「後悔? 後がない人間は、後悔なんてしないよ」
こちらに上がってくる足跡。テレビを消した。
部屋に入ってきたのは当然ながら吉野早枝で、両手にはグラス、飲み物を持ってきていた。中身は炭酸飲料で、シュワシュワと泡が見える。
「お待たせ! 喉乾いたと思ってね!」
少し大きすぎる声。よほどシャワーが気持ちよかったのだろうか、彼女からは元気が溢れすぎている。
「ああ……ありがとう」
立ったまま差し出してくる彼女に、僕は飲み物を受けとる。彼女はグラスを口に運び、むせた。僕も喉を潤そうとする。
「……なにこれ?」
「さあ?なんでしょう?」
彼女は飲み物を一気に飲みきった。危なっかしい足取りで僕の背後に回り、首に腕を絡める。
「これ……お酒?」
「ピンポーン。だーいせーいかーい」
その時、引っ張られて突然態勢を崩される。
着陸したのは、柔らかい感触からベットの上だとわかり、突然の行動に抗議をあげようとした。
「大好き」
喉がつまったかのように一瞬声が出せなくなる。彼女が僕の上に乗り、こちらから彼女を見上げる形となった。
……押し倒された?
彼女が僕の胸に頭を乗せ、恥じらうように少し笑った。
突然服を脱ぎ出し、
「なにしてんの」
僕が、止めた。
「え、何って?」
彼女はニコニコと、表情を崩さない。
「誘惑だけど」
「……」
僕が押し倒されたとき、こぼれた液体。そこからはアルコール臭がし、なぜ受け取ったときに気づかなかったのかというほどの臭いだ。彼女は酔っている。
「もしかして嫌?」
「……僕は」
「なぁに?」
迷いが生まれ、力が緩む。その隙に彼女は服を脱ぎ、ブラジャーが見えた。
目を逸らす。彼女の誘惑から。
「なんでこんなことを?」
「好きだから」
彼女が僕を抱き締める。否応なしに胸が押し付けられ、こちらの心臓が高鳴る。
だが、
「やめときなよ」
「やぁーだよ」
「やめろ」
彼女が子供のように戸惑いの表情を浮かべる。だが僕はその奥にあるものさえも、うっすらと見えていた。だから僕は言う。
「…………つもりだったの?」
「なに?」
「前置きのつもりだったの?」
「う、うん?」
彼女がさらに困った表情になる。
「数々の不自然な行動、今日の見せた仕草のいくつかは不自然だった。それはこの瞬間のための、前置きだったつもりなの?」
「……」
黙る彼女に、僕は更に言葉を重ねる。
「単純に、お酒を飲んですぐ酔っぱらうわけがない。残念ながら僕は頭がいいんだ。そんなの簡単に気づく。僕を、ナメるな」
決定的な証拠。
今言える精一杯の拒絶と、嫌味だった。
「……………………」
黙りこくる彼女は徐々に笑顔になっていった。彼女が今何を考えているのかはわからない。
僕は告げる。
「後悔するよ、やめておいた方がいい」
「…………後悔?」
表情は影色となる。
いつもと全く同じ顔、笑顔なのに決定的に違う顔。
僕はさらに拒絶を重ねようと口を開こうと……、
「後悔? 後がない人間は、後悔なんてしないよ」
音が止まった。頭から思考が断絶され、出そうとした言葉は霧散する。
なにも言えなかった。
僕は彼女よりも頭がいいつもりだった。
でもたった一言でなにもかも論破された気がした。
僕は彼女の言葉を否定できなかった。
死を意識し、生きてきた彼女は、僕よりも多くのものが見えている。
――後がない。
彼女が僕の服の中に手を突っ込んできた。こそばゆい。
僕がするのは弱々しい抵抗。意味のない、抵抗にならない無意味な動作。
繋がろうとする思考は合わさらない。脳が考えるのことを拒否する。
動揺、願望、祈り、希望、愛情。
もう、どうすればいいのか、わからない。
だが、嫌だった。とにかく、嫌だった。
彼女を愛したい、彼女に愛されたい。そんな感情はしっかりと胸の中にあるのに、嫌だった。
彼女は嘘の表情を作っていた。嘘の笑顔は彼女の不幸の象徴で、全てを無理矢理動かしているように見えた。
「やめ……てくれ」
「いや」
「やめ……てくれ……!」
声を荒げる。
こんなときにアルコールの波を感じた。少量飲んだだけなのに、飲まれそうになっている。泣きそうだった。
「……」
彼女が動きを止める。完全な停止で、嘘の表情は崩れていく。
こちらの顔だってどうなっているか、もうわからない。無表情を保つ自信のあった僕は、今、どんな顔だろう。
「なんでよ」
ポツリと呟かれた一言は、彼女の感情が砕ける前触れで。
「なんで、なの。私のこと……嫌い?」
そんなこと、ない……!
