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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
98/139

098



(……怜が家定公の娘?)


思いもよらぬ言葉に、吉田の思考は緊急停止した。


藩命により旗本の妻木という男の元で間諜をしていた吉田は、漸くその任を解かれ京にて久坂らと合流する筈だった。しかしその久坂から「小栗の動向を探ってほしい」と文が届き、一週間前から張っていたのだ。


(どういうことだ……)


吉田は息を止めて次の言葉を待つ。



長い沈黙だった。



「そう……思われますか?」


小栗の声はいつもと変わらなかった。

何処か余裕で、動じる様子もない。

けれどそれは、小松も同じだった。


「あの"文様"には見覚えがあります。六年ほど前のことでしょうか。私が斉彬公に従い、江戸(こちら)へ参った頃のことです」

「六年前といえば、天璋院様の御婚礼の折に」

「ええ」

「成る程…」


小栗はそれだけで納得したようだった。頻りに頷き、考えるように顎に手をやる。


「その際の婚礼品に描かれた文様が、あの娘の()()と同一でございました。……されど半信半疑なのも事実なのです。もしも、仮に、()()()()()ことがあったとして……誰も気付かないなどありますまい」


念を押すように小松は言った。


「小松殿」

「はい」


小栗は姿勢を正した。

その目には微かに悲嘆の色が滲んでいる。

小松もまた背筋を伸ばして真っ直ぐと見つめた。


「時を同じくして私は、家定公の近侍を務めておりました」

「そうでしたか…」


小松は、小栗が家定公を特に尊信し、家定公こそ"主君"として忠節を尽くしていたのだと知った。奇しくもそれは、小松自身が斉彬公に対する感情と同質のものだった。


「我が主君がもし御存命であらせられるのなら、仮にもしあの娘が()()であったとしても、けして表には出さぬでしょう」

「小栗殿…」

「ゆえに私は主君の命に反することは致しませぬ」


小栗の中ではそれが全てだった。

もしもそれが有利な切り札になろうとも主君に従う、ただそれだけなのだ。


「それが、かの御方のご遺志と…」


小栗は頷いた。


「あの娘は私の養女です。今後は婿を貰い、小栗家の為に骨を埋めてもらおうと考えておりますが……」


けれど、状況はけして芳しくない。


「あの娘は少々扱いが難しい。加えて多方面から目を付けられているのも事実。貴殿も身に覚えがあるのではございませんか?」


小松は思わず溜め息を零した。

怜の出生も懸念されるが、何より長州や幕閣に目を付けられていることこそが、一番の問題なのだ。


「個人と致しましては、無縁の生活を送ってもらいたいと考えておりましたが、………そうもいきますまい」


その時、初めて小栗の表情に翳りが見えた。


「何か…あったのですね」

「昨日まで、甘く考えておりました。これは私の落ち度という他、ありません」


小栗はゆっくりと頭を下げた。


「肥後守様より、直々に」



◇◇◇◇◇◇◇



遡ること昨日。



江戸城・控えの間



「ところで又一、あの子供は如何した」

「あの子供とは…」

「お前の小姓だ」

「……あれでございますか。今は故郷の方へ帰っておりまして」

「ほう。故郷はいずれか」

「京でございます」

「なんと京とは……それは都合が良い」


容保は明後日の方向を見る。僅かに口元を緩め、態とらしく思案するような様子を見て、小松は嫌な汗が流れた。


「あの童を養子に迎えたと聞いたが、真か?」

「……御命令でございますれば」

「かの亜米利加国との交渉に、童も同席させたらしいが、それも真実なのだな?」

「仰る通りにございます」

「勝の話では、かの国の言葉も堪能だとか」


小松は押し黙った。容保が何を言わんとしているか想像がついた。おそらくは勝の進言によるものだろう。あの男は何を考えているのか、少なくとも怜を表舞台に立たせようとしているのは確かだった。



「あの童を私の小姓として召し抱えたい」

「……」


緊張した空気が流れた。

固唾を呑んで見守る平馬も小栗の顔色を伺っている。


「とても肥後守様の御目に適う者ではありませぬ。外に出すにはお恥ずかしい限りで」

「謙遜するな又一。城の者によくよく聞けば、皆揃って"流石又一の小姓である"と褒めそやしておったぞ」

「恐れ入ります…」


小栗がこれほど後悔したことはなかった。怜を江戸城内に付き添わせたのは小栗自身で、もっとも知っていればけして近寄らせなかったが、どちらにせよ責任は自分にある。


「知っているか?今や城内の小姓はもちろん、登城する他藩の者まで、それはそれは見事なまでの世界地図を描けるらしい」


小栗は眉を潜めた。


「知らなかったか。何やら以前あの童が、"点繋ぎ"なる技法で皆に教示したらしい」


芙蓉の間で小姓相手に何かしていたのは知っているが、成る程あれは地図を覚えさせていたのか、と小栗は納得した。


「我が藩の者は、皆それぞれ学問に通ずる者ばかりだが、異国に関しては無知だ。特に語学では蘭語を会得した者はいるが、洋語など誰一人としておらぬ。だがそうも言ってはおられまい。私が向こうに行けば、度々異国人に会うこともあるやもしれぬからの」

