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失う――

 僕はあのあと病院へ行った。さすがに痛みが酷すぎたから念のため、ということだ。

 医者に見せると「なんで歩いているんだね!」と叫ばれた。少し笑えた。聞いてみれば僕の足の骨にはヒビが入っており、なんの不自然さもなく歩行する僕に驚いたそうだ。全治一ヶ月程度。まあ、君は若いからこの半分ぐらいで済むかもね、と言われて診察は終わった。

 そういうわけで僕の片足にはギブスが巻かれ、松葉杖を渡された。また、全く歩けないというわけではなく、痛みを我慢すれば歩けるし走れる。もし佐藤たちが弱った僕の姿を見て戦いを仕掛けてくるとしてもなんとかなるだろう。と、いうよりも松葉杖を使えば一撃で終わる。本当に殺してしまえそうだ。

若干の病んだ思考と暴力的な自分に少し笑ってしまう。相変わらず僕は幼稚でしょうもない。破滅願望でもあるのかもしれない。

 とりあえず、僕の怪我を見ればわかるがここまでいくと普通に傷害沙汰だ。僕が学校から去った後のことはどうなったのだろう……?

 まあ、なんとかなるか、と楽観視。仮に全て僕のせいになったとしても、これからの生活に影響はない。退学を言い渡されたらさすがに不味いが、三対一のあの状況だ。さらに、こちらも怪我をしている。流石にそこまではいかないだろう。


 家に帰ると母は居なかった。留守のようだ。あの記憶を思い出した今、母に対して申し訳なさを感じる。今だって母の考え方には賛同できない。だが、それは思想の違いなのだ。母が悪いわけではない。

 と言っても、仲直りをしたいわけではない。だからこの関係はもう変わらないだろう。彼女が僕の隣から消えた今、これからずっと日常が流れていくのだ。もう僕と母が和解するきっかけは永遠に来ない。


 学校に着けば皆から目を逸らされた。以前は面白がっていたのに、今は恐れている。見事なほど簡単に態度を変える奴等だ。だがもうこれで、少なくともこの高校では僕に関わろうとする奴は現れないだろう。

 教室に入り、また目を逸らされる。だが気にしないので全く問題はない。しかし、その中で一対の眼のみが僕を捉えていた。その人を見れば僕の胸は痛くなり、苦しくなる。

 吉野早枝がこちらを見ていた。体調は悪そうで、それでも心配気にこちらを見てくる彼女。だが僕は無視した。もう関わらない方がいい。少なくとも、彼女にとって、僕に関わるのは害でしかなくなった。そう……これでいいのだ。


 そうして日常が過ぎていく。なんの障害もなく、何の喜びもなく。だが苦しくはなかった。ただ一つ、心にはしこりが残っていたけども。

 彼女の体調は悪い時もあれば良いときもあった。悪い時は一人でおり、良い時は誰かと喋っている。わかりやすかった。だからこそ、一人でいて体調が悪そうな時、余計に心配になった。

 そんな自分が嫌だった。彼女にはもう関わらない。そう決めたのに何を勝手に彼女を心配などしているのだろうか。僕にはそんな権利、ないくせに。なのに心配だけはする偽善者だ。なにもできないくせに誰かを心配していい気分に浸ろうとするクズ野郎だ――。

 また、帰宅のときとなった。

 元の日常。望んでいた時。

 穏やか。一度苦しみを乗り越えたからか、余計にありがたさがわかった。

 ――だが、

 隣を吉野早枝が歩いていく。ただ一つの悔やみ。もう手が届かない、いや、手を伸ばしてはならない花。それは今にも萎れそうなのに明るく、真実を知る僕にとって胸が痛かった。彼女は俯いていた。僕に気付かず、すれ違って。

 僕は後ろを振り返った。

 ヨロヨロとふらつき、歩く彼女。時折壁に手をつき、何かから逃げるように無理矢理足を動かす。死神から逃れようとのたうつ弱い人間。

 彼女は死ぬ。それが決められた運命で、逃れる手段はない。僕が介入する余地なんかない。

「……」

 後悔、してるんだろうか? 彼女との決裂を。僕がこれからなにもできないということを。僕は彼女を助けたいんだろうか?

