君の名を呼ぶ
服部が吉野早枝の母を引き寄せる。僕はその間に病室に入る。
それは成功した。
僕は今、彼女の前に立ち、その顔を覗いている。
「死神さん、かな?」
「そうだね、そうかもしれない」
彼女は嬉しそうに笑った。僕は死にゆく彼女を見た。
仮面を被る。心が張り裂けそうだ。でも、悲しげな顔は見せない。だってそんな必要はないから。
「なにか、望むことはある?」
「私は……」
寝たきりの彼女は眼を閉じる。
そして開いたその時には。
「外に行きたい。寿命が一日縮んだとしても、ここで死にたくない。ここ、辛いんだよね。あはは、そうだなぁ、夕日見て死にたいなぁ」
……もう彼女に生きる意志は、ない。
「わかった」
彼女の願いは予想がついていた。病室にある車椅子をベットの近くに移動させる。彼女をなんとか持ち上げ、座らせる。
「えへへ、最期の、デートだね」
「……皮肉だね。本当に僕は、死神の真似事をしてる」
「単純に、私は君と過ごしたかった。私のお母さんは世界一の良ママだけど、私は君を選んだ。それが、私の選択」
「……君の意思に従うよ」
彼女をここから連れ出せば、寿命は縮む。どちらにせよ寿命は、残り二日ももたないだろう。今日の夜すら越せないかもしれない短い命だ。だが、僕は間接的に彼女を殺すことになる。彼女の寿命を削ることになる。
それでも、だ。僕は決断した。あとで糾弾されるのは目に見えてる。世の中の基準で言えば僕は悪だ。汚名は被る。全て捨てる覚悟はできている。
未来を捨て去る僕の選択を、赤の他人なら滑稽だと言うだろう。それでも、誰にも笑わせない。
決して曲がることのない誓いを、心に重ねたから、僕は逃げない。
これが、僕の選択。
「ふぅ……。デートエンドでデットエンド」
「さすがの僕でもそれは笑えない」
彼女は笑っていた。死は近い。死神の指はもう半分、彼女の肩にかかってる。それでも、楽しげだった。
病室を出る。
当然、吉野早枝の母がいる。今戻ってきた、そんな状況だ。
「あなた、また、あ、アナタは!」
そんな吉野早枝の母を服部が押さえた。力付くで道を塞ぐ。服部は捕まるかもしれないな。その時は僕が全ての罪を被らねば。
「あなたの娘の、最期に望んだ時間なんです。邪魔、しないでください」
服部の目には信念が宿り、道を塞いでいる。
僕は感謝しながら、病院を出た。
後のことはわからない。だが、服部を信じる。何もかも、アイツなら何とかしてくれる。
「夕日見たいって行ったけど、どこ行きたい?」
「そこらへんの河原でいいや」
彼女の細い腕が僕にまとわりつく。以前よりもは細くなった、だがもうすぐ死ぬというほどには細いとは思えない腕。
そんなことで、僕は少しの希望を見たくなる。彼女は死ぬのに、もしかしたら生き残るという、奇跡を考えてしまう。
僕は、弱い。
そこら辺の河原に着いた。本当にそこら辺、歩いて十分かからないほどの距離。
夕日が見える。あの頃、夏休みの前に話した、赤い夕日に似ている。
僕の目はそれを赤と認識した。だが、心は灰色に感じた。感情はすりきれ、表面を嘘で覆う。これは最後の戦いであり、これを乗りきれば終幕だった。僕にとっては違うかもしれない。でも、彼女にとって終わりを意味する時間なら、僕は今、ここに立つ時間のことだけを考える。
「う、しょ。力入らないや。手伝ってくれる?」
「うん」
彼女の身を起こす。彼女は草の生えた場所にコロンと寝転ぶ。
僕もその隣に寝転ぶ。
「私は、死ぬ」
「そうだよ」
否定はしない。
「もう、終わりかぁ」
終わってほしくない。生きていてほしい。
僕の一生より、彼女の一秒の方が、尊い。
「天国に行ったら宜しく頼むよ。僕もそこにいく努力をするから」
全く信じていない死後の世界。だが僕が信じているか信じていないかは大して重要ではない。全ては、命少ない彼女のために。そのために行動するから。
