いつかは、やがていつかは……
「笑わないね。笑ってくれたほうが私は嬉しいんだけど」
「笑えないし」
彼女が指差している店は大きかった。看板も派手で、食欲をそそられる良い作りをしている。そして最もインパクトのある、オススメされている料理は『驚きの安さ!400円定食!』と書かれている物だ。激しくデジャブを感じる。だがここら辺は一度も来たことのない場所のはずだ。おかしい。
「友達から聞いたんだけど驚きの300円の店の人の兄弟がやってる店なんだって。どう?笑えてこない?」
「全然」
「すごく素だね。もーう、冗談だって! なんかいつもは美味しいもの食べたいとか絶対言わない君にこんな安い店つれてくるわけないじゃないですかー、やーねー」
そう言いつつ、まあまあ、と手首を振る仕草をする彼女は、完全に大阪らへんにいそうなおばさんによく似たなにかだった。
そうしてご機嫌にその店に入っていく。
入っていくのかよ。
「冗談の意味はどこに行ったの?」
「旅に出た」
「じゃあ僕もそういう気分だから旅に出てくるよ、じゃあね」
「いやいやいや、冗談だって! はい、冗談戻ってきたよー! まあ、ここの店ほんとに美味しいから騙されたと思って食べてみなって!」
そんな彼女はとても騒がしい。久しぶりに会ったせいかちょっと引いてしまうほどのハイテンションだ。だがきっと、彼女の言葉は正しい。驚きの三百円の店は、実際かなり美味しかった。そういうわけであるのだからどうせここも美味しい。だからこそ、彼女の言い分がわかってしまうからこそなんとなく憎ましい。
そんな僕らの様子を店の人が微笑みながら見ていたのに気づいた。きっと自分の店が全肯定されて嬉しいのだろう。
丁寧な物腰の店員さんに案内され、席に座る。丁寧な物腰の店員さんは僕らを案内している間ずっとクスクス笑っていた。
なんだかバカにされているような感覚を受ける。これでは失礼な店員か。
「すみませーん。400円定食二つ」
「君は二つも定食を食べるの? すごいね」
「え?」
注文の内容を勝手に決められたのでこんなことを言ってみたが、どうせ僕がもう片方を食べることになるのだろう。始めから僕には自由意思はなかったのだ。不条理を多少感じ、少しの文句を言うが所詮口先。どうせ美味しいのだ。内心ではそこまでの文句はない。
料理が運ばれてきた。良い臭いと煙が立ち上ぼり、彼女も嬉しそうにヨダレを比喩とかではなく、本当に垂らしている。……それにしても量が多い。というか多すぎる。とてもではないが普通の高校生が食べきれる量ではない。
僕はどちらかと言えば少食だ。断言できる。これは絶対に食べきれない。
そこで彼女に僕の定食を分けてあげることにした。彼女はたくさん食べたそうな顔をしているように見えたし、お腹がとても減っていそうな顔をしている。これはあくまで僕の主観的観測ではあるが、強引に店につれてこられたわけだし、強引に押し付けても大丈夫だろう、たぶん。
「え……⁉ ありがとう!」
これは喜んでいる反応に見える(あくまで主観的観測ではあるが)。ならきっと、もっとあげても大丈夫だろう、たぶん。
「え、え。ちょっと量多くない?どうしたのどうしたの」
「大病を患ってる女の子には優しくした方がいいと思ったんだ」
「お、気が利くねー。はい、ピーマンあげる」
こうして見事に切り返され、僕は緑の野菜をこれでもかと送りつけられたのだった。
まあ、ピーマンだけなので量的にも十分食べられる量になった。
そんなこんなで僕はもっさもっさ、と大量の野菜を食い、そんな僕の顔によって引き起こされた、彼女のありがたいバカ笑いに見守られながら食事を終えた。
彼女は完食していた。
……あれだけの量をよく食べられるものだ。結果的に彼女を困らせることは出来ず、厄介な野菜を僕が押し付けられた形になる。すごく損した気分だ。
「ふ、ふわぁーー。お腹いっぱい。店員さぁーん、お水ください」
気が弛みきっているとよくわかる欠伸に口調。膨れ上がった今の状態のお腹なら、攻撃すれば、たぶん、倒せる。
一応、動物園で唐突に水をかけられた意趣返しのつもりだったのだがこれでは完全に、ただのプレゼントだ。
水が入ったグラスを店員さんが持ってくる。気の効いたことに、頼んだ彼女の分だけではなく、僕の分まであった。
だが店員さんの体勢は突然低くなり――
――パリィィン
僕の左手に熱と痛みが走る。
辺りはグラスが割れたことにより、ガラスが錯乱している。
