死んでしまえば、なんの価値もない
次の日、遂に吉野早枝が学校に来た。だがそれよりも気になるのは佐藤の反応だ。
佐藤は僕を見るなり、怒りで顔を紅潮させ、歯を剥き出しにする。しかし、なんとか抑えた、という感じで俯き、自分の席へ座った。思ったのだが、佐藤は学校では必ず、直接は関わってこない。普段の短気な彼を見ていればわかる。学校という場では、相当に問題を起こしたくないのだ。それはこちらにとって、とても好都合。吉野早枝は、彼女は珍しく、今日は一人だった。誰とも関わらず、ポツンとした雰囲気。
最初のうちは何人もの女子生徒が話しかけに言っていた。だが一言二言話すと離れ、静かになる。大方「今日は一人でいたい」とか、そんな感じのことを言ったのだろう。
時は過ぎ、また何事もなくチャイムがなった。
今日は佐藤の嫌がらせはなかった。その理由は昨日のことが原因なのか、彼女が久しぶりに来たからやめたのか、わからない。生徒がぞろぞろと教室を出る。僕は吉野早枝の後ろを追おうと少し遅めに教室を出る。あまりに元気が無さそうなので少し驚かせようと思ったのだ。人を元気にさせようなんて僕らしくないのだが、それで、もし彼女が不快な気分になってしまったとしても、今までのイタズタの分をやりかえしたと思えばいい。
そんなことを思い、少しワクワクしてくる。復讐だ復讐だ!……という感じに。
特にあの下着の店のイタズラとか今でも覚えているレベルだ。男子高校生にトラウマを植え付けるなど、よほど強かな女子高生にしかできない。そうして帰路である電車の帰り道の途中のことだ。少し、彼女の様子がおかしい。ふらついている。
周りには何人か人がいるが、同じ学校の生徒はいない。だからもう話しかけてしまおうか。こんなところで会うなんてストーカーみたい、とか軽口を叩かれそうだが、その時は僕が彼女のことをストーカーのように思ったときの話をして相殺しよう。
そんなことを思いながら、階段を下る彼女に近づくため、少し歩を速める。
その時、突然彼女の姿が揺れた。よろめく。落ちる、落ち――――――――
「危ない!」
声が出、手が出た。よろめき、倒れていく彼女の腕をなんとか掴み、留める。背中にヒヤリとするものを感じつつも、ホッと溜め息をつく。だがもう片方の腕から下げられた鞄は肩からずり落ち、床へ落ちるのは止めることができなかった。
ガシャーン。
鞄の中の物が錯乱し、音によって周囲の人々が何事かとこちらを向く。……最近やけに人に注目されることが多いな。彼女の顔を見る。
虚ろ。
覇気がないとか、そういう次元ではない。今にも死にそうな、精気のない表情。
それを見て、僕は……。
「あ……久しぶり」
そんな彼女の唇から、最初に言うことがそれか、と言いたくなるような一言が漏れた。
「……久しぶり」
辺りを見渡す。すでに人の注目はないも同然。辺りにはいろいろなものが落ちている。
「拾うの、手伝ってくれない?」
「ああ、いいよ」
彼女が無理矢理作った微笑み、ばつの悪い苦笑い。それを受け、承諾。
てきぱきと落ちたものを鞄に積め……、え?