 まさかまさか、そんなこと、できるはずがない。人間が嫌いな僕が誰かのためを思う? それは面白い冗談だ。馬鹿げてる。

 そう強く信じている。なのに胸が圧迫される。騒がしい、煩いほどに頭の中で警報が鳴り響く。僕は彼女に話しかけたいから、だから自分の欲望に素直になれと、それで戻れと騒いでいるのか?

 答えは出なかった。だが、思い知った。出来事は唐突にやって来るものだと、今を、現実という名の現在を、必死に生きなかった僕は間違っていた。

「……え」

 背後からドスン、と鈍い音。沈黙の廊下に音が反響し、響くそれは。

 死の音だった。

 命の終わりは唐突にやってくるからこそ、人は己の命を大切にしなければならない。

「う……そ……だ」

 彼女は倒れていた。頭の中が熱かった。暖かみなど皆無で、冷たささえ感じる狂気。

 ――嘘だよ、ね?

 また、死ぬのだろうか。父が死に、今度は、次に死ぬのは誰だろうか。

 現実を受け入れられないガラクタの脳味噌。妥協し、諦めて生きた僕は――。

 意識を切り換える。なにもかもわからない。でも、反射的に体は動いた。杖など放り出し、何を捨ててでも、走った。がむしゃらに彼女を抱く。

 その時、彼女が激しく咳き込んだ。

「死に……たく……ない」

 うわ言のように紡がれる言葉。衝撃を受ける。いつも気丈に振る舞っていた彼女。死を恐れていることは知っていた。死が近いことも知っていた。でも、いつも笑顔だった彼女を見ているとそのことを忘れてしまい……。

 彼女の瞼がびくつく。そしてうっすらと目を開け、僕を見た。

「あい、かわ……くん?」

 彼女の瞳にあるのは後悔だろうか、恐れだろうか。最後の僕への印象は、最悪のはずだ。それなのに……。

「ごめん……ね」

 心臓が飛び出そうになる。予想外の一言に、なにも反応できない。

 本当は謝らなければならないのは僕の方なのに。

 僕の態度が悪かったのに。

 君はなにも悪くないのに。

 自然と涙が溢れ、ただただ問う。

「なん、で……?」

 そう呟いた僕の言葉は彼女に聞き入られなかった。

 ゆっくり閉じていく瞼。最後を予感させるような怠い動作。

「ああぁ……あああああああぁぁ!」

 死んでほしくない。生きていて欲しい。生きて……。

「だれか……だれか!」

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 こんな予感が当たるわけがない。父の背中と重なって見えたなど、こんなものが当たるはずがない。嘘に決まってる。助かるに決まってる。彼女はあんなに笑っていたではないか。元気だったではないか。僕が覚えている彼女は、そうだった。

「だれか、来てくれ! だれか!」

 もう僕にできることはほとんどなかった。僕の力では無理だ。いくら頭を働かそうが、心臓が破裂し、それでも体を動かそうが。

 ――僕はあくまで人間で、無力な個人。彼女を治すことは、できない。

「だれか! だれか! 助けてくれ!」

 できることは願うだけ。奇跡を信じ、叫ぶことだけ。

 喉が裂ける。絶叫を繰り返し、全身から力を絞る。

「助けてくれ! 助けてくれ! 助けて……!」

 喉が枯れていく。声は掠れ、音は小さくなっていく。

「助けて……! 助けて……! だれか、助けて……助けてください……!」

 最後に残った声は掠れ、血の味が滲む。それでも、それでも……僕は。


「おい! だれか! 救急車を呼べ!」

 目の前に教師が立っていた。

 皆が僕らの周りを囲んでいた。

「運べ!」

 優しく持ち上げれ、彼女の体が大柄な教師によって運ばれていく。

 僕の顔は涙でぐちゃぐちゃで、みっともない姿で、遠ざかる彼女に手を伸ばす。

 眼に溜まった涙は熱かった。だが頬を伝い、僕の手へと落ちた雫は、冷たかった。


 ◇



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