82.最後の夜 3
「ひ……」
綾羽は見上げている。
自分より頭ひとつ分高い位置にある笑みを浮かべた顔。
いやらしい笑みを浮かべた死者の顔。
人の血を吸い、人を屠ることを楽しむ鬼の顔を。
綾羽は硬直していた。
それこそ蛇に睨まれた蛙のように。
それは善次郎には僥倖だったのだろう。
意外なほどに動きを止めた綾羽を見て唇を歪めた善次郎は、無造作にその手を伸ばした。
綾羽は怯えている。
それは恋歌にもわかる。
綾羽は逃げたがっている。
それは当然だ。
なのに綾羽の足は竦み、一歩も動けずにいる。
恋歌はそれを理解し、だが、それを納得するわけにはいかなかった。
「逃げなさい、綾羽っ」
恋歌は叫び、姉女郎の強い叫び声に綾羽は殴られたように震えた。その震えで自分の体を取り戻したように、綾羽の足は奇跡のように動き出した。
「はいっ」
叫び声と同時に踵を返す。左足を軸に体が回る。善次郎に背を向け、恋歌たちの方へと足を向ける。
だが、善次郎の手からは逃げられない。
彼はすでに動き始めていたからだ。
踵を返した綾羽の最初の一瞬は、その場で体を回すことに消費された。
一瞬遅れた綾羽の肩。
そこに伸ばされた善次郎の手には、容赦も躊躇いもなかった。
だから、この鬼の手は綾羽に追いつき、そして。
空を掴んだ。
「きゃっ……」
綾羽は転倒したのだ。
たった一歩踏み出しただけで、彼女は体勢を崩した。踏み出した右足が滑るように宙に浮く。そして彼女は仰向けに倒れていった。
え?
あまりに調子よく倒れる綾羽。善次郎の手から逃れるために、すべてを見透かしていたように倒れてゆく。
恋歌は目を見張った。
仰向けに倒れる綾羽の足の下には、徳利があった。転がるその上で綾羽の体は、瞬間空中で泳いだ。綾羽は徳利を踏んで体勢を崩したのだ。
なんで。
その徳利はつい今しがた、恋歌が高村晋輔に酒を注ぎ、膳の上に戻したばかりのものだった。
振り返った恋歌は、晋輔の右手が何かを放り投げた惰性で揺れるのを見た。
彼はそれを綾羽の足元に投げ、綾羽に踏ませて、彼女を転倒させたのだ。
器用な奴!
恋歌の驚きに構うことなく、晋輔は更に動く。
太刀を掴み、立ち上がりざま、善次郎のほうへと足を踏み出す。
その足が僅か一歩を刻む間に、高村晋輔は刀を鞘から引き抜いていた。もちろん、脇差だ。大の方は、布で縛って抜けなくしてしまったのだ。
彼は、鋭く踏み込みと同時にその切っ先を更に善次郎の顔に向けて突き出した。
善次郎の頭蓋は太刀では割れなかった。
それを恋歌は見ていた。
もちろん、高村晋輔も覚えているのだろう。
善次郎が怯えるはずもない。
それでも、晋輔の手は躊躇なく剣の切っ先を突き出した。
善次郎は高村晋輔の突きでは傷つかない。
だが。
それでも善次郎は後退した。
高村晋輔の切っ先は、正確に善次郎の目を狙っていた。
自分の眼球へと突き出されてくる鋭利な先端を、善次郎の生前の本能が忌避した。死を拒絶する肉体を持つ善次郎が、本能的な恐怖に一歩退いたのだ。
高村晋輔は右手で更に善次郎の目を突こうと剣を突き出しながら、左手で器用に綾羽の手を掴んで強引に引き起こした。そして、仰け反る善次郎の脇に綾羽の体を放り込む。
「逃げろ」
高村晋輔の一言に、綾羽は見事なくらい従順に行動した。
状況を顧みることもなく。自分を転倒させた若侍を睨むことさえなく。
ただ、恐ろしい鬼の脇を掠めて一瞬もためらわずに走り抜けた。
廊下を駆け、数歩で階段にたどり着くと、階段を転げ落ちるように駆け下りた。
彼女がようやく悲鳴をあげたのは、その後だった。
恋歌はつい先ほど、階下が妙に静かだと感じていた。
高村晋輔と自分の初夜に、郭全体が耳を澄ませているのではないか、と。
恋歌は間違えていた。
先ほどの郭は、静かではなかった。
「きゃああああああああああ」
綾羽の悲鳴が響き渡ったその直後、今度こそ桜泉楼は水を打ったように静まり返った。桜泉楼だけではなく丸山全体が息を潜めたようだ、と恋歌には思えた。
そして。
次の瞬間、階下では大勢の悲鳴が上がった。
再び現れた鬼に怯えた客や遊女たちが、一斉に逃げ出したのだ。
少しの騒ぎの後。
再び郭は静かになった。逃げられる者は皆逃げたのだろう。
今度こそ、その静けさは破られなかった。
静まり返った桜泉楼で、善次郎がげらげらと笑っていた。
自分を原因として大勢が慌てふためく様が、きっとこの男には愉快なのだろう。
ひとしきり一人で笑い続け、ようやく収まるとその笑顔を高村晋輔に向けた。
「本当にお前は……」
善次郎は高村晋輔に向き直る。
「小器用で小賢しい。俺はお前が本当に気に食わん」
冷たくもあり、傲慢でもある善次郎の笑みを、晋輔は例によって生真面目な表情で受け止める。
「その点では気が合うのだな。わしもお前が心底嫌いだ」
笑みはない。傲岸な口調もない。
実際、皮肉でも挑発でも憎まれ口でもないのだろう。彼にとっては単なる事実を口にしているだけなのだ。
そのことに恋歌のほうが可笑しさを感じた。
「良かったね、善次郎。晋輔と嫌い同士で気が合って。あ、ちなみに、あたしもあんたのこと嫌いだから」
「そうか。俺はお前が好きだぞ」
善次郎は笑う。「好きだ」という女にはっきりと嫌われても、今さら傷つくような可愛げを、この男は持ち合わせていない。
この鬼は、気に入った女の好意を求めない。
彼の望む行為と感情を女に叩きつける。それだけだ。相手の悲鳴も拒絶も、彼を楽しませる余興でしかない。
「お前の首に縄をつけて散歩させるのが楽しみだ」
卑しい笑みを浮かべて自分を嘗め回す視線に、恋歌は黙って耐える。
「で?」
善次郎は思い出したように高村晋輔に問いかけた。
「まだ、俺を殺す気なのか?」
「もちろんだ」
晋輔は真面目に答え、設けられた膳の傍らに置いてきた刀を取りに戻り、そこから善次郎に向けて放り投げた。
「いざ、尋常に勝負、だ」