僕は壊れていく自分の心を見つめながらも彼女のことを考えた。彼女は今、何を考えていて何を望むのか、そればっかり考えていて、打算で動く自分に吐き気がした。これが精一杯で、頑張っても頑張っても答えは見えなくて、結局、普段通りの自分を保つしかなかった。
一筋の風が頬を撫でる。僕にとっての冷たい風、彼女にとっては、死神の息吹。
そう思った。だが、僕と彼女では価値観が違う。そのことが、次の言葉には如実に表れていた。
「風、気持ちいいね」
「そう、だね」
彼女は、死に向かう彼女は嘆いていなかった。それは諦めなのか、絶望が振りきれ、マイナスがプラスへと転じたのか、わからないが、彼女は世界を鮮やかに見ていた。
僕にとっては灰色で、けど、彼女は幸福感を感じてる。
でも、刻はまだ続いている。彼女が生き続ける限り、僕の戦いは続く。無表情という名の仮面を張り付けた僕は、声も、動作も、何もかも。全て平時と同じように設定する。そうやって、彼女には負担をかけないようにする。
「私、幸せだった。他の人から見たら、今の私は不幸だと思うかもしれない。でも、私は、楽しかった、なぁ」
「僕も楽し……かったよ」
声が震える。抑えようとしているのに、なのに。
全力だった。それでも、胸は裂けるように痛く、堪えきれる気がしなかった。
けれど、現実迫観念症を患う彼女にとって、死をまじかに感じるということがどれだけ苦しいことなのやら。それに比べれば僕の苦しみなんて、ちんけなものでしかない。
だから僕は、精一杯歯を食い縛る。
「やりたいことは大体叶った。素敵な恋ができた。私は満足。先に死んじゃってごめんね」
「大丈夫、気にしないで」
さりげない会話も、一言も、呼吸も。全て、毒になる。
込み上げてくるものがある。
苦しい。でも、耐えろ……耐えろ。
経験や意思、覚悟、固執、傷、悟りや憎悪、悲しみ。
僕の全ての感情を、人生を懸ける。己の存在そのものを、魂に誓いを込めて、耐える、耐える。そうまでして、ようやくといったところで。
もうここまで来れば、妄執や執念に近かった。恐ろしいまでの負担は、おぞましいほどの意思力を必要とした。自分が自分でないほどに化け物だった。こんなに感情を溜め込んで、それでも顔には出さなくて。
僕は、目を瞑る。
それから楽しかった頃の話をした。彼女のイタズラや迷惑行動にはどれだけ困らせられたか、笑って話した。彼女は僕の感情の起伏が少ないことを指摘してきた。一瞬ドキッとさせられたが、それがかわいいとか健気とか、誉め言葉なのか貶し言葉なのかよくわからないことを言われた。
時が過ぎ、それに比例して彼女は弱っていった。話すのも苦しそうで、それでも僕は止めなかった。
苦しむことでさえも彼女が選んだ事だから。
僕は支え。彼女の意思を助ける杖……だから。
衰弱していく彼女を間近で見ていた。その苦しみを、激しく咳こみ、吐血しようと、なにもできない。僕に能力がないから。無力な一人の人間だから。
もう、嘘の笑顔を作る余裕はなかった。無表情に固定し、ただただ喋る。少しでも表情をずらせば、泣いてしまいそうだった。
そう、そうやって、見ているだけで、僕はなにもできなくて、彼女は苦しんで。
それでも――それでも僕に彼女を曲げる権利など、なかった。
夕日が沈みかける。
彼女の命も沈みかける。
この苦しみが終わってほしいという思い。
この幸せが続いてほしいという願い。
地獄と天国の狭間は、僕の心をゆっくりと、確実に砕いていった。
逃げられなかった。
逃げるつもりもなかった。
「もう、時間、ないみたい」
彼女はもう息も絶え絶えだった。もう生きることは苦痛でしかないはずなのに、命の綱を離そうとはしなかった。
僕にはなんで命の綱を離そうとしないのか、その気持ちが痛いほどにわかる。最初はただ死ぬのが怖いからそうなるのだと思っていた。でも、それは確かに存在するのだけど、それよりももっと多くが他の部分で占有されていた。
それは、僕にとっては、父の記憶と……彼女の記憶で。
