死にたくない
僕は病院にいた。吉野早枝の手術が終わるのを待つためだ。
手術は吉野早枝の専属医が行った。世界的にも有名な医者らしく、腕は確かだという。
医者が言うには、見つけるのがもう少し遅かったら危なかったらしい。だがおかげ様で何の問題もなく手術は成功しそうだ、と僕の手を握った。
だが吉野早枝の母はそうは思わなかったようで。
「また、あなたなの!? あなたは早枝の何なの!? どうせ、あなたが何かしたんでしょう! なんで早枝をいじめるの!? 早枝はこんなに、必死に生きようとしているのに!!」
激しい剣幕でそう言った。
理論もへったくれもないこじつけ。いつもの僕なら鼻で笑い、終わったことだろう。だが僕は……精神的に参っていた。心が壊れそうだった。彼女は死なない、だがその死を強く意識したことによって、世の中の全てが恐ろしくなった。
全部、全部が怖い。
後ずさる僕。勢いに乗る吉野早枝の母。
廊下で喚き声が反響する。
思わず、僕が全て悪いのではないか? そんな気分になりそうになる。
どこまでも落ちていくような感覚。たぶん、僕は変わってしまった。これがいい方向なのか、悪い方向なのか、わからない。人の言葉を受け止めるようになり、傷つきやすくなってしまった。これは、こんなものは……ただの弱さだ。
「智子、止めなさい」
制止が入る。
威厳のある中年。おそらくそれは、吉野早枝の父。
「信司君、だったかい?ありがとう。あのお医者様が言ったとおり、娘は君のおかげで助かったも同然だ」
「い、え」
まともに目を合わせられなかった。吉野早枝の父は口では感謝を言っている。だが本当は僕を恨んでいるのではないか? ……そんなことはない。わかっている。けれども頭ではわかっていても、感情がそうだと言ってくれない。世の中の全てが疑わしく見え、全てが僕を責めている気がした。――あの日、世界の全てを敵に感じた時より、ずっと強い悪意を。
まるで本当の罪人のような態度をとってしまう僕に、吉野早枝の父は僕の肩に手をポン、と置き、去って行った。
吉野早枝の母は残るらしいが吉野早枝の父は仕事があるらしい。
今は10時。僕は学生のため、もう帰りなさいと言われた。僕が不安そうな顔を見せれば若い医者は「絶対に大丈夫だ。だってあの人は……」と、遠い目をしながら言った。その様子から吉野早枝の専属医への信頼が伝わってくる。ならば、大丈夫だろうか。
正直に言えばここに残りたいという気持ちの他にも、逃げ出したいという思いがあった。
ここに残ったところでどうする。彼女と顔を合わせるのか? 僕は彼女に何を言うのだ? いったいどんな顔をして?
……なにもできない。
狂おしいほどの寂寥感。はっきりと自覚した。彼女はもう、僕とって大切な人だと。会いたいという切実さ、会ってはならないという恐れにも似た義務感。二つに挟まれ、苦悩する。だが、心は割れていた。ガラスのように、あと少しで壊れてしまいそうなほどに。意思力がなく、欠片ほどの勇気すら出ない。
今は全く、痛みに耐えられる気がしなかった。もっと、強い人間でいたかったのに。
病院を出た。
歩いて15分がたった。家まであと15分。僕はただひとり、公園の暗い道を歩く。目の前にはくだらなければならない階段がある。長い、長い階段。空は暗い海のようで、無限に広がっている。その中で浮かぶ満月。光を讃え、美しく佇むその星が、人間どもを見下ろしている。。夜の闇に怯え、虚無の心が引き起こす挫けという心情。階段の上から下を見下ろしてみれば、深淵に落ちていくような錯覚を覚え、足がすくむ。
今日だけのはずだ、こんなに弱いのは。明日になれば全て元通りになる。自分を抑えられる。また、平和な日常がやって来る。そのはずだ。
――そうして一歩、踏み出してみれば。
襲うのはとてつもない痛み。訳がわからなく、ただ落ちていく僕。頭が石の階段に直撃し、意識が光と闇の光景を何度も写し出す。
明らかに自然ではない落下。そして落ちていく直前に、背中には強い感触があった。
誰かに突き落とされた。
何故かはわからない。
「あ、がっ」
地に這う虫のように、みっともなくうめきながらも、なんとか首をなんとか回す。そして見た。
氷の刃がごとき殺気を眼に宿し、僕を見下すように見下ろす姿。
佐藤。大笑い、爆笑。指を突きつけ、嘲笑っている。
僕を格下とまだ見ているその姿。
まだこいつは……、またコイツは……。
死んでいた意思が蘇る。ひび割れていた心は修復し、強い炎が宿った。
「う、あ……お、おおおぉぉぉ!」
声を出せねば、挫けてしまうと思ったのかもしれない。黙っていればそのまま死んでしまうような。無理やりにでもなにかを叫んで、立ち上がらなければならないような。
頭が回らない。思考が繋がらない。狂気の笑いが止まった。
「まだ立つのかよ、化け物」
ふらつく。体のパーツが言うことを聞かない。しかし、もう今なら痛みは耐えられる。元通りの自分。
頭に手を当てる。
もう一度見た自分の手のひらにはのっぺりと暗い血が付いていた。だから体は動かなかったのだ。生物として、人間という生き物として行動不能になるほどの衝撃、脳へのダメージ。痛みとは別の要員、妨げとなっているのは純粋な生体としての限界。
だからわかった。死が隣で笑ってる。すぐ側に死がある。それは、可能性だ。自分の存在が喪われる可能性をはっきりと感じ…………あぁ、彼女はいつもこんなものを見ていたのか。
「さ、だぅ、ば、ごな……ん」
呂律が回らない。脳が指令をまともに受け取らない。死ぬ。こいつに、目の前のコイツに殺される……!