叫んだのは心のみ。体が言うことを聞かないせいで、声は届かず、堕ちていく。
「私は、……たしは……」
彼女の声が消えていく。涙が溢れ、笑顔がしぼむ。
ポタポタ落ちる水は僕を濡らす。直接降る彼女の感情は身に痛いぐらいに、沁みた。
彼女が僕に体重を乗せる。再び密着した体からは震えが伝わってきた。その恐怖の根幹となるものは、
「死にたく、ない」
僕があの日、倒れていた彼女を抱き上げた時の、その、うわ言のような言葉。
「死にたく、ないよぉ」
僕の胸に顔を押し付け、泣き出す彼女に――。
悟る。悟らされる。
彼女は強いのに、弱い。戦い続けた恐怖への傷は大きい。彼女が強かったのは隠すこと。本心を、死への恐怖を誰にも見せず、孤独と戦い続けたこと。その恐怖は絶対に防げない。回復することはなく、摩傷する。僕は、ある意味彼女の唯一の支えだった。
「死にたくない、死にたくない。忘れたくない、失いたくない」
存在を確かめるように、僕を抱き締める。
僕の拒絶は彼女を傷付けていた。彼女は些細なことに傷ついていた。思い返せば、僕が手を振り払った数々、彼女は傷ついた表情を見せていた。……普段は笑ってばっかりの彼女が。
戦慄する。自分の失敗を、恥じる。
自分を殺したくなる。過去も、未来も、現在も。
弱い自分が全てを投げ出せと囁く。
もう動くな、息を止めろ、目を瞑れ。全て、諦めろ。
だが、次の瞬間、自分の人生が見えた。
失敗、成功、失敗、後悔、喜び、……彼女は。
僕は変わらなければならなかった。心に誓ったから、何度も失敗を重ねたから、次に生かすと決めたから。
母との和解も、そういった決意があったからだ。
なら、動け。逃げるわけにはいかない。
息をせず、意思なき死体に意味はない、なにもせずに腐っていくぐらいなら死んだ方がましだ。
信念を込める、人生を込める。
―――生きた証を、ここで見せる
「好きだ」
抱き締められた腕を振りほどく、傷ついた彼女の顔を、他で塗り潰すために動く。
彼女を逆に押し倒し、見つめあう。
彼女は涙を流していた。でも顔は綻んでいた。期待と不安が混ざり、これから行うことを、頷いて、弱々しく先を促す。
期待を裏切ることはしないさ。
僕は決して流されない。これは場の雰囲気ではなく、僕の意思だ。まっすぐと見つめ、目を逸らさない。
まず抱き締める。こちらから、僕がここにいることを主張する。
髪から甘い匂いがする。
小さく、柔らかい女の子の体。男の僕とは決定的に違う彼女の体。
彼女の震えが止まった。次第に落ち着きを取り戻し、目を閉じる。
そんな彼女にキスをする。
舌が絡みあい、甘くて熱い。
僕も目を閉じる。彼女をより深く感じる。より愛しさが増す。
ゆっくりと唇を離し、身を引いた。物欲しげな彼女の瞳に、僕はもう一度答える。
どこまでも沈んでしまいそうなほどの心地よさ。
そしてそれが終わった後、彼女のブラジャーに手を伸ばす。
ビクッと彼女の体が震えるが、拒絶はなかった。
形の整ったそれがあらわとなり、彼女が両手で自分の胸を隠した。「う~う~」と唸るものの僕が彼女の髪に触れると、どかした。ゆっくり頭をなで、彼女の表情が蕩けていく。
彼女をはっきりと見る。
本当に、可愛いなぁ。
彼女の肌に口づける。
「んっ」
彼女が小さく吐息を吐き、体の力が抜けていくのがわかった。
服を脱がしていき、彼女は僕にされるがままとなる。
彼女は僕に全てを委ねた。
互いに一糸纏わぬ姿となり、抱き締め合う。こそばゆい。
僕も彼女も、互いを見つめあった。
「大好き」
「僕もだ」
――互いの影が、深く、濃く、重なった。
◇