彼女の鞄の中に、明らかに学校には必要なさそうなものが見える。それは機械機具。いや……何かしらの医療道具。僕が動きを止め、その動作で鞄の中身を見られていることに気づいた彼女はサッと鞄を閉じた。僕はゆっくりと首を回す。
そして他の錯乱物を見た。教科書以外にも、薬らしきものがいくつかあるのがわかった。
「あっ、あっ」
それを見られまいとするかのように彼女が僕の視線の先にあるものを奪うようにして取り上げる。あまりにもわかりやすく、僕は彼女の今の状態を悟らざる得なかった。
「あ、相川くん……行こう……?」
全てのものを鞄に積めた彼女は、問い掛けるように、確かめるようにそう言った。そして、怯えているかのように見えた。僕はなにも知らないかのように、なにも見ていないかのように、いつもと全く同じように、答える。
「ああ、そうだね」
そうして一緒に電車に乗る。会話はない。沈黙。重く、それゆえに僕が見たものが現実なのだと、深く理解させられた。
電車を降りる。送っていくよ、とか、体調は大丈夫? とか。そういうことを言いたかった。だが言えなかった。何故なら……――昔、最初に会ったときに言われた言葉が蘇る。
――私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ?私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって――
今更ながら、その言葉の真意がわかった。最初聞いたときにはとるに足らない言葉だと聞き流していた。だがさっきの行動を、薬らしきものを隠そうとした行動から読み取れることがある。二つを合わせればある答えにたどり着いてしまう。彼女は自分の死を悟られたがらない。そして周りの人からのなにかが、彼女にそう思わせている(家族や友人あたりだろうか?)。普段通りに接して欲しいという思い。そして僕は彼女の死など全く気にしないとしていた素振り。
それらが全て、繋がっていく。だから彼女は執拗なほどに僕に会いたがった。事実を知らない友人となら『普段通り』過ごすことができただろう。しかし、それでは一方的な秘密を彼女は負うことになる。そしてそれは致命的に大きい、いわば心臓部分のような秘密だ。だから苦しく、自分が死ぬと知った時点でも態度の変わらない誰かを望んだ。
動物園で彼女は言っていた。死が見えている人は『普通に過ごしたい』と願う。
生に退屈し、非日常を願う僕と。死を目視し、日常を願う彼女。僕らは真逆のものを求め、奇跡的に望んだものを手に入れていた、そういうことなのでは?
そして思う。日常を非日常と受け取らざるをえない状態の彼女は、もしかしたらかなり追い詰められていたのでは? 現実迫観念症。自分が死ぬという思想、意識はこの上なく彼女を苦しめるはずだ。彼女が非日常を考えるとき、自分の病気について深く意識してしまう。そして自分が死ぬことを思い出してしまう。そういった意識はリアルなものとなって、なにかしらのダメージを体に与える。この循環が延々と続く。
……寒気が、した。彼女は思った以上に、苦しい状況にあるんじゃないかって。
もうすぐいつもの分岐路だ。ポツポツと会話はした。だが彼女の体調のことが頭に何度もよぎる。そしてそのことから考えられる事柄が勝手に展開し、彼女の内の死の波動を強く感じてしまう。
「あ、猫」
昨日の捨て猫か。中のエサはちゃんと食べただろうか。
彼女は軽く小走りになって、中に入った子猫を覗き込む。
「食べ物が入ってる。誰か親切な人が入れてくれたのかな?」
「……」
「……飼ってみようかな」
そう言う彼女の瞳には再び輝きが宿っていた。
「わざわざそこまでする必要はないんじゃないかな」
「……なんで君はそんなこと言うの?」
彼女が本気で不機嫌そうな声をあげる。
それが気に入らなくて僕はフン、と鼻を鳴らした。
「私、飼ってみるよ」
「好きにしたら?」
「なんで……なんでさ。なんでそんなに君はそんなに冷たいの」
いきなりそんな言葉が飛んできた。
今の彼女は怒っていた。まるで溜め込んでいたものを、もう無理だといっているかのようで。
「心外だね。そんなつもりはないよ。君が好きなようにやればいい、という意味で言っただけだ。他意はない」
「……そう」
ギスギスした雰囲気。
なぜこんな風になってしまったのだろうか。どこで失敗したのだろうか。
彼女はダンボールごと子猫を持ち上げた。
表情は笑顔で、嬉しげに子猫の頭を撫でている。だが、影があった。
僕らは無言のまま進む。
今度こそ会話はなく、とても静かに。
しかし、
ブオオォォォーン。
突然、クラクションが鳴り響く。
目の前には転んだ子供、そしてトラック。
既視感。激しい既視感。なぜだかこの状況を何度か見たことがある気がする。そう、こういった状況になると必ず僕の隣にいた人が――。
父が。
隣の彼女が駆け出す、駆け出す。持っていた、子猫の入ったダンボールを足元に落として。
それによって更なる記憶のフラッシュバックが蘇る、記憶が、こぼれる。
――父はいつも他人を優先した。
「待って!」
――死んでほしく、なかった。
激しい恐怖。わけがわからない感情に胸が支配され、僕は衝動的に手を伸ばした。
破片によって傷ついた方の左手、痛みがあろうとなんとか掴み、引き留める。
腕を捕まれた彼女が振り向く。
――よかった、助けられた、死ななかった。
「なんで」
しかし、彼女の顔は呆然としていた。
なんで?
