86.最後の夜 7
火を消すのではなく、燭台を蹴り倒す。
考えてみれば。
と言うよりは、考えるまでもなく、善次郎としては最初から選ぶべき行動であるはずだった、と恋歌は思う。
火を消すよりも、最初から燭台を倒してしまえば、火を点けなおすことはできない。
そう考えると、善次郎は体を動かして燭台を倒すより、遠くからこぶしを握り締める「だけ」の手抜きをしていたのだとも言える。
もちろん、遠くから火を消すことがそんなに楽なのかどうかは、恋歌にはわからない。
あるいは、この男も燭台を蹴り倒した後のことを考えたのだろうか。
燭台を蹴り倒したとしても、うまく火が消えてくれればいいが、可燃物にでも燃え移ったらおそらく善次郎にも手に負えない事態になる。
障子、畳、襖。家屋を構成するのは木や紙で、それらは一旦火が点けば消すのは容易ではない。善次郎でさえも、ある程度以上大きな火は「握りつぶす」ことは出来ないのだと恋歌は推測する。
いずれにしても、現状、「それ」は単純な方法で。
だが、高村晋輔にとっては容赦ないほどに効果的な方法だった。
晋輔は器用だ。
善次郎が離れて消した炎を他の蝋燭の火を太刀の切っ先に乗せてつけて回る。
常人には不可能だとさえ思えるそんな離れ業を、晋輔は連続して行っていた。
だが、燭台そのものが蹴り飛ばされてしまえば、彼も火をつけて回ることは出来ない。
いや、それでも倒れた燭台がそこにれば、彼は火の点いていない太刀を使い、手足を使い、これまた器用に立て直して見せた。蝋燭が落ちていれば、それさえも戻した。
だが、立て直すためには高村晋輔といえど研ぎ澄ませた神経で細心の注意を払う必要があるが、蹴り倒すにはただ近づいて足を振り回せばいい。
そして、更に晋輔の足を引っ張る要素がある。
恋歌自身だ。
善次郎は足を使い、手を使い、燭台を倒す。晋輔はそれを直そうとするが、善次郎は不意に恋歌へと足を向けるのだ。
晋輔はそのたびに素早く善次郎と恋歌との間に体を入れる。
切っ先に炎を乗せられる距離を燭代との間に保ち、恋歌を守るべくその身を盾にする。
もちろん、恋歌もぼんやりと突っ立っているわけではない。善次郎が左右に体を揺らせば、庇ってくれる晋輔を盾にして、恋歌は体を移動させる。
だが、その間に善次郎はまた、炎を握りつぶす。
……まずい。
うまくいっていない。
それは恋歌にもわかる。
五つあった炎は、次第に四つ三つと減ってゆく。
晋輔も器用に燭台を立て直して炎を戻すが、それも善次郎の手足の一振りで消されてしまう。
高村晋輔の斬撃はもともと善次郎には通じない。
だから、善次郎はその剣戟そのものを恐れる必要がない。
炎が乗っているかどうかを見極め、切っ先に炎がなければ無視していいのだ。
高村晋輔の打ち込む刃を平然と善次郎は受け止める。
もちろん、彼も刀を持っているのだから、可能な限り刃で受けるようにはしている。だが、高村晋輔の速さに、善次郎はついていけてなかった。
彼は幾度かその肉体に晋輔の太刀を受け、それでいて何ら痛痒を感じた様子がなかった。彼の動きは、高村晋輔それとは異なる意味で「ふざけている」ように見え、真剣みを欠いたその動きのせいで、よけいに晋輔の斬撃を受けている。
だが、そうして得た傷は、肥溜めで蛆虫の群れが蠢くような音とともにたちまち塞がってゆく。傷口で蠢く血管や筋繊維は、まさに蛆虫やミミズの類の小虫に見える。それが縒りあい、結び合い、傷口を覆ってゆくのだ。
晋輔の斬撃は、善次郎には痛手となっておらず、善次郎の動きを衰えさせることは出来ていない。
一方、晋輔が太刀の切っ先に乗せる蝋燭の先端だが、切っ先の旋回があまりに速ければ、そこに乗る炎は消えてしまう。
だから、本当に善次郎を滅ぼすはずの剣戟は、わざわざ速度を殺して打ち込まれる。
本当に善次郎が避けるべき剣戟は、わざわざ回避できる速度で打ち込まれているのだ。 望まぬ手加減を強いられた晋輔は、その動きの速さ、鋭さにもかかわらず、善次郎に有効な一撃を加えられない。
善次郎はそれを知り、攻めあぐねる敵を嘲笑い、不恰好に太刀を振るう。
「どうした。もっと頑張れ」
善次郎が笑う。
高村晋輔に咽喉を切りつけられ、しかし、無傷のまま彼は笑う。
「……晋輔」
思わず恋歌は彼の名を呼ぶ。
彼は答えない。
その表情に大きな焦りはない。こんなときでも彼は表情に乏しい。
ただ真剣な目で、淡々と作業をこなす。そんな風にさえ見える。
それでもここ数日の付き合いで、恋歌にも彼の表情が読めるようにはなっていた。
微かに唇の端がつりあがる小さな笑み。
切れ長の目を下げた穏やかな表情。
どちらも今の彼にはない。
確かに、今の彼に大きな焦りはない。
だが、予定通りにはいっていない小さな苛立ちを、恋歌は見て取った。
「お前を殺したら、その次はこの娘だ。裸に剥いて、首に縄をつけて飼ってやる」
晋輔は答えない。ただ、敵を睨みつける視線を厳しくしただけだ。
聞こえるのは二人の足運びの音。そして晋輔の荒い息と善次郎の下卑た笑い声だけだ。
それを除けば、もはや郭は静かだった。
だから、聞こえたのだろう。
そのときだった。
奇妙な泣き声に恋歌が気づいたのは。




