ああ、偉大なる我が父は
状況は悪い方に傾いていった。僕の隣からは彼女が消え、もとの日常が戻るかと思われた。しかし、まだ佐藤がいた。
この数週間、彼女はまちまち学校を休んだ。そして彼女がいない日は決まって佐藤の嫌がらせは酷くなった。
机の上には割れた花瓶。濡らされた体操服。消えた筆記用具。
それだけではなかった。僕に対して悪い噂も猛威を奮い、今やクラス中が知っている。
――吉野早枝を泣かせた相川信司。殴った、物を盗った、付け回した。
ストーカー、キモい、クズ、死ね。
そのほとんどは具体性のない噂話。だが皆が知っており、それゆえに正しい情報だと疑わない。どんどん悪い方へと転がっていき、敵が結束していく。僕を嫌うことによって結束するその姿は、人間らしい滑稽さがあって少し笑えた。いっそのこと宇宙人が攻めてこれば世界は平和に包まれるかもしれない。
奴らの考え。病弱で儚い彼女を守ってやろうとでもいうのか、場違いで勘違いな正義感。頭が弱い、周囲に流される人間ども。もう、うんざりだ。
佐藤はこちらを見て笑うようになっていた。前はこちらに怒りしか向けてこなかった。だが今は蔑み、下の者を見る眼でこちらを嘲笑う。腰巾着たちと話す彼はどこまでも晴れやかな顔をしていた。
敵は佐藤だけでなく、クラスの全てとなった。僕は真の意味で一人となり、彼女はますますこちらを見なくなった。いや、それは元々のことで、学校という場では僕と彼女は全く接点を持たなかった。それが外でもそうなっただけだ。携帯を見てもなにも起きず、僕は誰とも会話をすることがない。
だが……。今やそれら全てはどうでもいい。感情は冷めた。怒りはおろか、不快感すら感じない。ただ、めんどくさいという感情。
淡々と生きる。誰に何を言われようとも、何をされようとも。全てを中途半端にこなせるから、時間は止まらず、ゆっくりと進む。
今日は誰かに後ろから蹴られた。犯人はわからない。
めんどくさくて振り返えることすらしなかった。何をされようともただ黙し、徹底的に無視する。以前は全てを耐えきることなど不可能だと思っていた。だが永遠などないように、この嵐はいつか終わるだろう。この負担も、いつかは必ず下ろされる。悪口は消えなくても、この面倒な、実害のあるいじめはいつかは終わる。
めんどくさいやつら。本当に、人間は嫌いだ。
「おい、ゴミ、ちょっとパン買ってこいよ」
無視した。
その代価は何発かの物理的暴力の応酬。
感覚はある、だが痛みは耐えきれる。今日は彼女が欠席した日だったから、やつらの攻撃性は大変に強かった。
そうやって日常は流れていく。ひどい日常だ。だが、それでも生き続けた。意味などとても見い出せない。しかし、これもよくよく考えればいつものことだ。色あせた世界で、生きる理由が欲しかった。でもそんなものはどこにもない。それでも生きているのは、ただ単に死にたくはないからだ。
立ち上がる。防ぎようのない嵐のような災害。愚かな人間が正義感を満たすために他人を攻撃するクズみたいな行為。それがようやく終わった。
今は放課後。帰るか、と思うと一人の人物と眼があった。
服部。名字しか知らない、元気が印象のクラスの人気者。
その眼差しは悲しげで、同情があった。……こういうやつが一番腹が立つ。勝手に同情するな。正義漢ぶるな。どうせいじめられる者を見て、それを可哀想だと思っているんだろう。そしてこんなことを感じる自分は、善性を持つ人間だと思うんだろう。そして葛藤し、救ってあげられなくてごめん、のような茶番が、その腐った脳内で繰り広げられるのだろう。
ふざけるな。見世物じゃないんだ。自分が善だと証明するための材料として、勝手に同情するんじゃない。
「なあ、相川」
後ろで服部という名字を持つ人間がなにか喋りかけてきた。それを無視し、僕は家路へと戻る。
体はだるく。意識は弛い。やつらは怪我のした左手すら何度も狙ってきた。控えめに巻かれた包帯からは血が滲み、永続する痛みがうっとおしい。
そして次の日が来た。
そして次の日が来た。
そして、そして……。
「信司、何かあった、の……?」
玄関で靴紐を結ぶ。そんなときに声をかけてきた母。それを無視する。
「ねえ……信司」
「うるさい」
母の声が途絶えた。そして身を震わし、下がる。
