第18話:ついにこの日。
「ふう……」
その妙齢の女性は、自室に入ると自身を覆っていた衣類を脱ぎ始めた。
つばの広い黒いとんがり帽子には、顔をすっぽり覆い隠すようなヴェールが付いている。
この季節には不似合いな、黒いベルベット調のずっしりと重そうなマントを外しベッドに放り投げると、ボスっと重量感のある音がした。
さらに、襟元を隠す黒いネックカバー、二の腕までの長さのある厚手の黒い手袋を取り外す。
「今日の日差しもなかなかヤバかったわね……。この日焼け止めクリーム、ちょっとベタベタしたわ。レビューにボロクソ書いてから返品してやる」
「それにしても……、クソイケメン……クッソイケメンが……あんなちんちくりんクソ小娘にたくさん……」
「うらやま……ゲフンゲフン、にくい……呪ってやる……」
今年40歳になるヴァルブルガは、ここロレーシア国の女王であり、カリンの継母であり、エメリアの母である。
カリンの本当の母親であるヘレナ女王亡き後、その黒蝶のような美しさからヴィルヘルム王に見初められ
、新王妃に迎えられたのだった。
「はっ……。召使いの誰かが来る前に、お化粧を直しておかなければ。日除けの重装備のおかげで顔も汗でファンデが浮いてドロドロに違いないわ……こんな姿、絶対見られたくない」
ヴァルブルガは手早く三ストを吹きかけ、余計な油分を取り去るシートで油浮きをキャッチし、崩れたファンデーション部分を補修し、仕上げにパウダーをはたいた。
「はあ……、完璧だわ、この美しさ」
そう言うと、ヴァルブルガは手を叩いた。
「鏡! 鏡はいるの!?」
すると、重厚な赤いカーテンがふわりと開き、大きな金の姿見がすすーっとヴァルブルガに近づいてきた。
「はい、私の女王様。鏡は常にお側に控えております」
鏡が応える。
「ふん、私が教えた言葉のとおりね。まあよい」
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?」
ヴァルブルガはいつものとおり、自信に満ちたポーズで鏡の前に立ってみせた。
すると――。
「世界で一番美しいのは誰、とのことですが、あなたは今自分の美しさに自信がある一方で、不安も抱えているようですね。美しさとは人の主観によるものです。他人と比較することで自分の価値を見失うこともあるでしょう。大切なのはあなた自身が自分の美しさに価値を見出し、自分自身を受け入れ、そして愛してあげることです。」
「……誰がAIみたいな答えを出せと言った……」
ヴァルブルガは、部屋の入口に置いてある巨大な花瓶を持ち上げ、今にも鏡に投げつけようとしている。
「あああああなたが求める正しい答えを導き出すには正確な質問が必要です」
慌てて鏡は答えた。
「フン。コマンドが悪かったようね。ならば――」
「鏡よ鏡。お前の主観で世界一美しいのは誰?」
ヴァルブルガは、再度自信に満ちたポーズで鏡の前に立ってみせた。
「はい。それは、現在東南の森を彷徨うカリン姫様です(即答)。」
ヴァルブルガは巨大な花瓶を再び持ち上げ、鏡に投げつけようとしている。
プルプルと小刻みに震えているが、それは花瓶の重さからではないようだった。
コンコン。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
ヴァルブルガはハッと我を取り戻し、鏡にさっと布をかぶせた。
「――どなたかしら?」
「お母様」
その声は、娘のエミリアだった。
「お入りなさい」
おずおずと入ってくるエミリアの顔には、若干の不安が見て取れた。
「お母さま……、お父さまのご体調が優れないようなのです。……わたくし心配だわ」
「まあ! エミリアはなんて優しい、心の美しい子なのでしょう……」
ヴァルブルガはボソッと続ける。
「――なのにあのクソ鏡ったら」
小さく舌打ちをし、布で覆われている鏡をちらりと見遣った。
「え?」
「なんでもないわ。王には私がついていますから。あなたは西の国のレオン王子との婚礼のために準備を進めていなさい」
