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29.高札

2013/4/16誤字等訂正。

 出島は長崎奉行所のすぐ目の前にある。

 あの高札を見れば、よほどの馬鹿でない限りは、すぐに恋歌の言葉の意味が分かるはずだ。

 もっとも、恋歌は高村晋輔を馬鹿だと思っている。少なくとも常識知らずだとは考えている。

 それでも、江戸から長崎にまでとりあえず無事に辿り着いているのだから、彼も無用の悶着を起こすほど愚かではないのだろう。

 別に、好き好んで余計な厄介ごとを抱え込むようなことはしないだろう。そうであることを願う。

 いずれにせよ、彼は恋歌の言うとおりに駆け出して行った。

 その姿が見えなくなるのを待って、恋歌は足を踏み出した。早足で。

 色々と言いたい事を抱え込んでいる様子で恋歌を睨んでいる美雪を先に桜泉楼に帰し、恋歌は足を反対方向に向けていた。

 高村晋輔が走って行った出島の方向へ。

 彼には「廓に戻る」と言ったが、恋歌にも調べるべきことがある。だから、あるいは高村晋輔のほうが先に廓に着くかもしれないが、多少待ってもらってもいいだろう。

 高村晋輔は、恋歌に頭を下げざるを得ない。

 別に、高村晋輔に恨みはない。

 彼のことは嫌いではないし、美雪を助けてもらった恩がある、とも恋歌は思っている。

 だからといって、彼の言葉をすべて笑顔で受けいられるわけもない。

 頭を下げるということ。「自分が好きではない相手にそれでも自分を好きになってもらう」ための努力をするということ。つまり媚を売るということ。

 彼はそれを知らない。

 恋歌はそう感じた。

 そのことが恋歌には、腹立たしく思えた。

 一度嫌な奴に頭を下げて歓心を買うのがどんなものかやってみるといいのだ。

 だが、そのためには恋歌が彼の求める条件をすべて満たしていなければならない。

 自分の値段を吊り上げるという点において、恋歌は自分はまだ未熟者だと感じている。郭に住む以上、遊女は自分をよく見せるという点において、熟練の域に達しなければならないのに。

 だから、まあ、これは修行の一環だとも言えた。

 晋輔が帰ってきたときには、すべての札を自分が持っているようにしたい。少なくともどこに何の札があるのかは知っておかないと。

 彼が出島から戻って来るには、そんなに時間はかからない。恋歌のやるべきことはもっと時間がかからない。

 言うまでもなく、出島は人工的に作られた島である。「本土」と出島をつなぐのは短い石橋であり、その本土側にはちょっとした広場がある。そこには番士が常駐しており、基本的な禁止事項を書いた高札が立てられている。


    禁 制

 一、傾城之外女人入事

 一、高野聖之外、出家山伏入事

 一、諸勧進之者入事

 一、出島廻リ棒杭之内船乗廻事附 橋之下船乗通事

 一、断なくして阿蘭陀人出島より外に出事

   右条々、堅可相守者也


 禁制である以上、「一」以下の事柄は禁止されているということだ。

 そして、二番目以降は、今の晋輔や恋歌にはあまり関係がない。僧侶や山伏などが入ることを禁じ、出島の周りに打たれた杭より中への船の侵入を禁じ、オランダ人が出島より外にでることを禁じている。

 大切なのは最初の条項だ。

 傾城以外の女が出島へ入ることを禁じている。もちろん、だからといって男なら誰でも入れる、というわけではない。

 傾城とは遊女のことで、彼女たちだけは出島へ入ることが許されていた。そもそも丸山遊郭が形成された最大の理由のひとつが、唐人屋敷や出島という閉ざされた居留地内で外国人を相手にする遊女を管理するためだった。そのため丸山遊女は他の遊郭とは全く異なる種別がある。日本行、唐行、阿蘭陀行だ。日本行は日本人のみを相手にし、唐行、阿蘭陀行はそれぞれの商館内の外国人をも相手にする。

つまり、今の恋歌がそれだ。

 今朝楼主に宣告されたばかりの降格。

 つまり恋歌は、阿蘭陀行にされたのだった。

 この状況で、日本行太夫だった恋歌が阿蘭陀行への降格の決定。

 出来すぎだ、と恋歌は思う。

 まるで高村晋輔のために誂えられた状況のようだ。

 だとしたら、自分の不遇は高村晋輔のせいだと思ってもいいのかもしれない。恋歌は陰気な諧謔を思い浮かべ、暗い笑みを顔に貼り付けた。

 出島、唐人屋敷というふたつの外国人居留地は、いずれも外国人女性の渡航を禁じている。かつて出島へ妻を連れてきたオランダ人がいたが、国外追放の処分を受けていた。

 男だけが住む島に遊女が入るのだから、もちろんやることはきまっている。

彼らがどんなやり方を望むか恋歌は知らない。が、二本足と二本の手、それに一個の頭と、男と女のあの部分を使っての組み合わせには限りもある。この国の男女も異国の男女もやることはさして変わらないと恋歌は聞いていた。

 問題は、恋歌がまだ、日本人相手のこともあまりわかっていない、ということだ。

 カムロとして姉女郎についたばかりのころ、二人きりになった男と女が何をするのか、恋歌は好奇心ばかりでわかっていなかった。何故男たちが安くない金をもって郭に通うのか、本当のところはわかっていなかった。やはりカムロだった美雪とともに好奇心に負け、そっとふすまをあけて覗いたことがある。あまりの衝撃で、二人とも二、三日食事がのどを通らなかった。あれから随分経つ。とっくに免疫ができたと思っていた。しかし、どうやら他人のを見るのと自分でやるのとでは、かなり違うようだ。実のところ、恋歌はまだ怯えていた。

 羽村籐衛門との夜にそれを意識した。相手が紅毛人に決まって、今では余計に不安になっていた。

しかし、もちろん、それは高村晋輔とは関係のないことだ。


 恋歌は暫く出島の前で時間をつぶすつもりでいた。

 高村晋輔を先に行かせ、彼が出島の前から離れるまで、物陰に隠れているつもりだった。

 だが、出島に行く途中で、恋歌は目当ての少女を見かけた。 

 少女は出島から出てきたところだったのだろう。屈託のない笑顔を浮かべて歩いていた。とりたてて美人というわけではなかったが、少女は今のところ客の好意を必要とはしていなかったし、それよりも貴重な才能を持ってるのだった。

 恋歌は、その姿を見つけると、その後を密かについていった。少女は何も疑っていなかった。普段通りの足取りで、町を横切り、自分の住む長屋へと入っていった。そのとき、彼女が言った言葉が恋歌の耳に届いた。

「ただいま、おとうさん」

 驚きはなかった。

 それが少女の立場なのだ。それが許される立場にいるのだから、今更驚くことはない。

 それでも。

 そうか。この子は、自分の両親と住んでいる。この子にはそれが許されているんだ。

 少女が父親に呼びかけた声が、恋歌に自分と少女との境遇の差を思い知らせた。

 羨ましいと恋歌は思った。

 自分たちには許されない贅沢だ。そのとき、恋歌の中で、ほんの少し彼女に対しての視線が厳しくなった。彼女を巻き込むことへの罪悪感が少し軽くなったような気がした。少女が親と住んでいることなど、恋歌が少女を厄介ごとに巻き込む免罪の理由にはならなかったが、恋歌の中ではほんの少し気持ちが楽になったのだ。

 知りたいことはわかった。

 今ならまだ、高村晋輔より先に廓に戻れるかもしれない。

 恋歌は踵を返し、桜泉楼への道を足早に戻っていった。


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