別に怒ったわけじゃない。ただめんどくさいから、興味がないから関わろうと伸ばす手を断ちきっただけだ。そう、全てどうでもいいのだ。
淡々と歩く。授業を受ける。時が過ぎ、休み時間が来る。そして授業が来て、終わり、昼になって。
弁当を開く。一口食べる前に弁当箱が吹き飛ばされる。佐藤だ。そうか、今日は彼女がいない日か。食べられなくった弁当をしまい。顔をあげる。そうしたら遠くから僕を見つめる人間の眼が合った。
服部。またお前か、いい加減にしてくれ。眼は逸らされ、僕は内心で怒りに震えた。
ずっと感情は動かなかった。だが服部によってまた少しずつ動かされる。今の現状が頭のなかで回る。
「……」
周りは笑いに包まれていた。それはしばしの間続き、少し経ってまた元の雰囲気に戻る。
「…………」
頭が痛くなってくる。なくなったはずの怒りがまた湧いてくる。どうしてこんな目にあわなければいけない。僕が何をした。なんで佐藤はあんな態度をとる。理不尽だ、不愉快だ、消えてくれ。
立ち上がる。
こうなった全ての発端の座る席へと向かう。
誰も僕に注目していない。だがそれも、すぐに変わることになるだろう。
「なあ、佐藤」
呼ばれた佐藤が振り返る。周りの腰巾着どもがニヤニヤとこちらを見る。
大体こいつらが期待する内容はわかっている。
「あぁ? なんだよ」
振り返った佐藤の顔は笑っていた。最初は目的があって彼は僕に嫌がらせをしてきたはずだ。しかし、変わった。弱者をいたぶることによって自分が強者だと錯覚。上位に立つ者としての快楽を感じ、目的はそんな快楽を得ることに入れ換わった。
こちらを嘲るその顔が。こちらを見下すその目付きが。
それをありありと示す。佐藤の変化が、刻まれている。
だが、それらは僕の言葉によって今からどう変わっていくのだろうか?
「もうやめてくれないか。もううんざりだ。佐藤、なんでこんなことをするんだ?」
「ハッ、前も言ったろうが、バカか?お前は?」
腰巾着たちが爆笑。佐藤もニヤニヤし、僕は無表情を保った。
「なんとなくって言ったじゃねえか、お前がここに存在するからだよ。理由なんてねえよ! ハハハ!」
侮蔑、嘲り、侮り。
すべて受け止め、怒りを胸に宿し、それを決して外側には出さない。
僕は淡々と喋る。
「佐藤、君は吉野早枝が好きなんだったよね?」
「あぁ?」
「それで嫌がらせか。吉野早枝は僕以外の男友達がいなかったから。話しかける勇気がなくて、せめて吉野早枝と接点のある男を攻撃。根性がないね? 女々しいね? そのでかい図体は飾りかい?」
「……てめぇ」
わざと佐藤の神経に障ることを言う。佐藤の気を苛立たさせる。それでも佐藤は『手を出す』ことはしない。予想通りだ。彼は学校ではなぜか直接暴力を振るうことをしない。
だからこそ、手を出す状況にしてやろうではないか。
「クズめ」
そう言い、佐藤の顔に唾を吐きかけた。
次の瞬間、拳が迫り、視界が揺れた。
顔面が潰れるかと思うほどの痛み。
体が衝撃で吹っ飛び、机を蹴散らしながら騒がしい音を立てる。
教室内が静けさが漂う。
殴った本人である佐藤は呆然としていた。自分が手を出してしまったことに驚きを隠せないようだった。
そのなかで僕はただ一人、思考を止めず、脳をフル回転させていた。
佐藤に隙がある。誰も動かない。僕だけが動ける。
スクッと起き上がり、佐藤が遅れながらも反応を見せた。
だが遅い。
佐藤の頭を狙い、殴りつける。
「あがっ」
佐藤が床に倒れ伏す。
男の高校生が振るう暴力だ。僕はそこまで力が強いわけではないかもしれないが、弱いわけでもない。そんなものを頭に直撃されれば簡単には立ち上がれまい。立ち上がれたとしても僕が潰す。
恐らく佐藤は視界が揺れ、体の平衡感覚が狂い、痛みに喘いでいるはずだ。こちらだって先程の一撃で体調は万全から程遠い。頭はしきりに痛みを訴え、視界が揺れて、定まらない。それでもやらねばならない。もう終わりにする。徹底的に痛め付け、もう関わりたいと思えなくさせる。
そして、狂暴な僕を見れば他の奴等からのいじめも終わるだろう。ただ、これには勝利が絶対条件。
頭に来るのだ。こうやって強いからって弱いものを積極的にいたぶろうとするやつが。残念ながら、僕はただやられているだけの奴にはならない。ガラ空きの腹を蹴りつける。それを佐藤は瞬時に手を頭から腹へ移動させることによって防いだ。だが僕は何度も何度も、佐藤を蹴りつける。起き上がる隙を与えないように何度も何度も……。