「まるで障害者のようなみたいだなぁ、相川」
佐藤がゆっくりと階段を降りてくる。僕は逃げるため、引きずるようにして無理矢理進む。痛かった。頭へのダメージは全身へ伝わり、幻痛が体全体を襲う。僕の足にはヒビが入っていたはずだが、その痛みを全く感じないほどに、全てが痛かった。
言うことを聞かない足ではまともに歩けない。体を押し出すようにして進むが、今にもバランスが崩れてしまいそうになる。
数歩程度、歩いただけで、これ以上酷くなることはないと思っていた『痛み』は増し、絶望が深く彩る。
「なあ相川。俺はなんだって持っていた、何もかもがあった。でも一つだけなかった。それはお前が持っていた。だからお前を潰した。お前は歯向かってきた。そして俺は負けた。……あの喧嘩のあと俺はどうなったと思う? 失ったよ! 全部、お前のせいでな!」
自己語りを始める佐藤。
知るか、あの喧嘩の終わりのあと、全てに興味がなかった。お前のことなど、知らない。
佐藤の瞳を見る。涙にぬれた子供みたいな姿。行き場を失って無理やり行動してしまった。そういう類の。
……動揺している姿。たぶん、たまたま僕がここに現れなければ、こんなことにならなかったのではないか?
佐藤が追う、僕が逃げる。佐藤は自分の言葉を聞かせるためか、歩みは遅いようで、まだ捕まっていない。
今や痛みは僕の意思力を越えるほどの勢いで僕を苛んでいた。一歩一歩、一瞬一瞬の地獄の苦しみ。
もう、なんで生きているのだろう。なんでこんな思いをしなくてはならないのだろう。理不尽にこんなに苦しんで……もう、死にたい。だが僕は足を止めなかった。それは死が恐ろしいからか。父のことを思い出したからか。……彼女にもう一度会えると、期待しているからか。
「あああああぁぁぁぁ!」
奮起の叫び。ただの誤魔化しにも似た抵抗。それは佐藤から見ればただの奇声で、寧ろ、喜ばせているのかも知れない。微かな生きる希望を持って僕は歩く。未来への意思。どうやったって助かる見込みなどない。絶対に逃げ切れない。それでも足掻く、息をする。
長く、長く、自分を引き摺る。苦しい、永遠に似た闘争。
だが遂に、遂には限界を迎える。永遠など存在しないように、無限もまた、存在しない。いくら自分を鼓舞しようが、未来に希望を見出だそうが、僕の意思力は尽きてしまった。
電柱に寄りかかり、ズルズルと音をたてながら体が落ちる。
「はぁ、はぁ」
ポタポタと落ちる水滴。それは汗ではなく、血。
視界は血で染まっていた。前は暗く、景色が見にくい。
「俺は負けたよ。相川、お前に負けた。どう言い訳しようが、これは事実だ。でも失態は自分でケリをつける、清算する」
そんな景色でも、佐藤だけはよく見えた。今やその顔に激情は見えず、ただ自分が行うことを冷静に見ているのがわかる。そう、声は冷静さを保っていた。自分が為すことをしっかり見つめ、僕を見る。
「相川信司、お前はなにも悪くなかった。でもお前がいると俺は満たされないんだ、状況のなにもかもが限界だ。お前がいるとこれ以上前に進めない。
悪……な、お前は悪……ない。でも、俺……都合で死んで……れ」
僕の意識は佐藤の言葉を聞くうちにも闇に落ちていった。耳は音を収集せず、雑音が阻害する。
前が見えない。なにも見えない。辺りは暗い。
だから見えないのだ。僕の目がおかしくなったのではない。意識が消えていくからではない……。
そうやって自分を誤魔化すけれど――。
彼女の顔が脳裏に描かれる。笑った顔だ。何度もムカつかされてきた顔ではあるが、そうではない顔もある。あの時は、楽しかった、のかもしれない。僕はそれを忙しさと勘違いしていた。人間とかかわって楽しいなど、今更そんな風に思う自分が許せなかったから。人との関わりは暖かいものだった。だから、彼女は人間が好きなのだろう。
僕はいままでの自分の人生観を保つために自分に嘘をついた。そうやってわざわざ、頑張ってまで、楽しさを忙しさだと思い込み、全ての事柄を、取るに足らないものと、錯覚させた。
……もう終わりだ。
佐藤の語りは終わった。
僕は死ぬ。
そしてドサッ、と音がした。
「やめ…………藤ぉ!」
僕は死んだ。
◇
◇
身を起こした。
風景はなにもかも白い。
死んだか。
そんな考えが出た。だが次の瞬間にはそんな自分をせせらわらう。
僕は天国も地獄も信じない。死後の世界など存在しないと思っている。だからここは、現実。
辺り一面は真っ白。だがそれは眺めていけば徐々に色を取り戻していった。
緑のカーテン。紺色の床。青い空。自分の肌の色。
瞬きをする。
そうすればここは完全に現実となった。音は戻り、匂いが戻り、自分の体が無事動く。
体を起こし、立ち上がる。
頭には包帯が巻かれていた。だが体はなんの問題もなく動き、健康。何も欠けていない。助かったのだ。
ゆっくりと頭の包帯をほどく。そして自分の額を触った。血が出ていたところだ。
額は縫われていた。触るとなんだか変な感触だ。他にも頭にはたんこぶがいくつかできていた。触ると痛い。
僕は――深々とため息をついた。




