84.最後の夜5
善次郎が構える。
構える?
いや、本当はそんなたいそうな格好ではない。
ただ、鉄の棒を持ち上げただけだ。
ひどい。
恋歌でさえそう思う。
素人にもわかる。
善次郎が刀の扱いに関してはほとんど素人なのだと。
これでも生前は侍だったのだろうか。
腰が引けていて格好が悪い。
中途半端に膝が曲がり、中途半端に背中が折れている。
格好悪い。
これなら、刀での斬り合いである限り、高村伸輔を心配する必要はなさそうだ。恋歌は少しだけ安堵した。
高村晋輔は。
彼は、善次郎が太刀を構えるのを、しかし、困惑した表情で見ていた。
「困ったな。お前が刀を握るとは」
そう言いながら、晋輔は脇差の鯉口を切る。
少し待て。
そう言って、彼は脇差を引き抜いた。
まさか、それで戦うつもり?
驚いた恋歌だったが、もちろん、高村晋輔もそんなつもりはなかったのだろう。彼は、腰に挿した太刀に、抜いた脇差の刃を当てた。
そうして刃を滑らせると、彼は、太刀と鞘を一緒に巻いていた布の縛り目を切った。
「予定が狂った。お前が勝負に応じるとは思わなかったのだ」
「勝負に拘るお前に応じてやるんだ。感謝しろよ」
「……感謝しよう。お前を好きにはなれぬことに変わりはないが、この点だけは感謝しておこう」
そう言いながらも感謝の感情を込めることなく、高村晋輔は太刀を抜く。
太刀使いとしての腕だけは立ちそうなあの若侍が、こんなへっぴり腰にまけるわけもないだろう。
こんな太刀を持つのが精一杯のような男に。
高村晋輔の凛とした構えに比べて、目の前の男のなんと無様なことか。
もっとも。
むしろ、あんな姿勢であの鉄の塊を持っていられることの方が凄いかもしれない。
そう考え、くすりと笑いそうになった恋歌は、しかし笑えなかった。
そうだ。
善次郎の姿勢は、こんなにも無様だ。
こんなにも不格好で。
こんなにも不自然で。
なのに。
なのに何故、この男はこの姿勢で太刀を持っていられるんだ。
切れ味云々以前に、太刀は鉄の棒である。
もちろん、重い。
それを振り回すには全身の力が求められる。そのための理にかなった姿が「構え」なのだ。
恋歌が高村晋輔の構えを「きれい」だと思ったのは、その姿勢が素人目にも理にかない、無駄な力が入っていない、ということだ。必要な力は、肉体の必要な部位に蓄えられ、抜くべき力は抜かれていて、体のすべてが太刀を振るうための体勢に入っていたのだ。
それに対して、この善次郎の姿勢には無駄な力が入りすぎている。余計な部分に力が入るために、必要な場所には力を入れにくい。
重心を後ろに傾けているため、前に出した右足はつま先だけを地に着け、踵は軽く浮かせている。だが、その分体重がかかるはずの左足にもまた踵が浮いている。
まるで、どちらの足にも体重がかかっていないかのようだ。
まるで、善次郎の体は地に触れているだけで、実際には宙にいているかのようだった。
何だ、この姿勢は。
太刀を握る手は、胸の前に引き寄せられている。
牽制するために切っ先を相手に向けているでもなく、叩き切るために上段に構えるでももない。
胸の前で柄を握る手首は、太刀の重みに負けたように曲がっている。
太刀は軽いものではない。重みに負けることもあるだろう。
だが。
重みに負けているのなら、今度は、その角度で太刀を持ち続けられているはずがない。
重みに腕が負けることはあるかもしれない。太刀を持つ手が、疲れて下がるということはあるだろう。
だが、手首が曲がるときは、太刀を落とすときだ。
ただ、持っている、というだけの形。
だが、持ち続けられないはずの形。
相手は「人間」ではない。
そうだ。
そもそも、刀による勝負に応じたところで、善次郎に不利益はひとつもないのだ。
相手は刀による斬撃などものともしない肉体を有している。
刀による斬りあいとなれば、圧倒的に有利なのは善次郎の側だ。
まして、こんな奇怪な構え。
高村晋輔もその異常さは理解しているのだろう。善次郎に対しての警戒は怠らず善次郎に対峙している。
「来いよ」
善次郎が嗤う。
「正々堂々と勝負してやる」
「人間辞めておいて、何が正々堂々よ」
恋歌は低く悪態を吐いた。
聞こえたのだろう。善次郎は楽しそうに笑った。
そして、不恰好な構えのまま、高村晋輔から渡された太刀を振りかぶった。
「では、行くぞ?」
高村晋輔も動き出す。
「わしも色々と考えたのだ」
寸前、彼の低い呟きが恋歌の耳に届いた。
わしも、前と同じではないぞ、と。