「それでございましたら通詞の者を派遣致しまする」


突然容保が泣き崩れた。


「肥後守様?」

「殿っ!御気を確かに!」


平馬は小栗に向き直ると、その両手を持って滝のような涙を流した。


「殿はっ……殿はっ……人見知りなのでございます!」

「…………人見知り」

「どうか、どうか殿の願いを!」



結局、容保に押し切られる形で、最終的に話は将軍総裁職・松平慶永(春嶽)にまで上り、守護職を渋る容保が、たかが子供一人で承知するのであれば、幕府の為に召し出すようにと訓令を受けたのである。


◇◇◇◇◇◇◇



「そうでございましたか……」


また厄介な事になったものだ。

あれだけ注意したにもかかわらず、流れに沿うように引き摺り込まれている。自覚が無いのは本人だけで、それがまた、たちが悪い。


「いかに逆らおうにも叶わぬのなら、時が来るまで見守るしかありません。けれどもし上様に危険が差し迫ったとしたらーーー」



小栗はそれ以上何も言わなかった。

それは、故・家定公を憚ってのことかもしれない。


彼にとって徳川家定という人物は、何にも代え難い存在だが、現実には今の主君は家茂である。また徳川家を存続させることこそが、小栗の根底にある信念そのものだった。ゆえに幕府の危機的状況を打破する為には、"何か"を犠牲にするも厭わない。


最初から答えは決まっていたことだった。


「そうですか…」


例えそれが故人の遺志に背くこととなっても。



小松もそれ以上追求することはなくーーー


「万が一、我々が幕府と決別する時があれば、"憂いの種"を排除するのも止む無し。…………巨大な実に成る前に」


そう残して小栗家を辞したのだった。



単にそれらは後藤怜という少女が、どちらの立場からしても、"邪魔者"だということに相違なかった。




◇◇◇◇◇◇◇



「うそだろ…」


怜が徳川家定の娘など、俄かには信じられなかった。事実であれば完全に長州藩の敵となる。怜がその辺の子供と一緒なら捨て置くことも出来るが、あの娘は普通ではない。味方になればこの上なく心強いが、敵となれば脅威だ。いやそれどころか、生かしておくのは非常に危険である。




「吉田、顔色が悪いが何かあったのか?」

「桂さんは!?」

「桂さんだったら多分部屋に……ってオイ!?吉田!??」


通用御門から真っ直ぐ突っ切り、稽古所から出てきた仲間らを掻き分ける。背後から師範代の怒声がしたが、吉田の耳に届くことはなかった。


藩士らの居住区は、藩主が住む"御殿"を守るようにしてあり、その境界は馬場で区切られている。そこには役所や番所、各土蔵が並び、桂の住処は御書院方土蔵近くの長屋であった。


「桂さん!いるか!?」


勝手知ったる様子で間口を上がると、ズカズカと廊下を歩く。


「なんだお前、京に行ったんじゃなかったのか?」


襖を開ければ、特段驚いた風でも無く、桂が文机の前に座っている。書き物をしていたのか手には筆を持ち、目線すら合わせなかった。


「これから行く予定だけど、ってそんなことはどーでもいい!」

「まあ落ち着け。茶でも飲むか?」

「いらん!」

「何怒ってるんだ?」


桂は訝しげに吉田の顔を伺った。


「まずいことになった……」

「何かやらかしたのか?」

「俺じゃない。怜だ」

「怜?」

「あいつ……」


吉田はゴクリと息を飲んだ。


「家定公の娘だ」


桂は一瞬呆けて苦笑する。


「………何の悪い冗談だ」

「冗談じゃない」

「そんなわけあるか。家定公は子供など……」

「いたんだ。……天璋院との間に」


桂の手から滑り落ちた筆が、ころころと転がって畳を黒く塗り潰した。



◇◇◇◇◇◇◇



一方怜はロバ上の人だった。


佐吉と千香、そして佐藤君に別れを告げ、一翁と共に江戸へ向かう。


元々一翁は視察で大坂に居たが、怜の誘拐捜査で一旦京へ戻った後、再び大坂、神戸を経て船で長崎へ視察に来ていた。怜が上海を出航した直後に長崎での仕事を終え、帰還準備に追われている際に小栗より長崎奉行所に「怜確保」の要請書簡が届いたのである。


