第四十一章 巴という女
轟の傍らには、いつも一人の女がいた。名を巴といった。
轟のマネージャーであり、同時に、いちばんの相棒でもあった。あの手のつけられない男が、ただ一人だけ頭の上がらない相手。それが巴だった。
年の頃は、轟より少し上に見えた。化粧は薄く、服はいつも、目立たない色のスーツ。すれ違っても、芸能界の人だとは気づかないような、ごくふつうの女性だった。ただ、その目だけが、いつも、静かに何かを見張っているようだった。
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一度だけ、その仕事ぶりを間近で見たことがある。
ある授賞式に、私も末席で呼ばれた夜のことだ。会場の裏の通路で、轟が共演者の一言に気色ばんで、今にも詰め寄ろうとしていた。おまえ、さっきのはどういう意味だ、と声が大きくなる。周りのスタッフはみな凍りついて、誰も間に入れずにいた。下手に触れれば火に油だと、分かっていたのだろう。
そのとき巴は、少しも騒がなかった。人をかき分けるでもなく、ただすっと轟の横に立つ。そうして耳もとで、ほんの短く何かを言った。それだけだった。あれほどいきり立っていた男が、憑きものが落ちたように、すとんと静かになった。轟は舌打ちをひとつして、ぷいと壁のほうを向く。まるで、母親に叱られた子どものようだった。
私は少し離れた壁ぎわで、その一部始終を見ていた。何を言ったのかは聞こえない。ただ、この暴れ馬の手綱を、この人はたしかに握っているのだと分かった。力でねじ伏せるのではない。もっと静かで、もっと確かな握り方だった。
騒ぎがおさまると、巴はもう、何ごともなかったような顔をしていた。轟の背をぽんと一度たたいて、次の段取りへと歩いていく。その横顔には、疲れも、得意げなところも、まるでなかった。ただ、当たり前のことを当たり前にした、という静けさだけが、そこにあった。
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轟の人気が、感覚のかたまりのような荒削りなものだとすれば、巴はその裏で、冷たいほど正確にそろばんをはじいていた。
どの仕事を受け、どれを断るか。轟のどこを見せれば、いちばん光るのか。それを見きわめる目が、この人にはあった。粗削りな輝きを、ちょうどいい形に削り出す。派手に暴れる轟の勢いが、これほど長く続いたのは、その裏に、巴の緻密な計算があったからにちがいない。表に出るのはいつも轟だ。栄光も拍手も、すべて彼に譲って、自分は一歩後ろの影に控えている。けれど、その影がなければ、轟という光はたぶん、とうに燃え尽きていた。
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あるとき、こんな光景も見た。
大きな賞を轟が取り、会場が沸いて、みなが彼を取り囲んでいた、まさにその瞬間だった。巴はその輪の中にいなかった。少し離れた隅で、携帯を耳にあて、誰かに深く頭を下げている。たぶん、次の仕事の段取りか、何かの詫びだったのだろう。轟がいちばん輝く瞬間に、この人はその光を一秒も浴びようとせず、もう次の裏方仕事をしていた。
冷たい雨の降る夜、テレビ局の裏口で見かけたときも、そうだった。轟が車に乗りこんだあと、巴は一人、ぬれた地面に頭を下げていた。見送りのスタッフに、何度も、丁寧に。傘もささずに。──たまたま通りかかった私だけが、それを見ていた。
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考えてみれば、私はいつも、こうして誰かを遠くから見ている人間だった。
子どもの頃も、そうだった。撮影所の隅から、私はよく、父たちを見ていた。眩しいライトの下で、父が、兄が、大人たちに囲まれて笑っている。私は、その輪の中に入れてもらえるような子どもではなかった。ただ、光の当たる場所を、暗がりからじっと見つめて、目に焼きつけていた。あの頃から、私の居場所は、いつも光の外側だったのだ。
だから、影で誰かを支える巴のような人の姿が、なぜか他人事とは思えなかったのかもしれない。同じ、光の当たらない側の人間として。──もっとも、巴が自分を影だと思っていたかどうか、それさえ、私には分からないのだけれど。
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ここで、正直に書いておかなければならない。
私は、巴という人をほとんど知らない。口をきいたことすら、一度もない。何度か遠くから見かけただけの、赤の他人だ。だから、これから私が書くことの半分は、たぶん、私の勝手な想像でしかない。
一度だけ、あの授賞式の夜、声をかけてみようとしたことがある。あなたの仕事を、ずっと見ています、と。でも、足が止まった。滅びかけた一族の娘が、いったい何を言えるだろう。結局、私はまた、遠くから見ているだけの人間に戻った。だから、私が巴について語れることは、しょせん、その程度の距離から見た姿でしかない。
それでも、書きたいと思ってしまう。あの、雨にぬれたまっすぐな背中を思い出すと。
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巴は、轟が世間から叩かれるほど、いっそう強く彼をかばったという。
ある雑誌の記者が、轟の素行の悪さをあげつらったときのことらしい。巴はこう言って、けっして引かなかったのだと。あの人は、ただ不器用なだけだ。あの人ほど、うそのない人を私は知らない、と。──本当にそう言ったのか。それとも、話が人から人へ伝わるうちに、誰かが美しく彩ったのか。今となっては、確かめようもない。
でも私は、その言葉を信じたかった。
栄家のまわりにいた人たちは、栄えているあいだだけ、そばにいた。そして家が傾いたとたん、潮が引くように去っていった。あるパーティーで、かつて父にへつらっていた顔ぶれが、落ちぶれた私たちに気づくと、そっと目をそらして離れていく。あの気まずさを、私は何度も味わってきた。だから、損得を超えて誰かのそばに残りつづける人が、この世にいるということを、私はどこかで、どうしても信じたかったのだと思う。その願いを、遠くの赤の他人に、勝手に重ねていただけなのかもしれない。
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そして、少しだけうらやましくもあった。
巴は、自分の意思で轟を選んだ。信じるものに、自分のすべてを賭けると、みずから決めた。その生き方には、迷いがないように見えた。
私はどうだろう。生まれたときから、栄家という檻の中にいた。父の娘として。あかりの母として。与えられた場所を、ただ流されるように生きてきた。自分でこれと決めて、誰かに我が身を捧げる。そんな生き方を、私は一度もしてこなかった。だから巴がまぶしかった。──もっとも、まぶしいと感じたその人の中身の、どこまでが本物で、どこからが私の願いだったのか。それは、私自身にもうまく分けられない。
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轟の火は、あまりに激しく、そしてあまりにはかない。いつかそれが消えるとき、この人のまっすぐさは、いったいどこへ向かうのだろう。遠くからその背中を見るたびに、私はなぜか、かすかな別れの匂いを感じていた。
私は、この赤の他人のことも、いつか書き残しておきたいと思った。忘れられていくのは、栄家だけではない。せめて私だけは、この人がたしかにここにいて、まっすぐに生きていたことを、覚えていよう。たとえ、その半分が、私の作り話だったとしても。