「やめろ!」
横から何かがぶつかってきた。崩れそうになる体勢を、なんとか近くにあった机を掴むことで立て直し、整える。
冷静に状況を見た。僕に抱きつくようにしてぶつかってきたのは腰巾着のうちの一人だ。便宜上、腰巾着Aとでも呼ぶか。もう片方の腰巾着Bも戦意を高めており、この争いに参戦する決意を固めたようだ。佐藤は呻きながら起き上がり、憎しみを眼から溢れさせ、よろよろ立ち上がる。
この時点でもう勝てる未来が見えなかった。
三対一。
普通なら勝てるはずがない。いや、負けてもいいのだろう。僕は異常者で、関わり合いになるのは損。そう思わせられればいいのだ。
――そう思っていた。けれど今は、抑えきれないほどの怒りがあって。
こんな意思力のないゴミどもに、痛みを耐えることすらできない雑魚どもに、負けるわけにはいかない。こちらはこんな奴等とは意思力が違う。怒りが違う。これまでの人生が違う。
死んでも負けるわけにはいかない。絶対に、絶対に、絶対に。
腰巾着Aの後頭部が僕に抱きついた体勢のせいでちょうど空いている。
最初に佐藤を殴った痛みが残る右拳で、相手の頭を、壊れるほどに殴る。腰巾着Aの体から力が抜け、ずるりと落ちる。だがその成果の見返りに他の二人から何度も殴られた。
腕が重い。全身に熱があり、痛みを耐えることができるとしても動きが鈍くなっている気がする。敵を見つめる。佐藤はかなり弱っている。一方腰巾着Bはノーダメージ。腰巾着Aはダウン。こちらは蓄積ダメージが大きい。
だがまだやれる。痛みは耐える。体はだるかろうが動かせる。骨が折れなければ体は動く。肉が裂けなければ立ち上がれる。何度でも、何度でも。
佐藤が蹴りを放ってくる。だがそれは悪手だ。サッカー部だから、さぞかし自分の足には自信があるのだろう。しかし、体勢を崩しながらの攻撃なら、実際に使うとなると弱い。
左手で防ぎ――怪我をしている左手に痛みが走る。
隙だらけの佐藤を力任せに押すことで転倒させる。
腰巾着Bからの攻撃が背中を強く打つ。
痛みは我慢できても体の構造上、僕の口から息が吐き出されるのを止めることができない。頭が真っ白になるのを感じ、なんとか意識を戻す。反撃はしない。そんなことよりも目の前の佐藤を攻撃して一対一に持ち込まなくてはならない。
数発倒れた佐藤に蹴りを入れるが腰巾着Bの攻撃がなかなかに効いたせいで決定打はない。起き上がられ、また不利になる。
それから何度も敵を殴った。何度も意識が飛びかけ、もう眼を閉じてもいい、そんな気持ちにもなった。
これほどの痛みを感じるなどいつ以来だろうか。
――いつっ、信司、大丈夫か?
優しげにこちらに微笑む顔。
覚えていない、記憶。刺激がきっかけになった? それにしてもあまりにもばからしいきっかけだ。
目の前の敵を殴る、蹴る。だが僕が一発殴れば相手は五発殴ってくる。
耳に拳が当り、聴覚が変になった。左目蓋も視界が狭い。
戦え、戦え。血を沸騰させろ。こんなところで負けるな。こんなやつらに負けるなら自分はゴミだ。そう、負けるぐらいなら、死んだ方がいい。
――目の前にはよく知った顔が笑っていた。脂汗を掻き、それでも目の前の僕を安心させようと微笑んでいた。僕は震えていた。今さっき襲われた恐怖から、始めて感じた死の恐怖に、涙が出、体の震えが止まらなくなるほどに怯えていた。
「くっそぉぉぉ!」
痛みが強くなっていくごとに蘇る記憶。痛みを耐えるほどに鮮明になる記憶。その時に抱いた感情を、恐怖を、……尊敬を、否定したくて叫ぶ。
もう何度目となるかもわからない拳による一撃に佐藤がヨロヨロと後退した。腰巾着Bも僕に何度も殴られてボロボロだった。
一方、こちらは痛みを耐えるのが遂に限界となっていた。自分の限界が見える。息が苦しい。ガラス片で裂けた傷をいくつも持つ左手からは、血がどくどくと流れる。
とにかく左手が痛い。もともと傷があったから、だから痛い。殴られた痛みではなく、刺すような痛みが永続するのが……。
それでも全てを使わねば勝てない。痛みを感じる左手であろうとも使い潰して、敵を殴る。
「死ねぇ!」
佐藤が叫ぶ。あれだけ殴られ、動きが鈍くなっている筈なのにこの動きだけは鋭い。恐らく後先考えない一撃。これを耐えれば、耐えきれば勝つ。
