85. 最後の夜6
高村晋輔が飛び出す。
だが、意外なことに、それに先んじて善次郎が動いた。
異様な姿に変容した春風は、瞬発力で高村晋輔に勝っていた。
あるいは善次郎にも同等かそれ以上の身体能力はあるのかもしれない。事実、善次郎の突進力は猪のように強引で、力強く、速かった。
それでも、善次郎の足運びは全力ではないのが、恋歌にさえ見て取れた。
突進。
そして上段からの振り下ろし。
さすがは鬼、なのだろう。
風が唸るような振り下ろしだった。
それを高村晋輔はかわす。善次郎の懐に飛び込む。
だが、善次郎は刀をいきなり左へと旋回させる。
晋輔は退く。
それに対して善次郎は再び刀を振り上げ、晋輔に向かって足を踏み出し……刀を振り下ろす。
晋輔はかわす。
昨夜、恋歌を拉致した連中に対した時と同じ作業だ。
だが、善次郎の剣はそこで止まらない。
いや、それもまた昨夜の「二番目の戦い」と同じともいえる。
長巻を取り回した男の剣も、不意に軌道を変えて、高村晋輔を狙っていた。
だが、あの男と違うのは善次郎は剣を振るうための体勢をさえとっていないということだ。
昨夜の長巻使いは、刀を振り回すため、自分の体を固定するために踏ん張った。
だが、善次郎の膂力は下半身の安定を必要としていないのだ。
高村晋輔はかわす。
全力で振り下ろした善次郎は、自らの突進を止めることも出来ずに体を流してしまう。ただ、手を振り回すだけだ。
その手には何も持っていないかのように。
だが、もちろん、その手には太刀が握られていて、あるべき風斬り音を正しく響かせる。
高村晋輔は再びそれをかわす。
そのとき善次郎が体を回旋させた。
猪なら出来ない角度での方向転換を、人体には負いきれないはずの負担を足に強いて、強引に向きを変える。
そうして振り回された太刀を、高村晋輔は今度はかわせない。
今度はかわさない。
高村晋輔は善次郎の剣に対して、自らの太刀を旋回させていた。
刃と刃が……触れ合う。
カアン。
その剣戟の音は独特だった。
軽く。
だが、胸にズシリと響く。
晋輔の剣は、善次郎の刃を止められない。
だが、善次郎の剣もまた、高村晋輔を捉えることはできていない。
晋輔は善次郎の太刀を「弾いた」のだ。
高村晋輔は一歩下がる。
下がりながら太刀を振るう。
全力で。
その太刀は、善次郎の剣を受け止めない。
晋輔は下がり。
あるいは不意に前進する。
そして、善次郎の剣を常に内側から弾いてゆく。
下方へ。あるいは上方へ。
善次郎は鬼だった。
その力はもはや人の比肩しうるものではないはずだ。
実際、鬼になったばかりの善次郎に、晋輔は苦もなく叩き伏せられている。美雪のオラショ(祈祷)がなければ、恋歌と晋輔の命はあの夜に終わっていただろう。
その善次郎が太刀を振るうのだ。
鬼の膂力を人間の力が受け止められるはずはなかった。
それでも。
それでも、それが「力」である以上、高村晋輔の技はそれを「最小の」力で弾いたのだ。
善次郎の剣は制止しない。そんな力を、高村晋輔は持っていない。
それでも、善次郎の太刀筋が僅かにそれる。その剣戟は、あるべき軌跡を描けずに変更される。
それは一昨日の高村晋輔とは異なる動きだった。
鬼の膂力は、無様な格好で剣を振るうことを可能にする。
善次郎の持つ剣が、ありえない角度で晋輔を狙う。
高村晋輔はその軌道を予測しているかのように太刀を全力で振るっている。
予測している。
いや、「読んでいる」のだ。
無様な格好の善次郎。持てないはずの姿勢で持つ剣。
だからこそ、その軌道は異様で、不自然だ。
だが、それでも高村晋輔は驚かない。
細かく歩みを刻み、その立ち位置を常にずらし、圧倒的な膂力で打ち込まれる剣戟を「最小の全力」で弾く。
カアン。
カアン。
なるほど、確かにこの動きは昨夜と同じではない。
確かに、高村晋輔も色々と考えたらしい。
だが、初めて晋輔を見たときも、恋歌は感じた。
……きれい。