「私は、君に謝らなきゃ」
もう喋らなくていい。寿命を減らさなくていい。ただ、生きてくれ――
そんな願いは心にのみ叫ぶ。
現実の僕は次の会話に繋がる一言を言う。
「なにが?」
「ごめん、ね」
彼女が何を言いたいのか、よくわからなかった。でも確実に、彼女は悪くない。それだけは確信できたから。
「謝らなくていい。君はここにいるだけで、僕は幸せだった。……まあ、うるさくはあったけど」
余裕を気取る。
そんな平坦な声は、彼女に笑われた。
「ムリしなくていいよ。感情、さ。抑えなくていいよ」
そうやって唐突に吐き出された言葉は、
僕に衝撃を与えるが、僕は、答えなければならない。
「僕は普通にしてるけど」
よかった、声は震えなかった。これで嘘を突き通せる。優しい嘘を、彼女のための偽りを……。
「な、わけないじゃん。ふぅ、わかってる、私は君の彼女、だもん」
苦しい筈なのに、なのに彼女のその笑みは、僕が最も、大好きな笑顔で。
「私は、君を引きずり、込んじゃった。私は君を愛したし、君は私を……愛してくれた。
だから、心配なの。ふぅ…………。君はひとりぼっちだった。だから世界は全部敵で、灰色ばっかりだった。私はそこから君を引き上げて、そのお陰で心は元に戻った。でも私がいなくなればまた君はひとりぼっち。折角戻った心は、傷つくだけになっちゃう」
彼女は、息切れしながらそう言い、途中で深呼吸をして、おそらく最も言いたいことであろうことを言い切った。
その代償は激しい咳で、僕は彼女の背中をさする。
「大丈夫だよ」
僕は言う。
「僕は独りで生きていける。僕をナメるな。僕は弱くない、強い。君がいなくても生きていけるし、趣味だってある。退屈にはならないさ」
看破されていた僕の心は、最後まで誤魔化すことを選んだ。もう今更、後には引けなかった。
そう、選択しようとした。僕の意思に、偽りはなかった。
僕は言葉を続ける。さっきの言葉は不十分かもしれない。まったく何も感じないというのは失言かもしれない。だから少し、付け加える。
「ごめん、嘘をついた。僕は君がいなくて、つらい。死んでほしくない。でも、僕は大丈夫だ。大丈夫なんだ、心配しないでいい」
嘘の中に、真実を混ぜた。そうじゃないと彼女を騙しきれない。騙しきらないと、彼女は幸せに逝けない。彼女を救うことができないのなら、せめてこれだけでも、守らねばならない。
――そう思っているのに、心は崩壊を始めている。
「僕は変わった。君のせいだ。でも感謝してる。僕は父のことを憎んでいた。でも本当はそんなことしちゃいけなかった。君が教えてくれた、気づかせてくれた、救ってくれた。君はただ、誇っていればいい。僕にとっては君は、絶対の英雄なんだ」
いくら心が辛くても、それでも――
彼女は大きく息を吸った。
「そう。よかった」
いつもの彼女なら、僕のこの嘘は、バレていたかもしれない。でも彼女は余裕がなくて、だから信じてくれたようだった――。
「抱っこ」
彼女が腕を広げ、僕に甘える。
抱き締めた。儚い命を、抱き締める。死神から守りたくて、包み込む。
――彼女は震えている。
なぜか。死が怖いからだ。なのに彼女は弱音を吐かない。なぜか。僕が側にいるからだ。僕を気遣って、平常を保っている。――ならば、まさか、もしかしたら。
予感があった。
心が砕けていく。耐えきってくれ。あと少しなんだ。ここさえ凌げば、終わるんだ。
だから――。
彼女の体から熱を感じた。生者が発するそれはどうしようもなく僕の壁を、固めた氷を溶かしていく。
――心が、震える。
「……泣いてるの?」
「…………てない……!」
彼女の熱。切ない。どうしようもない。
華奢な身体の彼女を、強く抱き締める。
一度心にヒビが入れば、もう止めることはできなかった。
涙が、流れる。
「よしよし」
そんな僕の頭を――彼女が撫でる。子供の様に泣く僕を、彼女は慰めた。本当は、――本当は僕が慰めねばならないのに。
