おしまいが
いつものように学校に来た。
彼女はどこだろう。そう思って見渡すが、いない。たまにあることだ。体調が悪い時に、たまにだが彼女は学校を休む。たまにあるのだ。
噂が流れていた。それは彼女についてで、僕には同情の視線が寄せられた。
僕は教室でポツンと佇む。周りには誰もいない。
全て、わかっていた。
終礼。担任の女教師が教壇に上る、口を開く。
「今日は、重要なお知らせがあります」
一部の情報に長けている者は、既に知っていた。知らなかった者も、その重い口調から思わず黙った。
教師に、注目が集まる。
「吉野早枝さんのことです。もう彼女の余命は短く、学校に来れないようです」
苦しく、絞り出すようなその声に、辺りがざわついた。噂の情報は百パーセントではなかった。確信はなかった。だから皆、ここで悟った。
一部の者はただ悲しんだ。
一部の者は、僕を見た。
注目は教師でなく、僕に集まる。
同情。恋人の余命がないことに、僕を憐れむ。
怒りを覚える。僕は勝手に同情されるのが嫌だった。彼らは知らない。僕が彼女のことをどれだけ好きだったか。どれだけの覚悟を持って付き合っていたのかを、まるで知らない。すべてわかっていた。その上で選んだこの道は。
同情されるいわれなどない。不幸じゃない。彼女との日々は幸せだった。
――勝手に同情するな
無個性でただただ流される人間たち。主張を持たないくせに、いっちょ前に自分が何を思っているかのみは示す、そんな奴ら。
感情が込み上げてくる。憎くなる。だがそれを必死で抑えた。僕はもう、人を嫌いたくなかったから。
僕が犠牲にしたのは己の未来の心。現在を優先し、彼女と過ごした。
それが、僕の選択。
「早枝さんは入院しています。そして『誰も』見舞いに来てほしくないそうです」
注目が教師に戻った。一部の者は理解できない、という顔をしていた。
心情は容易く看破できた。僕は彼女が何を思ってそんな伝言をしたのかがわかった。そして本当の心についても理解した。
「ですが、」
教師の顔が悲壮に染まる。
「皆のことは大好きだそうです。特に自分と仲良くしてくれた人は、ありがとう……ありがとう、そう言って――」
教師は泣いていた。ありがとう、が二回言われたのは、教師の思いも重なったからなのかもしれない。絞り出すように告げる言葉は、彼女の感謝を皆に伝えていた。彼女の人間性がわかるその言葉は、クラス中に感情の波紋を引き起こす。
メソメソとみっともなく泣く奴ら。目に手を当てて、頭上を見上げて耐える奴ら。
僕は押し寄せる何かを耐えるために、そっと目を閉じた。感情を沈めるため、何も考えないようにした。
だが、彼女のことを思ってくれる人たちに、感謝した。
瞳を開く。
僕は病室の前にいた。扉の向こうには彼女がいる。誰も、と、会うことを拒絶した彼女。教師が言っていた『誰も』には僕も含まれていた。
ここに厄介な吉野早枝の母がいないことはわかっている。予想ではつきっきりで看病しているであろう吉野早枝の母だが、病院を出ていったのを僕は目撃していた。
扉を開く。
彼女は手のひらを見つめていた。まるで自分の生命線はどこまで続いているのか、それを探しているように見える。
彼女がこちらを向く。その瞳が開かれる。
「こないで、って言ったのに」
薄い、自嘲するような笑い。
「最初に会ったとき、君は僕に自己中って言っただろう? だからさ。君の言うことなんてきいてやらない。僕は自分の意思で動く」
最初に出会ったときの言葉が意味を成す。まるで、終わりと始まりは繋がっているようで――終わりの予感に、心が痛みを訴える。
僕は言いながらも笑った。本当は彼女が誰も来てほしくないとか、嘘だとわかっていた。それは彼女の心情から来ている。
自分を一刻も早く忘れてもらおうと、顔を見せたくなかったのだ。死者の旅立ちに、少しでも生者がついて来るのを拒んだのだ。僕には、わかる。
「もう、さ」
彼女は最初は不機嫌そうな顔をしていた。でも、それは嘘の表情で、どんどん剥がれていく。本当の表情が、隠しきれない笑顔が、露出してしまっていた。
彼女は人間が大好きで、孤独が大嫌いだ。こんなに長く一緒にいればわかる。引っ付きたがりの甘えたがり。常に人を必要とし、人を幸福にする彼女。
僕は彼女の望みを踏みにじってやった。だがそれは、彼女が心の奥で願っていたことだった。
「で、どれぐらいで死ぬの?」
務めて明るい声を出す。彼女の死を気にしないというポーズ。彼女は自分の死に誰かが巻き込まれるのが嫌なのだ。
だからそれを取り払う。嘘の仮面を被る。
演技で、自身の心をもって、その上で騙す。
偽善かもしれない。僕の自己満足かもしれない。わざと傷つきにいっているだけかもしれない。でも、そんなことをいっていたら、何もできない。僕は、彼女の幸福を願い、そのために行動する。
「うーん。あと一年ぐらい?」
「……」
