83.最後の夜 4
……尋常に勝負。
不死の鬼を相手に。
相も変わらぬ高村晋輔の生真面目さ。
今さら恋歌も驚きはしないが、心の中でこっそりため息はつく。
嫌いではないが。
決して嫌いではないが。
善次郎は嗤っている。
「尋常に勝負、はいいが」
と善次郎は皮肉な笑みを浮かべながら、高村晋輔に問いかける。
「刀を手にした侍同士の戦いで、火を振り回すのは、無粋だとは思わないか?」
「……よく言うわ」
もちろん、善次郎のそれは建前の美学に過ぎないだろう。
本音は、吸血鬼の弱点であるから炎を武器として扱うのはやめて欲しいだけなのだ、と恋歌は考える。
炎を握りつぶしたという善次郎らしいが、逆に言えば、それはやはり鬼にとってはやはり炎は恐ろしいものなのだという証左なのだ、とも言える。
それにしたって、そんな通るはずもない言い分主張するだけみっともない、と恋歌は嘲笑った。
もちろん、本当は心から笑う余裕なんてない。
美雪が帰ってきていない。
恋歌たちにとって最大の「武器」は、晋輔の太刀でもなければ、消されてしまうかもしれない炎でもない。もっとも頼りにできるのは、キリシタンである美雪の信仰なのだ。
おそらくオラショ(祈祷)をいくら唱えたところで吸血鬼を滅ぼすことはできないのだろう。それでも昨夜、美雪の唱えたオラショは、善次郎苦痛を与え、その動きを奪うことはできたのだ。
そうして動きを止めておいて炎で焼き払う、というのが、鬼への対処法としては一番理想的な形なのだ。
一方。
「灯りがなければわしには何も見えぬからな。公平を期すためには蝋燭くらいは残してもらわぬと」
そう返した晋輔だったが、これももちろん建前の理由に過ぎない。
蝋燭の役目は単なる灯りとりにとどまらない。
実際、この部屋には五本からの燭台が立てられていた。もちろん、恋歌が高村晋輔の指示を受け、綾羽に用意させたものだ。
それはもちろん、炎を武器にするためのものだった。
「ならばいっそ、外に出て月明かりの下で戦うというのはどうだ。せっかく今宵は、美しい月が輝いているのだ」
善次郎はどの程度本気で言っているのだろう。
そんな条件、こちらが飲むはずもないのに。
だから、恋歌は笑顔で答えた。
「あー、それも素敵ねー。でも、どうせなら竹矢来でも組んで、皆の前で戦って見せたらいいんじゃないかなー。真昼間にさー」
白々しくも能天気を装った恋歌の揶揄に、善次郎は笑みを深く刻む。
この男はずっと笑っている。
だからといって、いつも同じ顔をしているわけではない。
今も、善次郎は笑った。
苛立ちと煩わしさと憎しみのこもった笑みを浮かべた。
「お前を躾けるのは本当に苦労しそうだ」
あんたじゃ無理よ。
そう言いかけた恋歌は、しかし、善次郎の笑みに言葉を失った。
それはほとんど「笑顔」という言葉の定義を変えるほど悪意のこもった表情だった。
その冷たさに、恋歌の咽喉まで出掛かっていた沢山の憎まれ口が凍りついた。
恋歌の嘲笑が引き攣ったのを見て、愉快そうに善次郎が問いかける。
「どうした。怯えているのか」
もちろん、恋歌は怯えていた。
鋭い目で善次郎を睨んでみようと、恋歌が怯えていることは間違いなかった。
その恋歌に、善次郎はさらに追い打ちをかける。
「あの小娘はどうした?」
「……」
「あいつだ。あの……美雪とかいう小娘だよ。俺に傷をつけた生意気で小賢しい女。今どうしている」
もちろん、それは美雪のことだ。
「……」
恋歌は答えなかった。
だが、少なくとも善次郎が美雪の行方を知らない、ということは安心できる材料だ、と自分を納得させる。
けれど、善次郎はその安堵さえ恋歌に許すつもりはなかった。
「あいつは来ないぞ」
と、善次郎は言ったのだ。
「あの小娘はここには来ない。来られない」
愉快そうに笑う。
「可哀相に。あの小娘は来られないのさ」
哀れむように嗤う。
もちろん、哀れみは偽りだ。
偽ることさえ蔑ろにして、善次郎は笑う。
それはもちろん、この男が美雪の行方を知っていることを意味した。最初の問いかけはただ恋歌を翻弄するための言葉にすぎなかったのだ。
美雪。
彼女は鬼の手に落ちたのだ。
冬の雨のように冷たく落ちてきた絶望に、恋歌は崩れ落ちそうになる。
足に力が入らない。
立つことに力を使っているなんて、健康な恋歌はほとんど意識したことがなかった。
立とう、と思えば、立つことはできる。そのままでいよう、と思えば、意識せずに立ち続けている。そういうものだと思っていた。
だが、立つ、という作業のために、立ち続ける、という状態のために、確かに力は必要なのだ。足に力が入らなければ、立っていることさえ出来なくなる。
「あの子に何をしたの……」
声が震える。
立っていられずに、恋歌は崩れ落ちる。
高村晋輔は恋歌に近づきながらも、彼女の体を支えようとはしなかった。だから恋歌は崩れ落ちる。膝をつき、尻を畳に着け、両手で辛うじて上体を支える。