僕を理解できないというその眼。
次の瞬間、激しい音を立てて、トラックがスリップした。そしてその音で前を向く彼女。
滑るタイヤは耳障りのする音を立て、なんとか子供をかわす。電柱にぶつかり、動かなくなる。
全てが終わった後には、まだ耳に反響するクラクションの音と、一人の子供の鳴き声が残っていた。
「なんで!」
怒鳴り声。本気の怒り、咎める目付き。
僕の掴んだ腕は振り払われた。
――いつも僕が人の腕を振り払ってきたことは、
――こんなにも人を傷つけるのだとわかった。
「なんで止めたの! 子供が、まだ小さい子なのに死んじゃうかもしれなかったんだよ!」
僕は彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。そうじゃないだろう、それを優先するべきじゃないだろう。一番優先しなければならないのは自分自身、自分の命だ。
だが僕はなにも言えなかった。かつてない衝撃。救えたと思ったら浴びせられた冷水。
心が、揺れる。
「なんとか言ってよ! ねえ!」
僕は彼女に責められ続けた。なんと反応すればいいのだ。どう言葉を返せばいいのだ。僕は、どうすればいいのだ。
揺れる感情は内面だけ、外面だけは必死に保ち、無表情。思考が凍りつく。まともじゃない、ごちゃごちゃしたものだけが、頭を支配する。
「ぼ、く、は」
「なんで子供の命を優先してあげられないの!」
その言葉で火がついた。感情が沸騰し、魂の奥底から怒りが沸き上がる。
なんで、なんで、なんで、なんで。
自己犠牲。僕が最も嫌う言葉。なんで平然と自分の命を捨てられる。死ねばそこで終わりだ。目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。
死ねばすべてが無に帰す。自分が死ねば、自分にとっての世界は終わる、何かを救ったとしても、それが認識できないところに意識が追いやられるのなら、すべてすべて、意味のないことなのに。
なのに……、
「なんで……なんで自分の命を大切にしないんだ! そんな子供より、なんで自分の命を優先にしないんだ!」
叫ぶ。怒る。喉が枯れるほどに。
「違う! 私の命より、こんな少ない命より! 絶対に子供の命が、大切に決まってる!」
彼女もさらに強い怒鳴り声。
彼女の考えは許容できない。そうだ、それが自己犠牲などだ。無意味で最悪の選択肢。だって、そうやって――僕の父は死んだ。
「人間は! 自分の命を最優先にする生き物だ! それは、間違ってる!」
やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
「違う! 人間には、感情がある! 私には、感情がある!」
違う。死なないでくれ。お願いだ、置いていかないでくれ。
独りに――しないでくれ。
「ふざけるな! 黙れ!」
そして全ての感情が圧縮され、全力で怒鳴ったその声が、静けさをもたらす。
「う、あ」
たじろぐ彼女。瞳に涙が滲み、後ずさる。
僕の今の顔はどうなっているのだろうか。
憤怒の表情? 鬼の表情? 悪魔の表情?
彼女の顔には怯えが走っていた。
僕が本気で怒鳴ったから、本気で怒ったから。
「……もう、いい」
そう言い、彼女は背中を向けた。
足元の子猫の入ったダンボールを拾い、
「落としちゃってごめんね」と声を掛ける。
僕は、僕は。
「…………」
彼女は去った。
いつのまにか、子供は消えていた。
トラックの運転手らしき人が僕から眼をそらし、電話をかけ始める。
僕は、僕は……。
◇