なんとか体をずらそうとする。だがもう僕の足は動いてくれなかった。
「……ッ!」
もろにくらい、視界がぐらつく。世界がぐらつく。身体中の四肢全てが、これ以上動くことを拒否し、脳は眠りへの誘惑をただただ示し続けた。
ああ………………。
「大丈夫だ。大丈夫だぞ、信司」
「死なないで、死なないで、お父さん……」
眼を開く。
限界が来ようとも、それでも。
壁に手をつき、転倒だけは免れる。
そして佐藤の大きくあいた腹へ最後の拳を入れた。
佐藤の口から息が漏れ…………動かなくなった。
目の前の人間が倒れ伏す。残り一人。だがもう力は欠片ほども残っていない。
睨み付ける。肉体ではもう勝てない。だからこれ以上は無駄だとハッタリを聞かせて腰巾着Bを睨んだ。
腰巾着Bは後ずさる。そして僕はまた一歩近づく。腰巾着Bは青い顔をし、「無理だろ……こんなの……化け物め……」そう言い、教室から走って逃げていった。
……腰巾着の鑑のようなやつだ。
終わった。
……終わった。
息を深々とつく。全身の筋肉が痙攣し、やはり限界だったか、と自覚した。
周りの人間全てが僕を見ている。化け物を見るような目で、恐ろしいものを見る目で。ひとの理解など求めていないし、今更のことだろう。
僕は佐藤たちに比べて何倍ぐらい殴られたのだろうか。何倍ぐらいの痛みを受けたのだろうか。それでも僕は倒れなかった。だから、皆は、僕を恐れる。
もうこれは終わったからいいのだ。それよりも記憶のことだ。あれは忘れていた記憶だった。なぜ忘れていたのか、なんであんな大切なことを忘れていたのか。その原因は、大体もうわかっている。
まだ授業は残っている。だがもう帰ろう。全てのことがどうでもいい。疲れた……少し眠りたい。
自分の荒れ散らかった席へと歩く。僕の前にいた人間たちが海を切り開くかのように僕を避けた。まるでモーセのごとく、だ。
鞄を持ち上げようとするが、いくら力を入れても持ち上がりそうにない。なので体を捻って勢いをつけることで肩へと回す。
そして平然と教室の扉へと向い、家に帰ろうとした。
「あ、相川! 待ってくれ!」
背後から声がかかる。服部だ。
でもな、服部。もうお前のことも、僕はどうでもいいんだ。
「待ってくれ!」
無視して帰ろうとした僕の肩に手がかかる。うっとうしい。だがもう体のどの部位も力が入らない。振り払うことができない。
「相川、お前の噂話は不自然なところが多かった。本当は何があったのか教えてくれ」
必死に訴えかけてくるその声は、
憎かった。そこまで善人ぶりたいのか。もう遅い、そんなことをしても遅いんだ。そして今更全てが明らかになったとしても関係ない。もう僕に関わる者はいないだろう。それで幸せなんだ、放っておいてくれ。
だから拒絶する。低い声で、なんの感情も込めず、呟くように言った。
「関わらないでくれ」
「……」
そうして肩から手が離れた。僕は無表情だった。あれほどの痛みを受けようとも、今、どれだけ感情がさざ波打っていようとも、何も感じていないかのごとく振る舞う。全て、演技だった。
教室を出る。そして記憶のことを考えた。僕の記憶、父に関する記憶。誰であろうとも、他人であろうともがむしゃらに人を救っていた父は僕も救っていた。そして死にかけ、僕は泣いていた。
自分の命を大切にしなかった父。
誰彼かまわず救い、自己犠牲と自己満足の塊である父。
それを憎んだ僕。
僕が……僕が悪いんだろうか? 父に生きてほしかった。けれど父は自分の命に無頓着で、それがどうしても許せなかった。あまりにも認めたくなくて、憎しみに代わるほどだった。……本当は尊敬していた。結局、行動できる父は立派な人間で、少なくとも良い人間であるのは間違いなかった。
でも死んでしまったから。そんな現実が受け止められなかったから。そして父の死に感謝する人間がいたから。……尊敬なんて、するわけにはいかなかった。父の最期だけは正しいと認められなかった。子供を――僕を残していかないでほしい。生きて、欲しかった。
父に対する感情は裏返った。尊敬を唾棄し、愛情は憎しみへ。
「……」
もう思い出した。父への思いも、なんでこんなに毎日が苦しかったのかも。
父が生きていたら、こんなにもひねくれた生き方をしなくてすんだのに。
そう思うのは、きっと自分が浅ましいからだ。