晋輔は、彼女を起こそうとはしない。
ただ、善次郎に対して彼女の前に立ちふさがり、崩れる恋歌を庇おうとする。
その背を見上げ、その背の向こうに善次郎を見て、恋歌は震える声を絞り出した。
「あの子に何をしたの」
「別に」
冷たい笑みを浮かべて、そっけなく善次郎は答える。
「俺は何もしていない。だが、まあ、あの女には……何かされているだろ。まだ何もされていなくても、これからされるだろうよ」
「何かって……」
「さあな」
あの女、というのが鬼のことなのだろうか。
吸血鬼にとって弱点たり得たキリシタン。
鬼が、美雪をどう扱うか。
想像することさえ恐ろしい。
「心配しないでいい」
善次郎が言う。
この男が恋歌を安心させようとすることなどありえない。それがわかっていて、恋歌はその言葉に希望を見出してしまう。
こいつが美雪のために何かしてくれるだなんてありえない。それでも恋歌は善次郎に縋ってしまいそうになる。
善次郎は笑みを浮かべ、恋歌を見る。
座り込んで顔を上げ、懇願しそうな表情で自分を見上げる恋歌を見おろし。
そして突き落す。
「どうせ、次に会うときは、あいつも鬼だ」
恋歌は善次郎の顔を見上げていた。
そいつが言っていることは言葉として理解できた。
だが、その「意味」を理解するには時間がかかった。
だから、恋歌は呆けていたと思う。
それでも。
理解する前に。納得する前に。絶望する前に。激怒する前に。
恋歌の顔が勝手に歪んだ。
「あああ……」
初めは意味のない呻き声だった。
ただ、唇が開き、声が溢れだした。
理解はその後から訪れた。
美雪は彼女の友達だった。郭で一番の。楓の下でずっと一緒に過ごしてきた。
彼女の優しさも、真面目さも、意外なまでの強情さも、ずっと見てきたのだ。
その彼女は、今春風のような変身を遂げようとしている。その光景が恋歌の想像力を総動員して脳裏に展開されてゆく。
恋歌は俯いた。その顔で咢が落ち、唇が引き伸ばされて広がる。
それは泣き顔であり、憤怒の表情だった。
「うわああああああああ」
恋歌は両手を伸ばし、善次郎に伸ばす。立ち上がろうとするよりも、速く前進しようと足が回転する。殺意は恋歌の全身の力を引き出した。
「こっの野郎っ」
「よせっ」
晋輔が恋歌の手を掴んだ。
恋歌は苛立ちとともにその手を振り払おうとした。
善次郎に近づくことを止めてくれたことを感謝する、なんてできなかった。理屈よりも何よりも、憎悪が恋歌を突き動かしていた。
だから、恋歌は高村晋輔の手を振り払おうとして。
それでも、できなかった。
高村晋輔もまた、強い力で恋歌の手を掴んでいたのだ。
だから、恋歌は怒鳴った。
「放せっ」
怒りの方向はもちろん善次郎に向いている。それでも、善次郎に掴みかかろうとする自分を止めようとする晋輔に、恋歌はそのままの怒りをぶつけた。
「こいつ、殺してやらないと……っ」
「わかってるからっ」
高村晋輔は怒鳴り返す。彼は、そのまま恋歌の手を強く引いてきた。
男の渾身の力には抗えず、恋歌は晋輔に引き寄せられる。
そして、高村晋輔は、恋歌を抱きしめた。
郭での時間が高村晋輔の行動を男女の繋がりとして解釈しようとする。もちろん、今の恋歌にそんな気分は残っていなかった。
「放してっ。こいつは……」
「それはわしがやるっ」
叫びかけた恋歌の頭を抱きこみながら、高村晋輔は恋歌の声を掻き消すように怒鳴った。
「……っ」
「……こいつは、わしが殺すからっ。なんとしても、わしが殺すからっ」
その声に込められた激情と優しさが、恋歌の激昂を引かせた。
怒りはある。
高村晋輔の抱擁くらいで、その激しい憎悪は消えない。
それでも、自分を抱くこの男が恋歌の怒りを理解し、共有し、受け止めようとしてくれている。その理解は恋歌の煮えたぎって圧縮された感情から、圧力を抜き、恋歌の体から強張った力を引かせた。
「……本当に?」
「本当だ。最初から言っているだろう。わしはこいつを殺す」
その約束の履行にどれほどの困難があるのか、恋歌は知っている。
不死の鬼と対峙することが、どれほど危険なことか、恋歌は見てきた。
だからこそ、恋歌も美雪も高村晋輔も必死になってきたのだ。
「殺す」だなんて。
約束なんて、できるはずがない。
だが、くそまじめなこの若侍が約束している。
最初から彼はそのためにここにいるのだ。
その彼が、鬼を殺す方法を知るためとはいえ、単身、出島にまで乗り込んできてくれたのだ。
高村晋輔の約束。
それは信じる価値があった。
恋歌は頷き、力を抜いて、高村晋輔に言った。
「うん。信じる」
「別に、あの小娘を捕らえたのは俺じゃないんだが」
善次郎は、恋歌と高村晋輔のやりとりをにやけながら見ていた。
損な役回りを押し付けられたものだ。
そう言って笑う善次郎は、さきほど高村晋輔に放り投げられた刀を拾い上げた。
「じゃあ、はじめようか」
にやりと笑い、善次郎は、意外なことに、刀を構えた。