「私が死ぬのが怖いんだよね。わかってるよ、泣いていいんだよ。それが普通なんだからさ。私の前ぐらい、弱いままの君でいいよ」
「ちが……う、僕は……僕は……守らなきゃ、ダメなのに……」
彼女の息が耳にかかる。
「私は君が変わってくれて嬉しい。私の命は短くても、君のためになったなら、本望。いい方向に、変わったでしょ? 君は。人間が嫌いだった君は、今は、どう?」
「嫌いじゃ……ない。でも……君みたいには……人を好きになれない」
「いいの、それで充分。とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い」
「無理……だ、無理だよ……君がいないと、僕は……笑えない……辛い……生きていけない……死んだ方が――」
「ダメ」
キッパリと宣言する。
「それだけは許さない」
彼女は僕に価値観を押し付ける。死にゆく人の言葉はひどく重たい。祝福のつもりの言葉でも、僕にとっては呪いでしかない。
彼女が世界にいないなら――。
「無理だ……無理だ。なら……生きてよ。なんだってする。君がいるなら……なんだって」
「私は君についていけない。そこからは君の道。でも、心の中にいるから。だから、君の中の私を大事にして」
僕は首を振る。それでも彼女は許してくれない。泣いても、すがっても、何をしても。彼女は僕を縛る。でも、それは優しい祈り。それがわかるから、理解できるから、尚更辛い。
「私のお願いだから、君はきっと聞いてくれる」
「だ、ダメだ。待って」
「全部、託すよ。私の全てを、君のためになることを、祈ってる――手、握って」
僕は必死で手を握る。彼女の体から力が抜けた。背負っていたなにかを、下ろしたようだった。
「死なないで――死なないで」
もう彼女には言葉が届いていない。僕の願いは届かない。ずるい、そんなの、僕に任せて、それで、勝手に――
「そこに、いるよね? 怖いよ、前が見えない。でも、君がいるから、それなら、満足……かな?」
「生きて……お願い……お願いだから……!」
僕の願いは、届かなかった。
でも、僕は彼女の願いを持っていた。
彼女の手はまだ暖かく、生きている者の手のようで。これからその熱は消えていく。
「私、幸せだった」
僕の中で、命は消えていく。
僕はこの熱を、一生忘れることはないだろう。
彼女はもう喋らなかった。
眼を閉じていた。
辺りは静かで、風だけが音を纏っていた。
病は静かに彼女の命を奪った。現実迫観念症の患者は、血を吐くこともなく、苦しみに身をよじらせることもなく、ただただある時期に死のイメージを膨張させ、脳機能を停止させる。絶対に死なないと信じていれば、もしかしたら現実迫観念症の患者は死なないのかもしれない。
僕はゆっくり目を閉じる。つないだ手から命が消えるのを、僕は感じていた。
そうやってどれぐらい過ごしたのだろうか。
この瞬間は永遠一瞬で未来永劫。
一生消えることのない想いを、溜め込んだ。
「ねえ」
彼女に呼び掛ける。
返事はない。
「ねえ、早枝?」
一度も呼んだことのなかった名を口にする。
気に入っていた。君、君、という日常の応答が。
だが、返事はない。
神に祈った。一度もやったことのない行動をすれば、奇跡は起こると。
名前を呼んでも、肩を触れても、返事はない。
……いやだ。
どこを触っても、反応はない。
……嘘だ。
握っていた手は、いつのまにか冷たかった。
立ち上がる。
「死んだ……もう、終わったのか………………嘘だよね?」
返事は、なかった。
心と裏腹に、無感動に死体を見下ろす。安らかな顔をしている。
「終わった、死んだ、終わった、死んだ、これで……終わりだ」
ブツブツと呟く。口元が、歪む。
「ハハ……ははははハハハ………………認めたく、ない」
冷たい。
「あくくくくっ、ははは、アハハハハッハ……」
押し寄せるのは狂気。笑えてくる。楽しい。意味がわからない。でも、笑える。
――本当に?
