30.春風
桜泉楼に戻ると、入り口で美雪が待っていた。腕を組み、不機嫌そうな顔で恋歌を見据えている。
「どうしたの?」
なんとなく美雪の言いたいことはわかったが、恋歌は知らぬフリをして聞いた。
「別に」
というのが美雪の答えだった。
自分が言いたいことを恋歌にはわかっているとは、美雪も思っているのだろう。
だから、何食わぬ顔で美雪の隣を通り過ぎ、郭の暖簾をくぐると、美雪は低い声で一言だけ言った。
「……馬鹿」
「ごもっとも」
恋歌もこれにはそう答えざるを得ない。
「なんで好き好んで自分で厄介ごとを抱え込むの?」
そう言われて、恋歌は考えた。
「……それ、あたしの話?」
「他に誰がいるの?」
おかしいな。
その「好き好んで厄介ごとを」というのはさっき、自分が高村晋輔に割り当てた形容だったはずなんだけど。
恋歌はがっかりしながら首を振った。
草履を脱ぎ、階段を上り、自室に戻ろうとする。
「ああ、そうだ」
不意に美雪が何事か思い出したように声を上げた。
「どうしたの?」
「ん。先に行ってて。途中でこれ買ってきたから。お土産にと思って」
美雪はそう言って手にした青餅の包みを恋歌に見せた。
「誰に?」
「春風」
美雪は仲間の遊女の名を口にした。
「……まだ、調子、悪いの?」
春風は病弱で、寝込むことの多い遊女だった。彼女のことを考えると、恋歌もあまりふざけた調子では喋れない。
悪い娘ではない。仲間や目下の者には優しいし、恋歌も美雪も嫌いではない。だが、あまり話していて楽しい女とも言えない。つまり陰気なのだ。いつもお祭り騒ぎのような郭でひとりでいつも寝込んでいれば、気分が落ち込むのも無理はないのだろう。
客の相手もできないのだから、実入りは少ない。そんな遊女に楼主が寛容に振る舞うはずもない。彼の嫌みや揶揄に、彼女はいつも泣かされていた。
恋歌も顔を出すようにはしているが、やはりそういう気遣いでは、美雪には一歩も二歩も及ばない。
そもそも桜泉で一番だともてはやされている恋歌が実入りの少なさを責められる彼女を見舞うこと自体、春風には皮肉に思えるかもしれない。美雪にそう諭されたことがある。それにしたって、考えてみれば、恋歌は自分の突き出しから始まった騒ぎの中で、ここ数日顔も出していないことに気づいた。
春風は地下にいる。
病に伏せる遊女は金を稼げない。
そんな遊女に明るい部屋をあてがってくれるほど、桜泉の楼主は優しくなかった。
地下にある一室が「稼げない遊女」の休憩所であり、そういう遊女に対する懲罰牢だった。
誰でもそんな場所に行きたがるわけもない。
それにしたって、行くべきだった。
恋歌は少し恥じ、そして言った。
「あたしも行くよ」
「うん」
少し躊躇った後、美雪は頷いた。
*
「何の用?」
それが春風の声だった。
硬い。
怒りさえ感じさせるほどの硬質な声。
恋歌は思わず怯んで、言い訳のように答えてしまう。
「いや、調子はどうかな、と思って」
「寝込んでるんだから、調子がいいわけないでしょう」
それはそうなんだろうけど。
春風の苛立ちは筋の通ったものだったが、見舞いに来た者に対する言葉としては、やはり非礼だと言えた。
「待って、春風」
美雪がとりなすように声をかける。
「ちょっと出かけたから、おみやげ、と思ったんだけど」
手に持った包みを広げて見せた。
青餅。
長崎で人気の甘い餅。茶菓子。
しかし、春風はその手を払い、包みを弾きとばした。
「今、何かを食べるような気分じゃないの」
冷たい声。はっきりとした拒絶。
美雪が言葉を失う。
恋歌はそれでも反駁した。
「だからって、せっかく美雪が買ってきてくれたのに……」
「くれた?」
春風が聞き返す。
「買ってきて、『くれた』?私はそんなこと頼んでないわ」
「そんな言い方って……」
どうしたのだろう。
春風はもともと明るい娘という性格ではなかった。気のいい娘、でもなかったかもしれない。だが、だからといって人の気遣いを蔑ろにするような娘でもなかったはずだ。
「……どうかしたの、春風姉さん?」
美雪は部屋の隅に放り出された青餅を拾いながら春風の顔を見上げた。
「何かあった?」
「……別に」
春風は首を振る。
ひどく、忌々しげに。
別に何もなかった、という表情ではなかった。
だからといって、気軽にその事情を訊けるような表情でもなかった。
恋歌と美雪は言葉を失い、黙り込んだ。
息を荒くした春風が呟くまで。
「なんで、あんたみたいな奴に……」
「……春風?」
訊いたのは美雪だった。
腹立たしげに呟いた春風が睨んだのは美雪だったからだ。
だから、「あんた」は美雪なのだろう。
春風が美雪を憎む理由。
恋歌や郭にいる他の者よりもいつも気にかけてくれているはずの美雪を春風が憎む理由。
瞬間、恋歌の中で何かひどく不快な感情が膨れ上がった。
それでも、恋歌は口を噤んでいた。
自分の感情に名前を付けられなかったし、その不快感に具体的な根拠を見つけられなかったからだ。
だから、恋歌は深く考えなかった。
自分の中に芽生えた不快な感情の正体を見極めようとはしなかった。
恋歌にとって、その「遊女」は、快活でこそないが同じ郭で暮らす同じ境遇の仲間のひとりだった。美雪と比べれば別段仲がいいとは言えなかったが、それでも寝込みがちな彼女の部屋に時々顔を出したし、元気な時に郭で会えば挨拶程度は交わす「仲間」のひとりではあったのだ。
だから、恋歌は意識することもなく、その不快な感情を否定した。
恋歌は自分の中のその感情を見つめようとはしなかった。その不快な感情に「猜疑心」という名前を付けようとはしなかった。
だから、その段階で、恋歌は彼女を「敵」として認識することはなかった。
「出てって」
春風は刺々しい口調で言い、恋歌と美雪はその言葉に従った。




