救い
世界が僕を憎んでいる気がした。全ての人々が僕を蔑んでいるように見えた。全部敵に見えた。それでも、僕は歩いた。
一歩一歩が重い。欠片だけ残った心で、体を動かすのはひどく困難だった。
少しずつ病院に近付いていく。人が増えていく。僕を見る。
視線が恐ろしかった。それでも頭を上げる。立ち向かわなくてはならない。僕は、僕の業を背負い、生きるのだ。
空気は鈍い。息が吸いにくい。ひたすら苦しい。地獄へと向かう前進は、気力を奪い続ける。何度も挫けかけた。でも、死体であろうと彼女は彼女で、義務は果たさなければならなかった。約束が強制させた。
辺りを見る。病室に着く。医者が僕を見て、なんの感情も称えない目で僕を奥へと誘う。部屋にいるのは服部と、吉野早枝の母と父だった。
「さ、え……?」
呆然と呟く吉野早枝の母。その心情は、娘の死を思う心は……。いや、僕には推測する権利すらない。
「あなたが……あなたが殺した!!」
絶叫が、響く。突き付けられたその指は、僕を指している。
痛む心を庇わず、全て受け止める。僕は、それだけのことをした。
「なんでこんなことをしたの! なにをしたかわかってるの! 殺した! 殺した! まだ早枝は生きられた! 早枝は生きたがってた! なのにあなたは邪魔した! あなたは早枝の彼氏じゃないの? なんでこんなにひどいことができるの! なんで! なんで!」
もう、途中から聞けなかった。足元がふらついた。でもだいたい、何を言っているかは把握できた。
「すみません」
「あなたは……そんな言葉で……なにを!」
「報いは受けます。なんなりと」
「うるさい! そんなもの、意味がないじゃない! なら返してよ! 早枝を!それ以外なにも望まない!」
それしか望んでいないのだ。僕が憎いとか、そんな思いよりも娘のことが大事なのだ。全て、思いはただ一つのことに向いている。
僕だって、それができるならそうしたいし、今も願っている。
「娘さんはクラスの人気者でした。皆彼女が好きでした。そして僕は皆よりも彼女が好きでした。自分自身より彼女のことが好きなほど――」
「聞きたくない! 早枝はあなたのことを自慢していたわ! あなたのことを素晴らしいって! なのに、あなたは裏切った! 早枝の意思を! 彼氏でしょうに!」
そうやって、怒りのなかに僕を称賛する声を聞いて……真に理解する。吉野早枝の母がどれだけ彼女のことを思っていたか、どれだけ娘のことだけを思っていたのか。それだけに周りが見えなくなって、もう何をしたらいいのかわからないのだ。
だから、伝えなきゃ。
「彼女はあなたに感謝していました。以前、救われたから。純粋に、母のことが好きだったから」
「黙れ!」
言葉は遮られ、否定の花瓶が投げつけられようとする。僕の反応しようとする周りを目で制して止める。
それは僕に当たり、割れた。痛かった。でも心の痛みの方がずっと痛かった。僕は彼女の意思を伝えなければならない。彼女は母のことだって愛していた。自分のことを好いてくるなら、嫌いになるはずがない。人間が好きな彼女は、自身の母について余り語らなかったが、それだけはよくわかった。
「以前に……彼女に僕の傷を話しました」
痛みに震えそうな声だろうとも、どれだけ心が痛みを訴えようとも。
「僕が辛かったときの話。僕の傷の中心部。彼女は共感してくれた。父が僕を庇って死にかけた話だった。彼女はよく似たことを、母がしたと言っていた」
「な、にを」
吉野早枝の母がたじろぐ。
身ぶり手振りで混乱がわかった。僕はこの人を救わなければならないと思った。彼女が大好きだったであろう人で、彼女のことを思ってくれるこの人のことを。
「彼女はあなたに借りがあったんです、愛していたんです。病気の自分のために全て捧げてくれた。辛いだろうに自分のことを最優先にしてくれた。自分の家族は世界一で、本当に大好きだと、そう言っていて。――だからずっと想ってあげてください、精一杯生きた、彼女のことを」
