58_鏡越しの相対者
鏡を見ると、厭なことを思い出す。
それは例えば、結局何も言葉を交わすことができなかった両親のこと。
社会から弾き飛ばされ、それでもその端っこにギリギリで食いつかなければならなかったことへの葛藤。
たった一人想いを共有できると思った者が、実は存在しない虚構だったのではないか、なんていう恐怖。
万華鏡のように光景が変化していった。
かつて現実で起こったこと、この身に確かに刻まれている過去の記憶。
誰にも話したことがない思い出。
“忘れがたき過去を反芻すべし”
その言語に率いられた過去たちが容赦なく、ロイ田中という存在を責め立てる。
敗者の扉の先に待っていたのは、そんな部屋だった。
だから彼は思い出していた。
弥生のことも、エリスのことも、アマネのことも、浮かび上がっては消えていく。
本当に、厭な趣味をしている。
田中は敗者の扉として、このフロアを作った先人をそう評した。
何か障害がある訳ではない。しかし足を止めさせるには十分な仕掛けだった。
──アンタ、自分のことを勘違いしているのね。
そうしてゆっくりと記憶が流れていく中、田中は鏡の中に見覚えのない、だが懐かしいものを見た。
──だって本当は、私のことだって傷つけたいのでしょう。
それは薄紅色の髪をした、一人の少女だった。
薄手ながらも豪奢な衣類に身を包んだ彼女が、この身に話しかけている。
それは過去の記憶だった。けれど、ロイ田中は決して知らない過去であった。
その記憶は、何時だって真っ赤に染まっていた。
血に汚れた視界の中で、彼と彼女はずっと話していた。
──強い人と戦いたい。剣の道に生きていたい。ただ生き延びたい。全部、後付けの理屈なのよ。アンタはただ人を傷つけ、殺したいだけ。
薄紅色の髪の少女は、彼に対し平坦な口調で述べていた。
普段からあまり感情を見せない奴であったが(今覚えば)彼女はきっと悲しかったのだろう。
そう、今さらになって鏡越しに過去を見た彼は思っていた。
──だから、もう嘘は吐かなくていいわ。この私を守りたいと、助けたいなんて……
違う。
鏡に映る光景に、彼は思わずそう口にしていた。
いや、その言葉に間違いはなかった。
しかし、それがすべてである訳ではなかった。
──でも、いいわ。私が見つけてあげる。世界から排斥されるしかないアンタが、それでも生きていける場所を……
そうして彼女は彼に仮面を被せた。
どうしようもない彼の悪性と寄り添うように、彼女もまた仮面を被ることを選んだ。
だけど、今はもう彼は……
「何か言ってよ!」
甲高い叫び声によって、田中の意識は引き戻された。
はっ、として顔を上げる。田中でない彼の記憶は、鏡の向こうにはもうなかった。
ただ当たり前のようにロイ田中の鏡像がそこに浮かんでいる。
「私、私を、私以外で全部“終わり”になんかしないで! お兄様も、お父様も……!」
フロアに響き渡る声はなおも続いている。
そのヒステリックな響きの声が、キョウのものであることに気づくまでに少し時間がかかった。
田中は頭を振って、薄暗い鏡の世界を駆け出した。
そしてその先に、崩れ落ちるキョウの姿を見た。
「落ち着くんだ。すべてはもう終わったことだ」
「終わりなんて、終わったなんてぇ……」
鏡の中に何を見たのか、彼女はそこで顔を抑え、ぶつぶつと何かを言っていた。
泣いているのかもしれなかった。
「終わりだよ、キョウ。君の二人の兄も、父も、妹も、おそらくは母も、すべては終わってしまった。
君とは関係のないところで、すべてがね」
だがそれに対し、彼女の保護者たる霊鳥は淡々と諭していた。
「泣くなとは言わない。忘れろとも言わない。過去に囚われるなとも言うものか。
それは君自身が決めることだ。
だが、君の最初の闘いが、既に終わった過去の出来事なのは、単なる事実だ」
「……事実」
「そうだ。事実だよ。
それは厳しくも優しくもない。
だから過去に怯える必要はない。君を真の意味で糾弾できる人間は、所詮、君自身しかいないのだから」
そこでリューは少しだけ声のトーンを明るくして、
「ほら、そこの鏡には映って見えるぞ。君が私に対して、剣を求めたときの光景だ。
私はあの時のことを忘れはしない。
君はあまり意識しないかもしれないが、割と奇跡的なことだったのだよ。
だからこそ私は君の絶対の味方だ。この偏屈者が君の味方になってやろうと言うんだ」
「…………」
そうしてキョウは沈黙した。
目を赤く腫らし、震える身体を抑え、大きく深呼吸をしてその身を落ち着かせている。
それを確認すると、不意にリューはその金色の瞳をこちらに向けてきた。
「それで君は何をしに来たんだ。出歯亀の田中くん」
「……これは、申し訳ない」
田中は思わず謝罪の言葉を述べていた。
それは二人の会話を覗いてしまったことへの謝罪のつもりだった。
「え? ロイくん?」
そこで初めて田中の存在に気づいたらしいキョウは、そこで顔を上げた。
そうして目が合うと、彼女は目を腫らしたまま「あは」と苦笑を浮かべて、
「……恥ずかしいところ、見せちゃいましたね。
なんだか、色々と」
その言葉に田中は少しだけ逡巡したのち「そうでもないさ」と口にした。
本当は彼女にも謝るべきだったのかもしれない。しかし、そこまで口にするには勇気が足らなかった。
一方キョウは立ち上がって言った。
「でも、なんでこっちに来たんですか?」
「……どっちの道を行っても、目的地にはたどり着けるからだ」
田中は自分でも答えになっていないと知りつつ、そう告げた。
やはりここでも聖女の歌がずっと聞こえている。
鏡の中でも、ずっと。