彼女の言葉を聞いて驚く。思った以上に、寿命は残っていた。でも、死ぬ人間は大体そのぐらいの時間を病院で過ごすのかもしれない。
「どう、驚いた?」
彼女はコロコロと笑う。
「思った以上にしぶといね」
「でしょー。私はそう簡単に死んでやらないから。君の足をしばらくは引っ張ってやんよ。ということで毎日お見舞いに来てね。お母さん居ないときにメールで知らせるから」
そんな彼女の命令は、祈りは、――願ったり叶ったりだ。
でもそんなこと、言ってやらない。
「うっとうしい奴」
「そんなこといいながらいい笑顔になってるよ。嬉しいんでしょ~。全く、君は重要なときに、私よりも隠し事できないね」
その言葉に、少しだけ引っ掛かりを覚える。だがそんな思想は泡のように消え、自分の表情を気にした。
顔に出たのか……。僕もまだまだ、かな。
「はいはい。さっさとくたばっときなよ」
「ひっどーい!」
テンションが高いのか、彼女は僕を引き寄せ、思いっきり抱き締めてきた。こんな大胆な彼女も珍しい。
僕は彼女の甘い匂いに安心した。目を閉じ、身を委ねて彼女に溺れる。
だが………………長い。
僕がモゾモゾと動く。それでも離して貰えない。仕方ないのでされるがままにしておいた。そしてしばらく経てば、離される。
「?」
「い、いや。私ほんとはあと2週間ぐらいで死ぬと思ってたんだよ! あの、先生に伝えた言葉もその時に伝えたものだし、ちょっと君が来て安心しちゃって」
「まあ、別にいいよ。君の好きなように僕を使えばいい」
「君、さっき自分のこと自己中って言ってたのに尽くしてるじゃん」
「さあ? そんなこといったかな」
気づいた。
夢は、希望は、砕かれた。
僕はなにも気づいていないフリをする。
つまらない雑談をして過ごす。お見舞の品を持ってこなかったことを叱られる。お見舞は「僕」そう言ったら笑われる。そしてそのままキスをする。甘ったるい。
「そろそろお母さん来るかも。逃げろ逃げろー!」
「なんで?」
「私のこと大事にしすぎちゃう人なの。仕事もやめちゃったし」
「やっぱりそういう人か。予想はしてたよ」
その事は大体予想していた。だがもっと、重要なことがある。
吉野早枝の母は仕事をやめた。寿命は残っているのに?
一年の価値は、人によって違う。でも彼女はボロを出す。たったひとつの理由なら疑念はなく、僕の頭はお花畑でよかった。でも……そういうわけにはいかなかった。
僕は、また、選ぶ必要があった。
「じゃ、帰るよ」
「はーい」
彼女が僕に手を振る。僕は扉に手をかける。
そして……。
立ち止まる。忘れていたことがあった、そんな感じで彼女のもとに戻る。
「君、勝負事好きだよね?」
「ん? 帰らないの? まあ、好きだけど」
勝負事が好きなのは、相手がいないと成り立たないことを好むのは、彼女は人間が好きだからかもしれない。
財布からコインを取り出す。神社や、彼女が好んでよく使った十円玉。
「――君は、死ぬのかい?」
声を、発した。
「…………」
彼女は答えない。
「僕は裏を選ぶ。さあ」
コインを投げる。彼女は受け取り、それをじっと見つめる。
そして、彼女がゆっくりとした動作で、コインを弾いた。
チィーン。
くるくると舞い、堕ちていくコイン。
それを僕は空で掴む。
彼女に拳を見せつけるように。
選択を突き付けるように。
「気が変わった。君が答えて。表か、裏か」
彼女は。
「裏」
その結果は。
「残念、表だ」
彼女の手のひらに、コインをのせる。
「答えて」
彼女は死ぬのか、死なないのか。俯く彼女は……笑っていた。
「いひひひ、フフふふふふ、アッハッハッハッハハハハハハハ」
病院なのに、うるさい音。迷惑行為に、僕は眉を潜める。
「死ぬよ。でもそれは一年後、正確には一年以内かな? なに悩んじゃってるの? 私はそう簡単に死なない。死んでやらないよ」
彼女の笑顔は本物だった。断言できた。いつも過ごしていたから、わかる。
これだけなら信じなかった。でも勝負事という手も使った。二つのことが重なった。だからもう、信じれる。信じて、いいんだ。
「死ぬ直前にはメールで教えてあげるよ。お楽しみにね!」
「バカらしくなってくる」
「だから私がバカにしてあげてるじゃん」
「うっさいバーカ」
「ツンデレが言いそうな言葉!」
何でこんなのにいちいち喜ぶんだか……。
溜め息をついて退室する。
その時、重かった。その病室を出る線が、重かった。振り返れば彼女が……。
「ん? なに? なんか顔についてる?」
何ともなかった。
僕はニヤっと笑い。手を振って別れを済ませる。彼女は嬉しそうだった。
そして、扉を閉める。
同時に、瞬時に意識を切り換えた。もう一個の、深い、深い意識。妥協許さぬ臨界点へ。
本当はもう楽になりたかった。妥協したかった。でも、僕は、誓いを立てたときから、僕は変わっていた。
とにかく逃げることを許さなかった。
それで……。
僕は吉野早枝の専属医の元に向かった。