「…………くそ」
辛い。痛い、痛い痛いいたい。
…………どうして。
「現実…………認めない」
苦しい。なんで……こんなにも……僕は。
「いやだ」
僕は、死を覗く。
「いやだ、いやだ……いや、だぁ」
彼女がいないなら、
――この世はもう、終わればいい。
「…………………………ああ、もうハハ……あ、あああぁぁ、くそぅ……は、もう、うううぅ、あ、いやだ、いやだぁ、いや、だぁ、うそだ、こんなの、こん、な、あ、ああぁ、ああああああああぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ」
やってきた狂気に身を委ねたかった。
無理だった。他ならぬ暖かな記憶が、邪魔した。
楽になりたかった。
風が僕の涙を運ぶ。
伝う滴は、空気にさらされて冷たい。
砕け散った心は、空虚だった。
心の破片を集める気にはなれなかった。
死んでしまいたかった。
逃げる場所がなく、あちこちに手を伸ばす。自分の虚空を探る。何かがないか、祈る。
そこには暖かい思い出がたくさんあった。もう戻らない非日常。大切な彼女との記憶。
全てを投げ出したかった。思い出の中に、溺れたかった。
僕は弱く、弱く、弱い。すがるしかない。
すがって、抱き締めて、この思い出だけを見つめてる。思い出に、忘れられない暖かなこの記憶に。
あまりにも僕は、弱すぎる。涙はまだ、止まらない。
その中で。
ある記憶を見つけて――
――「死ぬときはメールするから、楽しみにしててね!」「バカらしい」
物凄い勢いで携帯を開く。
なにも…………ない。
川に捨てた。
「……」
希望は毒だった。完膚なきまでに心を破壊した。もうどうでもよかった。
歩く。
川は汚く、僕にお似合いだ。
一歩、足を踏み入れる。
ああ、安らかな死へ……。
――足が止まる。
――なぜ?
「まだ……死ねないのかな」
僕を立ち止まらせたのは、彼女の最期の祈り。死にたくても死にたくても、それは僕を縛る。
――重い約束は、その祈りは。
《それだけは許さない》
《とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い》
《私のお願いだから、きっと君は聞いてくれる》
影を落とし、歯を食い縛る。
振り返った。
死体があるだけだった。でも、それは最愛の人で、決して忘れることができないものだ。
何度でも祈った。奇跡を信じなかった僕は、以前敵対していたものを本気で信じた。
無駄だとわかっているのに、すがって、すがって、祈って。そうやってしばらくしたら、現実はやってきて。
自分の今の状況が見えてくる。頭がひどく痛む。足は言うことを聞かない、立ち上がれない。
心に巣くった絶望が何度も僕を弾き返した。もう生きなくていい、死ねばいい、楽になればいい、辛い道を進むことはない。
でも、そう囁くもう一人の僕よりも――彼女の願いの方が、ずっと強い。
だから、もう一度立ち上がる。
僕は生きなきゃ、成長を見せつけ、彼女の存在を証明しなくては。
涙をふく。
僕はまた、生きることをやりとげなくてはならない。一度ここで死んだ僕は、彼女の願いを持っているのだから。
間近なものが、試練が僕を待っている。
彼女の体を抱く。力の入らない腕で、車イスに乗せる。
遺体を、届けなければならない。
不完全な心のままに、僕は歩き始めた。
◇