そして状況を理解した。
店員が躓いたことにより、グラスが割れたのだ。
良質なものを使っているようで、ざっくりと僕の左手に三個の破片が刺さっている。
「あ、相川君⁉」
彼女が驚いた顔、痛ましそうな顔、僕を労る顔を見せ、僕の手に触れる。
だが今にも血が流れそうになっている状況から、破片を抜くことを躊躇し、焦る。
「申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございません」
大慌てで、何度も何度も頭を下げる店員。
そんなことより、絆創膏なりなんなりを持ってきてほしいものだ。
「……すみません。止血したいので絆創膏とかが欲しいんですけど」
「も、申し訳ございません、わかりました、今すぐ持って参ります」
そう言ってまた躓きそうになりながら走っていく。
僕は手に刺さった破片をやれやれと見つめ、余計深く傷つけないように慎重に、ゆっくり左手から抜いていった。グラスには当然、水が入っていたのでそれが傷口にかなり沁みる。
少量の血がツー、と流れ、机を汚す。
「ちょっとティッシュ貸して」
「え、あ、うん。…………痛くないの?」
「別に、痛いけど」
彼女の恐慌は少しは収まったようで、オシャレな鞄に手を伸ばし、中から出したものを僕に手渡す。だが、それはハンカチだった。
「……ティッシュ」
「ごめん……ハンカチしかなくて……。じゃなくて! ティッシュあったとしてもハンカチの方がいいって!」
彼女はそう言うが、僕は拒否した。それでは彼女のハンカチを汚してしまう。洗えば血は取れるだろうが、自分のならまだしも、人の血を拭いたハンカチなど使いたくないであろう。だから使い捨てのティッシュが理想だ。
「いいから使ってよ!」
「いや、別にいいって。そこまで大したことじゃないし」
「あんなに破片が刺さってたじゃん!」
僕は断り続けたのだがついに、彼女は強引に僕の手を掴み、血を拭おうとする。
だが僕は傷付いていない右手の方でそれを払い、彼女は傷付いた表情を見せた。
そしてついに、さっきの店員がやって来た。
「お客様、救急箱をお持ちしました。先程は本当に申し訳ございません!」
全力で謝ってくる店員。
それに対し、僕は薄く返事をしながら自分の左手を処置していく。
「相川君……」
傷口は広くはないが、深い。見た目は小さい傷が幾つも出来ているだけだが、深い傷口は再生に結構な時間がかかる。僕は左手の方が力は強いのだが箸を扱うのは右手だ。勉強や授業中に差し支えない左手だっただけ、不幸中の幸いと言えるだろう。
全ての傷口を処置し終えた、包帯でぐるぐる巻きだ。店員さんが「私がやりましょうか?」といってきたが首を振って拒否。その時、彼女は開きかけた口を閉じていた。おそらく彼女も店員と同じことを言おうとしたが、断られるのがわかったのだろう。
「ねぇねぇ……何でそんなに平気なの?」
「平気じゃないよ。結構痛い」
「でも、なんで、全く痛そうな顔してない」
「……? 騒ぎ立てたら迷惑じゃないか。だから我慢してるんだよ」
「我慢ってレベルじゃ……」
わかっている。これは異常なことで、普通じゃない。痛みは痛い。だが我慢できる。単純に精神力の違いだと僕は思っているのだが、よくわからない。
「こんなもんだよ」
僕がそう言うとなぜか、彼女は悲しそうな表情を見せた。何に同情しているのだろうか、むしろこれは利点だと思うのだが。
料理は食べ終えた。傷口の処置は終わった。
会計を済ませようと席を立つ。彼女もやや暗い感情を称えたまま立ち上がった。
机は汚れているが、水だろうが血だろうが、僕らの責任ではないのでほかっておいても大丈夫だろう。
レジでお金を払おうとすると男の人がやって来た。名刺がついており、店長とか書かれていることから、だいたいこれから何が起きるかが推測できる。
「すみませんお客様、店の者が粗相をしたようで……。責任をとって、店の者は今回のお代は自分が払うと言っておりました。なので今回のお代は無料で結構でございます」
その奥のカウンターで先程の店員が少し驚いた表情を見せた。どうやら今しがた責任がこの店員に責任をかぶせることが決定したらしい。それを見て少し不愉快に思った。この店の店長の自分は全く悪くないと言いたげな物言い、勝手に責任のすべてを押し付けた所行。本来ならこうなって当然だとは思う。しかし、そういうことは店員に一言伝えてからするべきことであるし、全く悪びれもない態度は、礼儀知らずだ。