「……っ!」
彼女のことを伝えた。これは全てを聞いたわけじゃないし、本当ならもっと適役がいるのかもしれない。でも、彼女との時間を奪ったのは僕だから。そして伝えられるのは最期を看取った僕だから。だから、だからここまではいい。
不安と悲しみを目に背負う吉野早枝の母。僕の言葉は彼女のものとして、確かに届いたようだった。
次は、僕の問題。僕が奪った時間はこの程度のことで償われるものではない。どんなことをしても許されないし、許されてはいけないのだろう。でも、それで諦めるのは尚悪い。だから精一杯、誠心誠意をもって、謝るしかないない。
「娘さんの時間を奪って、本当にすみませんでした」
頭を下げる。気持ちを込める。それしか、できないから、せめて全力で。
肩を掴まれる。
殴られる。そう思った。覚悟していた。
首筋に冷たいものが当たった。
水。
恐る恐る顔をあげてみれば、吉野早枝の母は泣いていた。
「自慢の娘だった……快活で、友達が多くって……。あなたの自慢話を何度も聞かされたわ……不思議な人だって、素っ気ないふりして何だかんだで我が儘を聞いてくれるって喜んでた。甘えるのが楽しいって、たまに見せる笑顔が素敵だって……。全部、全部覚えてる……早枝はあなたを選んで、幸せそうだった……」
話すごとに籠る力が増していく。それは痛い程だったが、感情の大きさに比例していることだとわかった。苦しいほどにその気持ちがわかるから、だから僕は言う。
「僕も、本当に彼女だけが好きでした……初恋で、この思い出はずっと消えることはない――」
吉野早枝の母は……今や泣き崩れていた。
地べたに座り、床を滴が濡らす。
吉野早枝の父がやって来て、肩に手を置いく。
「智子」
その目でさえも、潤んでいたが、優しげで己の妻を心配していた。吉野早枝の母は赤くなった目で彼を見つめ、差し出された手をとって立ち上がる。力ないその腕は、先程の剣幕の強さからは想像がつかないほどで、いかに弱っているかがわかった。無理をしていたのだろう。そうじゃないと気を保てなかったから。この人の人生の中心は彼女の元にあったのだから。
「早枝がぁ、もう……いないの。私たちの娘はもういない……。死んでしまった……生きてほしかった――。私は、私は……」
それを吉野早枝の父はそっと抱き締める。
「大丈夫だ智子。早枝は幸せだった。本望だったんだ。そこの彼への自慢話は何度も聞いたじゃないか。私たちはずっと想っていよう。愛する娘のことを」
すすり泣く声が聞こえ、それを励ます、いや、一緒に支えようとする声。
その二人は、静かに病室を出ていった。
「信司……」
今まで黙っていた服部が口を開く。
僕の心は燃え尽きていた。でも、お礼を言わなければ……。
「服部……ありがとう」
「俺は、なにもしてねえじゃんかよ」
服部が少し涙ぐむ。僕は目を瞑る。
「相川君」
最後に吉野早枝の専属医が口を開く。でももう彼女はいないから、違う……か。
「わかってるね? 君は許されないことをした。身内の危篤は親族が優先される。それを君は割り込んで、親の気持ちを踏みにじった。彼らは吉野早枝さんの最期に立ち会えなかった」
「わかって……」
「でも、だ!」
医者が声を張り上げる。
「君は吉野早枝さんの意思を尊重した。君の行動は世間一般から見れば後ろ指を指される行為だ。でも、それでも私は……彼女の専属医として、お礼を言いたいんだよ。
――ありがとう」
力強い言葉が反響した。
頭の中に響くその言葉に、何もかもが揺れて。
「う、あ、う、うううぅ。すみま、せん、僕は、僕は……」
涙が溢れた。
もう流しきったと、もう泣くことはないと思っていたのに。
最大の感情は彼女の元に置いてきた。でも、今が虚無なわけじゃない。僕は今、生きている。
全てを捨てちゃいけない。
彼女は僕にそう望んだ。
背中を擦ってくれる医者の手は、暖かくて『人』を感じる。
だから、
――救われた、気がした。