善次郎との初夜を邪魔されたとき、善次郎に対し太刀を構えたこの若侍に、恋歌は思わず見惚れたのだ。
高村晋輔は善次郎を圧倒している。
もちろん、ただ太刀筋を弾くだけなら、「防げている」にすぎない。
だが、実際に晋輔は善次郎を一歩も二歩も退かせていた。
それは、彼が春風に対してしたことを更に器用に行っているからだ。
「ほお。やるじゃないか」
善次郎も意外そうに言う。
「負けてばかりだと、弱い、と思われるらしいからな」
苦笑いを浮かべて、高村晋輔は答える。
「女にいいところを見せたいか」
「そう……かもしれんっ」
短い二つの言葉の間に、晋輔は動きを止め、再開する。
その動きに、恋歌は息を呑み、そして、ため息をついた。
高村晋輔の行動は。
その行動は。
ふざけていた。
恋歌はそう感じる。
実際、真面目に考えて、そんなことができるはずがない。
だが、高村晋輔は「それ」をなしていた。
ふざけている、と恋歌が思うほどに軽々と「それ」をこなしていた。
太刀の旋回範囲に蝋燭を捉えた晋輔は、春風を滅ぼしたときにしたように、太刀の切っ先に蝋燭の先端を乗せ、善次郎を薙ぐ。
それを予期していた善次郎はすばやく後退して、太刀筋をかわす。春風ほど簡単に炎に触れてはくれないのだ。
太刀を無駄振りさせた晋輔は、今度は身体ごと旋回させた太刀の切っ先を、蝋燭の先で一瞬止める。
そして再び、加速した切っ先にはもう炎は乗っていなかった。借りたものを返すように、蝋燭の先端を元に戻したのだ。
「器用な真似を」
善次郎の笑みが苦笑に変わる。
「だが」
と呟くと同時に身を引きながら、その手を炎に向けて伸ばした。
小百合から聞いていた。
高村晋輔から聞いていた。
だが、その有様を見せられて、恋歌は言葉を失う。
善次郎の手が握り締められると、離れた蝋燭の炎が握りつぶされるように消えたのだ。
そして。
そして、その次の瞬間、その蝋燭に炎がよみがえった。
恋歌は驚かない。
その事象そのものは驚くに値しない。
消えた蝋燭の芯に、火の点いた別の蝋燭を近づけさせただけだ。
驚くべきは、高村晋輔の小器用さだろう。太刀の切っ先に乗せた蝋燭で善次郎を牽制しながら、旋回の終点を消えた蝋燭の先端に設ける。
二つの芯を接触させ、消された炎を蘇らせるその瞬間だけ旋回の速度を落とす。
直後には静止の瞬間が見間違いであったかのように
踏み込みながら、その炎を立ちの上に乗せたまま旋回させ、善次郎を退かせる。
そして蝋燭があった元の燭台の上で再び減速して、蝋燭を元に戻すのだ。
「なんなんだお前は」
呆れたように言いながら善次郎が太刀をかわす。
その困ったような笑みだけは、恋歌も共感することが出来た。
「なんなのよあんたは」
器用、というより、曲芸のようだった。
これなら、きっちり客を集めて金を取れる。それも安くない金を。
高村晋輔を不器用だと思っていた恋歌は、先ほどの会話を訂正しよう、と思った。
意外に、彼は器用だった。ここの雨戸はきちんと直されているのかもしれない。
とはいえ、高村晋輔の器用さにおいて、日常生活に求められる器用さは例外とされているなら話は別だ。そしてその可能性を恋歌はまったく否定できない。
そんな戦いとは違う方向へ意識を飛ばしていた恋歌の前で、高村晋輔は目まぐるしく回る。
善次郎の斬撃を余裕でかわし、燭台から燭台へと剣を旋回させる。
善次郎が燭台の炎を消せば、他の蝋燭を切っ先に乗せて善次郎を牽制しつつ火をつけて回る。
実に器用で。
きれいで。
でも、ふざけた戦いだった。
すごい、と思う。
こんなマネが出来るものがどれだけいるだろう。
すごい。
息を呑んで、恋歌は動きを止めていた。
そして、とっくに息を呑み続けていられないほどの時間、晋輔は「曲芸」を披露していた。
だが、善次郎もただ翻弄され続けてくれるはずもない。
均衡が崩れたきっかけは恋歌にもわかった。
高村晋輔の振り回す蝋燭の炎に牽制されながら、それでも一本の燭台に近づいた彼は炎を消すことに拘らず、燭台そのものを蹴り飛ばしたのだ。