「あと半刻ほどで次の港に到着します」

「うむ。御苦労」


大幅に旅程変更があったというのに、微塵も感じさせない優秀な部下達。手際良く、立ち寄る港でも瞬時に宿を見つけ(江戸に近付く度に役人の人数が増えているような気がするが)行列移動にもソツがない。

怜は一翁の殺人的ビームを恐れているのだと思った。


「ぼーちゃん。疲れてない?」

「ヒー…」(こ…う…見え…ても…日本…一周…したこと…あるんだよ…)

「え!ほんまに?」

「ヒー…」(う…ん…)

「すごーい!」


役人達は顔を見合わせた。


「…何がすごいのだろうか」

「気になるな…」


怜はおしゃべりに夢中で役人達の声など聞こえなかった。


「てことは、本気出したらもしかして」

「ヒー…」(世界…一周も…ゆめ…じゃ…ない)

「ええぇえ!!!天才ロバやん!」

「ヒー…」(彼…女…は…35…頭…)

「嘘ぉぉお!!」

「ヒー…」(こ…れ…マ…ジ…)

「そんなにおるん!??ひゃあぁ!」


怜は思わず仰け反って天を仰いだ。



「何が"おるん"だろう…」

「気になって仕方がないな…」


ボーちゃんとの親交を深めながら、肥後を出発して約二週間。漸く江戸城をその目に捉えた怜は、数ヶ月ぶりの懐かしさに感慨にふける間も無くーーーー






江戸城


「怜、久しぶりだね」


にこやかな笑顔が部屋に入ってきた。

前と変わりない口調だが、何気に緊張して見えるのは新調したばかりの紋付袴のせいだろうか。


「先生、ご無沙汰です」


怜は深々と頭を下げた。


「本来なら私の妻を先に紹介したいのだけど、少しばかり面倒なことになってね、先にこちらに来てもらったんだよ」

「…ち」


もしかしたら、以前仙台に行く前に役人らを相手に一悶着起こしたことなのかもしれない。と怜は思わず舌打ちした。


「それについては不問だよ」


相変わらずの察しの良さに、怜は半眼になった。


「ところで怜。上海は楽しかったかい?」

「なかなか良いところでした」

「ほう。戦争中だというのに?」

「まあ租界地は比較的安全なんで」

「成る程」

「あちらの庶民の様子は?」

「避難民が溢れている状況です。黄浦江周辺には入れん避難民達が数多く、病気も蔓延しとるんで時には命を落とす者も」

「他に気になった事は?」

「阿片中毒者が多いことくらいです」

「阿片か…」

「従軍者のほぼ全員が阿片が無いと武器を持つことも出来んかと」

「そんなに酷いのか」

「阿片を購入するために仕事しとる人もいっぱいおるから」


小栗は怜の観察力に感心しながらも、いつか自分がこの子供に手をかける時が来るかもしれないというジレンマと戦っていた。


小松との会談で、薩摩藩はいずれ敵となる可能性を示唆した。もちろんそうならなければ良いという意でもある。ただ小松自身が少なくとも今回の幕政改革の結果を安易に捉えておらず、この先の展開を見て判断するということだろう。


怜の存在がもしそれを邪魔するようなことがあれば、けして薩摩藩は黙ってはいない。あの小松の目は個人的感情を一切消した支配者のそれと良く似ていた。いや、それなら自分も同じだ。


「先生?どしたん?」


覗き込む仕草の怜と目があった。

見た目はその辺の子供と何ら変わりないのに、内の中は特異だ。


(怜が普通の子供であったら良かったのに……)


小栗は微かに笑みを浮かべて、首を振った。とその時、茶坊主の声がした。


「肥後守様のお越しにございます」


えっ、と怜が小栗を見ると、彼は澄ました顔で頭を下げる。怜も慌てて頭を下げた。


「良い良い。堅苦しいのは抜きだ。面を上げよ」


そろりと顔を上げれば、いつかの美青年が微笑んでいる。前のような気弱な雰囲気は無くて、ご機嫌といった感じであった。


「突然の呼び出し、驚いたであろう。せっかく故郷に帰っていたというのに済まぬことをした」


なんの話だ、と怜は横目で小栗を見たが、素知らぬ顔で前を向いている。


「既に又一から聞いたかもしれぬが」


何故か誇らしげな表情を浮かべた容保は声高に宣言した。


「お前に"京都守護職付き小姓将"の任を授ける!」




怜は大きく目を見開いて一言。


「えっ、いらん」



「殿ぉおっ!!お気を確かにぃぃ!」



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