まあ、そんな思想も一呼吸の間に消えた。自分に関係のない人間であるし、気にしたって無駄、意味がない。しかし、隣の彼女はそうは思わなかったようで、
「お金で解決しようとしないでよ! ちゃんと謝りなさいよ!」
そう怒鳴る彼女。無表情で冷静に、マニュアルに当てはめたような謝り方が嫌なのだろう。だがこの店の店長は差し出せるのがそれしかないのだ。むしろただ謝るだけでなく食事代をタダにするだけいい方だと思う。だがまあ、
「とりあえず、次も来るのでその時も食事代をタダにしてください」
「ちょっ⁉」
「わかりました。そうさせていただきます」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「いいんだよ」
わがままをいう子供をあやしつけるような穏やかな声音でそう言っておいた。
そのまま店を出ようとする。が、彼女が僕の手を掴んだ。
「いつっ」
「あ、わ、ごめん」
彼女の手は僕の包帯で巻かれた左手を掴んでしまっていた。前もって痛みが来ることがわかっているならば我慢できるのだが、予想外の痛みには反応してしまう。彼女は僕の漏らした声に失態を悟り、どもりながら謝った。
おかげで彼女の頭は冷え、怒りは収まったようだ。先程の怒る前の暗い表情。再びそれが到来し、静かになる。
彼女らしくない。だから、
「あのさ」
「ん……なに?」
「君の怒りは間違ってないよ。でも僕が面倒事が嫌だから穏便に済ませただけだ。だから、そんな顔する必要、ないんだよ?」
「ん……ん? あ、うん。ありがとう」
彼女が無理矢理、という風に笑って見せる。そしてそんな表情は僕の気分的にも余り良いものではなかった。
普通、いつもの彼女なら元気になるはずであるのに、そうはならなかった。他にも要因があるのだろうか……?
「ねぇねぇ、君さ。さっきは痛みに反応してたけど」
「咄嗟だったからね。耐えようとすれば耐えられるけど完全に予想外だったからああなっただけだよ」
「その……ごめん」
「別にいいよ。大したことじゃないし、痛みは我慢してるだけど痛いものは痛いんだ。だからガラスが突き刺さった時の方がよっぽど痛かったし、それに比べればさっきのなんて一瞬さ」
言い切る、断言する。しかし、こう言っても、まだ彼女はまだ暗いままだ。いったい何故だ……。
わからず、わからなく、わからない。
いつもとは違う彼女に最初は疑問を覚えた。だが、それは次第に疑問を越え、焦りに変わっていく。
やがて、僕の思考が彼女の体調の危惧まで伸び始めたところ、彼女が口を開いた。
「私、知ってる。君の痛みを我慢できる、ってやつは精神的な病気だよ。幼い頃、精神に強いショックをおったためにかかる軽度の失感情症(アレキサイミヤ)。昔、なにか辛いことあったんでしょ?」
そう問い掛けてくる彼女。
昔の思い出、辛い記憶。
……知ったことではない。
「……別に」
「話して、くれないんだね」
「……」
僕は悲劇の主人公を気取るつもりはない。昔は自分のことをかわいそうだなと思った。だが今はそんな昔の自分のことを嫌悪している。だから昔の嫌いな自分など、彼女に伝えるつもりはないし、その必要もない。意味がないことだからだ。
「私、君のこと、何も知らないんだね」
憂鬱な彼女の言葉が曇った空に消えていく。日は隠れ、冷たさを感じる。
今は、秋か。そんなことをぼんやりと思った。そして僕たちの間には自然と、会話はなく、お互いの帰路に向かっていた。近づく別れ道、薄ぼんやりと広がる思考。
どちらかが悪いと言うわけでなく、何もない状態。だが明日はそんなものは消え去っているはずだ。なにもなく、いつもと同じように会話して……時間が過ぎればこれはなかったことになる。きっと、きっと、きっと……。
「ねえ」
「なに?」
「そんなに知りたいの?」
「うん」
「……気が向いたら、話すよ」
「ほ、ほんと?」
彼女の言葉のトーンが高くなる。
そんなに知りたいのだろうか? 聞いてもつまらないし、むしろ嫌な気分になるだろう。正直気が進まない。
「いつか、ね」
でも僕はそう言った。必ず、とは言わない。僕の気が変わったり、お互い、この話について忘れてしまうかもしれない。
そして僕はお互いが忘れてしまうことを願った、が。
話してしまう可能性もある気がした。
この一切の味方なき世界では、話せるとしたら、彼女ぐらいしかいないかもしれないから。




