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 医者に今まであったことを聞いた。僕が寝ていたのは半日ほど。佐藤は捕まり、さようならとなったらしい。僕が助かったのは誰かに助けられたからだと聞いた。その誰かとは、服部卓哉、とだけ告げ、すぐに帰ったそうだ。……そしてすぐに警察に呼ばれて事情を聞かされることになったのだが。要するに帰ろうとして五分ほど歩いていたらすぐに呼び戻された、そんな感じだ。このバカっぽい行動と、名字が服部という情報を繋ぎあわせてみれば僕の頭の中には一人の人物しか思い浮かばなかった。

 たぶん、あの騒がしい服部のことだ。僕が偽善者と評し、嫌っていた男。……助けられたということは服部のことをもう偽善者扱いできなくなる、かな。助けられておいてそんな風に思っているなら僕はクズだ。結果が出たならもう偽善者とは言えない。

 体には異常はなかった。僕は健康そのもので、目立った外傷は額の傷だけ。それも前髪で隠れるから外見には何も変わりがない。

 僕は三日ほどで退院することとなっている。

 これだけ退院するのが早いのは吉野早枝の専属医に頼んだからだ。病院にいた最高権力者がその専属医なのはラッキーだった。本当はもっと安静にしないといけないのだが、便宜上は問題ないということで僕のわがままは許された。まあ、押し通したに近い形ではある。しかし、吉野早枝の専属医は、君には借りがあるしね、と笑っていた。


 そうして今に至る。途中で母が見舞いに来たが僕がずっと黙っていたため、母も黙っていた。そして一度の訪問以来、もう来なかった。

 今日は二日目。あと一日で退院だ。

 憂鬱な日々。これからをどうするかという葛藤。空を見上げ、ため息をつく。

 考えても仕方ない。そう考え、僕は本開いた。


 そうして数時間が経過する。

……ずっと読書をしていた。気づけばもう昼か。

 その時、病室の扉が開き、人影が部屋に入ってきた。

 その人物を見たとたん、疲れていたはずの心臓は高鳴り、幸福感とも緊張感ともつかぬ感情が押し寄せてきた。

「へい……ヘーイ……」

 その人物は片方の手で頭の後ろを掻きながら、もう片方の手を上げて挨拶してきた。その自然な動作は、もう会わないと決めていた僕の心を容易く崩した。

「幽霊かな?」

 そんな一言に、目の前の人物はニカッと笑う。

「ヤッホー、化けて出たよー」

 吉野早枝が笑った。

 それを見ると、なんというか、つられてしまうというか、なんというか。

 なんだかな。

 自然と出てしまう自分の素直な笑顔が気恥ずかしい。

「そういえばさ」

「なーに?」

「猫、どうなった?」

 あの日、彼女に冷たいと言われた日。その元凶となった子猫のことを聞く。本当は僕が、猫の入ったダンボールの中に餌を入れたと言いたかった。だがそれでは僕の定めた境界線を越えてしまう。行為は偽善と成り果ててしまう。

「猫ちゃん? 飼い主が引き取りに来たよ。泣いてた。ごめんねっていっぱい言ってて、でも幸せそうだった」

 ならきっと、あの猫の将来も安泰だろう。ホッとする。だがよかったね、とは決して言わない。今更言えない、だから。

「えいっ!」

 いきなり頬を突っつかれた。僕がムッとしたような顔をすると彼女は僕の前で爆笑して見せた。人としてあり得ないと思った。彼女は明らかに調子に乗っていし、理性の枷が外れているのだから、天罰めいたものが降り注いでも自業自得に違いない。

「ふん!」

「ん……なに?」

「……なにも」

 緩く当てた拳を彼女の腹からどかす。

 天罰めいたものを人間が行動してみたが、無意味なものだった。人が神の役目を担おうとしても失敗する運命なのだろう。おまけに、結果として変な目を向けられた。僕からしてみれば君の方が立派な変人なのだが。

