなかった。
大体は予想がついていたが、そこまでして怜を欲するのは何故か。確かに聡い子ではあるが、今やあの少女は小栗忠順の養女である。しかもそれは幕閣直々の正式な下命なのである。
「先生は、あの、怜をどうするおつもりですか?」
「ふふふ…」
「せ、先生?」
「若いっていいよね」
「えっ…」
小栗は頬杖をついて東郷を眺めた。
締まりのない表情である。東郷の顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。
「ぼ、僕は別にっ」
「いいんだよいいんだよ。私には全てわかっているのだから。ふふふ」
「先生っ!」
小栗は一頻り笑った後、筆を取りサラサラと書き連ねた。
「これを小松殿に渡してもらえるかな?」
「は、はい!」
小松の会談の申し出は、小栗にとって寝耳に水の話だった。ともあれ、考えればわかることだ。東郷があの文様について上司(小松)に報告しているのであれば、怜の出生に辿り着く可能性は極めて高い。
そもそも家定の後継争いは、安政の大獄によって結果的に一橋派は遠ざけられた形で終息している。つまり現在幕政を掌握するのは南紀派に属する譜代大名が中心なのだ。よって外様大名である島津一門は幕政から遠ざけられ、また水戸藩などの親藩大名も同様だった。
薩摩藩は武備開国派(朝幕合体を基本に武力で備えた上での開国)、対して水戸藩は尊王攘夷派であり、両者は相容れぬ関係性である。にもかかわらず薩摩藩が一橋慶喜を推挙したのは、尊王の思想そのものが薩摩藩にとって都合が良かったのだろう。幕政は朝廷抜きにして工作は計れないのだから。
結果的に今回の改革によって、目論見通り一橋慶喜は復帰し、島津久光は五大老の地位に就いた。つまり幕内の発言権を獲得したということである。
「そうか…なるへそ…」
今、怜に出てきてもらっては困る。
つまりはそういうことなのだろう。
「先生?」
小栗は人ごとのように笑みを深めたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
長崎港
行きとほぼ同じ過程で日本に戻った千歳丸は、約一週間の船旅を経て長崎港に到着した。
港には出迎えの役人や諸藩士らがひしめき、物見遊山の人々が英雄を迎えるが如く騒いでいる。
「やっと、着いたか」
高杉は地へ降り立った瞬間、大きく伸びをした。怜は寝惚け眼で目をこすりつつ、欠伸を噛み殺した。
「なあ、怜」
「んー?」
「お前、このまま肥後に行くんだったよな?」
「そうやけど、なんで?」
高杉は顎をしゃくりあげた。
振り返れば、おびただしいほどの役人がこちらを睨んでいる。
怜の背筋に冷たいものが走った。