「西の国と、この広大な南の国が手を組めば……どの国にも見劣りすることのない最強の国となるわ」
エミリアは母の野望に満ちた顔を見て誇らしい気持ちにはなったが、感じたことのない不安も本能の中で芽生え始めていた。少し怖くも感じていた。
「そ……そうですわね! カリンお姉さまももうお戻りになられないでしょうし、わたくしが強大な西の国の王子レオンさまと結婚をすれば、南の国も安泰ですもの……」
「その心意気頼もしいわ、エミリア」
そう言うと、ヴァルブルガは少し遠い目をし、誰に言うわけでもなく呟いた。
「そうよ。そしてこの呪いを終わりにしなければならないわ」
「――お母様……?」
冷たい夜気が肌を撫でる頃、森には静かな闇が訪れていた。
「――というわけで、男の人の身体から女の人の身体の中にあるベッドに種が運ばれて、そこで種が大きくなって赤ちゃんになるんだ。この薄い本は、その種の運び方が絵で描かれているんだ」
ラプンツェルの『こどものつくりかた』は本当にわかりやすく、わたしは世界の仕組みの全てを、この短時間で理解することができた。
わたしが今まで見ていた世界は、この瞬間に色を変えた。
わたしが初めてルカに会った日。
あの日に感じたあの感覚がなんだったのか、全てを理解した。
わたしは、わたしの身体の全てでルカを愛していて、そして身体の全てが求めていたのだ。
ラプンツェルに触れられても、あの胸の高揚感は全くと言っていいほど覚えることはなかった。
そこに『愛』がなかったからなのだ。
わたしの身体が熱くなった。
ルカに触れてほしくて、身体のあちこちがむずむずもぞもぞと、こそばゆい感覚にもなってきた。
「ルカ……」
熱気や湿気を帯びた吐息から、ルカの名前も零れ出た。
「カリンママ」
ラプンツェルに名前を呼ばれ、わたしはハッと我に返った。
「カリンママ、ハインリヒさんはぼくが見てるから。だからカリンママ、弟か妹、待ってるよ!」
「ちょっと待っててね、ルカパパ連れてくるから!」
そう言うとラプンツェルはウインクをし、ルカとハインリヒがいる森の奥の方向へ消えていった。
ルカが……来る。
そう思っただけで、頬は火を吹きそうなほどに熱くなり、心臓は口から飛び出そうなほどに大きく早く鼓動した。
今夜、わたしとルカは、あの儀式を……。
あの薄い本に描かれていた、生まれたままの姿で行う儀式を……。
それにより、わたしたちは本当の意味での『同衾』を達成し、本当の夫婦となるのだ。
ルカにかけられた呪いも、これで解けるのかもしれない。
それは、ラプンツェルが塔でわたしに強引なまでに成し遂げようとしてきた、夢にまで見たという究極の絶頂の快楽により達成されるという。
愛するルカと行ったら、わたしは一体どうなってしまうんだろう。
「カリンよ」
ぴゃっ!
背後からルカに声をかけられ、驚いたわたしは変な声が出てしまった。
身体は熱いのに、背中からは冷たいような変な汗が出ている。
なぜだかわからない緊張に、振り向くことができない。
「カリン。ラプンツェルから聞いたぞ。ついに……」
「ついに全てを知ってしまったのだな?」
わたしは小さく頷いた。
「そうか……。とうとうこの日が……、10年待ち望んでいた、カリンと結ばれる日が……ううう」
背中越しに、ルカの涙声が聞こえた。
ルカはカエルの姿で10年耐えてきたんだ、それはそれはこの日を待ち望んでいたことだろう。
胸がキュンとなった。わたしの心は少し複雑だった。
「そ、それは……。早く人間に戻りたかった、ということ?」
わたしはちょっとだけ意地悪く言ってみた。
「なにを言っているのだ、カリンよ」
ルカはわたしの両肩にそっと手をかけた。
ルカに触れられたところが、熱く、甘く痺れるようで、頭がくらくらしてきた。
「ちがうの?」
ルカは応える。
「カリンよ。 愛しいお前をこの手で抱ける日を、カエルの姿で触れることもできずにこの10年、それだけを思って耐え続けたのだ」
そう言うと、ルカはわたしを優しく草のベッドの上に押し倒した。