「ねえねえ、君さ」

「なに?」

「私、聞いたの」

「……なにが?」

 彼女が改まって、いきなり話を始める。僕は気の抜けた返事を返し、彼女は俯いた。

「君の、お父さんのこと」

 ――ピシリ

 その一言。たった一言で空気が凍てついた。それまでの暖かさは消え、底冷えするような冷めたさが、空間を支配する。

「……で?」

 俯きながらの、自分でも驚くほど冷たい一言。

 彼女の方を見れなかった。見たら怒りが爆発してしまいそうだったから、抑えた。

 父のことに触れて欲しくなかった。例え彼女でも、世界中の誰であっても、僕は自分の思い出に触れられることを拒んだ。それだけは、触れてほしくなかった。

 だがその拒絶をえぐりこむようにして彼女は進む。僕の意思を踏みにじる。

「君のお父さん、他人のために死んでしまったって」

「――うるさい」

「人を救うために、自分の命を懸けたって」

 嫌だった。父が他人のために命を懸けたことが。

 だから聞きたくなかった。尊敬する父を、嫌いになりたくなかった。

「うる……さい」

 父は僕をも救った人だから、憎めない。憎みたくない。だから目を逸らしていたい。

 父が死んだあのことは、なかったのだ。自然と死んだわけじゃないことはわかっている。だが、頭の隅に追いやる。忘れたわけではない。ただ、直視したくなかった。今は父のことが嫌いではない。けれども、自己犠牲は許せない。

 だが、彼女は苛むように僕に言う。

「でもそれは立派なこと。人のために自分捨てられる勇気がある人なんて、なかなかいない」

 穢すな。わかったような口をきくな。自分が失ったことがないから、だから平然と言える。

「だ……ま――」

「だから、偽善と、人間が、嫌いなの?」

 その決定的な一言で、自分の中の何かが切れたような気がした。

「黙れ」

 低く、唸るように言う。感情が、怒りが、頭が沸騰するかのように、熱く熱く、赤に染まる。

 そうだ。確かに父は立派だ。結果として、父は他人を救うことができる、そういう人間だったから。けれど納得できないのは、僕を見てくれなかったことだ。僕のために生きようとは思うなかったことだ。父はきっと満足して逝った。自分は人を助けたんだと。残された息子がなにを思うかなんて、点で考えちゃいなかった。たぶん、自分が死んでも息子は立派にやっていけると、そう期待していただろう。

 でも僕には無理だった。立派であれない。父の自己犠牲が許せなかった。僕が望んだのは父が素晴らしい人間を体現することではなく、ただ僕の父であってくれればよかっただけなのだ。

 だから目の前の存在が許せない。自己犠牲を行った父が偉大だという人間のことが。

 強く睨み付ける。もう、彼女が憎い。

 なにも知らないくせに。父がどれだけ偉大だったか、知らないくせに。ただ知ったように結果を口にし、世間一般的には真理とされることを、淡々と喋るな。そんなものは、僕が真理として認めない。あの日、喧嘩した日のように、それよりも強い怒りに、憎しみをも加えた視線を彼女に注ぐ。

「私にはわかる」

「君なんかが?」

 せせらわらう。なにを気取っているのだ。なにがわかるというのだ。もうあの日から、幼い頃から世界の全てが敵だった。それを暖かい、クラスの人気者であったお前がわかるわけがない。こちらは氷の陰の世界だ。そちらは日の当たる陽の世界だ。ぬくぬくと生きてきた、凍えを知らないお前が……なにがわかる?

「私ならわかる、わかってあげられ――」

「知ったようなことを、言うな!」

 彼女の言葉を掻き消すように、どなり散らす。目の前の人間を拒絶する。

 僕は偽善が嫌いだ。外面だけ理解したフリをする人間が嫌いだ。だから服部のことを嫌った。だが今、目の前にいる人間はそれ以上。外面だけでなく、全て理解しているフリをする。ほんっとうに、こういうやつが、嫌で嫌で仕方がないんだ。

 見るな、触れるな、近付くな。

 本気だった。憎しみも、敵意も、なにもかも。しかし、彼女はあの日と違ってたじろかない。僕の視線を正面から受け止め、一歩近づく。

「くるな」

「イヤ」

 簡素な拒絶に簡素な否定。

 彼女は僕の手を握り――僕は振り払えない。

 自分の動かない体に憎しみを覚え、代わりに言葉で彼女を傷つけようとした。

 『死ね』その呪詛で全てが終わる。 

「私の親も、死にかけたことがあるから」

 だが呟かれた一言は、確かに、僕の何かの動きを止めた。

「な……に」

「君と違ってお母さんの方。だいぶ昔の話でだいたい小学一年生の頃かな。私は小さい頃からやんちゃで、轢かれかけたんだよね。実際には私もお母さんも、なんの傷も追わなかった。でも『あと少し車が来てたら』って。……その時の恐怖を今でも覚えてる」

「……」

 ……そんなもの、どうせ。

「昔の記憶なんて、すっかり色褪せた。でもそれだけは濃い、とても濃い恐怖と怯えの色。自分が死ぬのと、同じぐらいの恐怖。……比べられるようなものじゃないかもしれないね。でも大切な人が死ぬのは怖い。世界で独りになってしまうような感覚は――孤独は怖い」

 握りしめられた手に力が入るのを感じる。彼女の瞳は少し、潤んでいた。

「私のお母さんは死んでない。だから君の気持ちの全てはわからないよ。でも欠片だけ、それだけならわかる」

「そん……なの」

 知ったような、フリを……。

「ごめんね。辛かったよね。君にとって周りは理解をしてくれない敵だった。独りだったから他の人と関わらなかった。その方が楽で、賢明だと思ってたから」

 彼女が僕を抱き締める。僕は弱々しく抵抗するが決して離されることはなかった。

「……僕は」

「私は全部は理解できない。でも欠片だけ、少しだけでいいから君の心を」

 彼女を抱き締める。涙がツーと流れ出る。

 誰にも理解されないと思っていた。


 父の行動は素晴らしかった。


 でも子供にとって違った。そんな派手なことはしなくていい。ただ、背中を見せ続けてくれれば、それだけでよかった。

 それでも彼女は理解してくれた。歩み寄ってくれた。僕の最も触れてほしくないところ、同時に最も触れてほしくなかった片隅。僕は世界にとって異端だった。でもそうじゃないと彼女は証明してくれた。理解は欠片のみでよかった。たったそれだけの量で、それで。

 心が開いた。自分のことがわかった。全部、下らない意地。

 心閉じていないと、無駄に傷つくだけだったから――。

 でも、今なら。今なら僕は、ようやく人間になれるかもしれない。

「ごめん、ごめん……。僕は君を何回も傷つけて」

「いいよ」

 彼女が笑った。涙で目を濡らし、それでも嬉しそうに。

「何だって償うよ」

「もぉー、そんなのいいって。気にしないで」

 空気が戻った。いつもの明るい彼女に、戻った。

 償う。ただの自己満足かもしれない。彼女は気にしないでいいと言った。だが僕は、心に誓う。助けられたから。救ってもらったから。

 ――絶対の厳粛な心への誓いを。

「いつまでこうしてようかな?」

「ん?」

 彼女が笑う。そして主張するように抱き締める力を強めて――僕は慌てて身を離した。

「純情だね」

「うるさい」

 彼女が頭を傾け、僕の肩にもたれかかる。いつもの僕なら拒絶する。だが、そういう気には、少なくとも今は、ならなかった。

「疲れた。少し寝るよ」

「女の子の隣でー? 幸せ者だねー」

 クスクスと笑う彼女。おちょくってくる彼女に少しイラッとさせられる。だがこの関係が心地いい。幸せだ。

 うっすらと意識が、安らかに沈んでいく。

「私も疲れたよ。いろいろと本気だったからさ、寝るね」

「おやすみ」

 そうして僕らは目を閉じた。暖かさを感じつつ、優しいまどろみの中へ。

 寄り添う彼女と僕の姿は、他の人から見たら“人”という文字に見えたかもしれない。


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