第9話 配信の鏡
弁当は、本当に大盛り三つだった。
白飯の量が、普通ではない。
唐揚げ。
焼き魚。
ハンバーグ。
卵焼き。
味噌汁。
さらに、コンビニの袋に入ったおにぎりが五つ。
敦は一瞬だけ、感動した。
「三上さん」
「はい」
「これは、ええ仕事です」
三上は真面目な顔で頷いた。
「予知能力者の助言を参考にしました」
「烏丸さん、そこは信用できるんですね」
烏丸はチョコをかじりながら言った。
「食べ物に関する未来は、比較的外れにくいです」
「能力の使いどころが平和すぎる」
「平和は大事です」
敦は手を合わせてから、食べ始めた。
米がうまい。
肉がうまい。
味噌汁が染みる。
怪異を焼いた後の体には、現代の弁当がやけにありがたかった。
榊原は会議机の向こうで、資料を整理している。
橘は病院と警察への連絡。
真壁は入口近くで壁にもたれ、外からの来訪を警戒している。
御影は椅子に座り、封印布で包んだ木箱を膝に置いていた。
烏丸は白い杖を手元に置き、目を閉じたり開けたりしている。
部屋は一応落ち着いていた。
けれど、落ち着いているように見えるだけだった。
三上のモニターには、さっきの画像が表示されている。
《一枚目、失敗。二枚目へ》
文字はもう、ただの画像になっていた。
敦が残り香を焼いたからだ。
画面越しに誰かへ手を伸ばす嫌な気配は消えている。
だが、画像そのものは残っている。
鏡。
黒い背景。
見覚えのない縁の紋。
その紋を、御影はずっと睨んでいた。
「食べながらでいいから聞いて」
榊原が言った。
敦は箸を置きかけ、思い直して唐揚げを飲み込んでから、スマホを取り出した。
「録音します」
「榊原美津子、同意します」
「橘怜奈も同意します」
榊原は頷き、資料を指で押さえた。
「正式な契約は後回しにするわ。龍宮寺さんと特殊事案係との一時協力については、こちらで記録する」
榊原はそこで、御影と烏丸へ視線を向けた。
「御影さん、烏丸さん。お二人は祓戸連盟側の協力者として、現場対応の確認に同席してください。国側の契約に縛るものではありません」
御影が頷いた。
「祓戸連盟大阪支部、御影沙夜。現場共同対応の確認に同意します」
烏丸も軽く手を上げた。
「烏丸透。連盟協力者として同意します。あと、唐揚げを一つもらう未来は悪くありません」
「それは交渉してください」
敦は唐揚げを一つ、紙皿に移した。
烏丸が嬉しそうに受け取る。
御影が呆れたように横目で見た。
その時、三上のパソコンが鳴った。
短い警告音。
部屋の空気が、一瞬で変わる。
三上が画面を確認する。
「出ました」
榊原が顔を上げた。
「何が」
「二枚目かもしれません」
敦は箸を止めた。
三上が大型モニターへ画面を映す。
そこには、動画配信サイトの配信予定ページが表示されていた。
タイトルは派手だった。
《本物の呪物? 合わせ鏡で降霊配信やってみた》
サムネイルには、古びた丸鏡が映っている。
縁に紋。
さきほどの画像と似ている。
完全に同じではない。
だが、系統は同じだった。
御影が立ち上がった。
「この紋……」
「見覚えありますか」
榊原が聞く。
「あります。正確には、見覚えがあるのが問題です」
「どういう意味?」
「祓戸連盟で封じる時の紋ではありません。でも、連盟の外部協力者が管理する呪物目録に似たものがあります」
「外へ出ていいもの?」
「いいはずがありません」
三上が別画面を出す。
「配信者は、心霊系の中堅チャンネルです。登録者はそこそこ。炎上狙いも多いですが、普段はフェイク寄りです。ただ、今回は告知文に『古物商から本物を借りた』とあります」
「開始時間は?」
橘が聞く。
三上の顔が強張った。
「十九時予定でした。でも、さっき変更されています。十八時十五分に前倒し」
壁の時計を見る。
十七時四十九分。
敦は箸を置いた。
「あと二十六分」
「場所は?」
榊原が聞く。
「大阪市内のレンタル撮影スタジオです。日本橋寄り。詳しい住所は予約サイトと投稿写真から絞れます」
「確定できる?」
「五分ください」
「三分で」
「やります」
三上の指がキーボードを叩く。
橘はすでに電話をかけていた。
「所轄へ連絡。建物管理会社も。表向きは危険物持ち込みと迷惑配信の確認で止めます」
真壁が立ち上がる。
「車を出す」
御影は封印布の木箱を机に置き、別の札束を鞄に入れ始めた。
動きに迷いがない。
烏丸は白い杖を手に取り、配信ページを見ないようにしながら言った。
「このまま配信が始まる未来は悪いです」
「どれくらい」
敦が聞くと、烏丸は少し黙った。
「視聴者が多いほど、鏡が足場を増やします。春野家の時とは違う。あれは一つの家族を引く鏡でした。これは、見ている人間の好奇心をまとめて食うための鏡です」
「つまり、見世物用」
「はい」
敦の奥歯が鳴った。
子どもを餌にした後は、今度は視聴者を餌にする。
しかも配信者自身は、たぶん本気で危険だとは思っていない。
数字。
再生数。
コメント。
投げ銭。
そういうものが、怪異の餌になる。
「行きます」
敦は立ち上がった。
榊原がすぐに言う。
「条件を確認します」
「はい」
「単独行動禁止。現場判断は橘、真壁、御影、烏丸と共有。浄化は必要範囲。ただし人命優先。証拠保全は可能な限り」
「分かってます」
「報酬対象の協力行為として記録します。あなたは無償で消費されない」
敦は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、頷いた。
「そこ、大事ですね」
「大事よ」
榊原は真顔で言った。
「あなたが善意で動くのは止めない。でも、善意を理由に誰かがあなたを使い潰すことは許さない」
敦はゆっくり息を吐いた。
「録音、残ってます」
「残してください」
三上が声を上げた。
「住所、出ました。日本橋三丁目の雑居ビル四階、レンタルスタジオです。配信チャンネル名は『ミラノ心霊部』。配信者は水瀬海斗、二十六歳。スタッフ二名。現在、準備配信が始まっています」
「始まってるんかい」
敦が思わず言う。
三上が画面を切り替える。
小さなライブ画面が映った。
若い男が、暗い部屋で笑っている。
背後には布をかけられた丸いもの。
鏡だ。
《今日はガチっぽいやつ来てます》
《本物だったらヤバい》
《梅田の聖者呼べ》
《黒い手のやつ見た?》
《同じやつ?》
コメント欄が流れていく。
敦は眉を寄せた。
ライブ画面の奥に、薄い黒い滲みが見えた。
まだ弱い。
だが、ある。
「これも焼けますか」
榊原が聞く。
敦は右手を少し上げた。
御影が画面を見る。
「配信画面に残った穢れなら落とせます。ただ、本体へ深く届かせないでください」
烏丸が杖を床につける。
「ここで軽く焼く未来は良いです。強く焼く未来は悪い。相手に気づかれます」
「軽くですね」
敦はモニターへ指を向けた。
白い光が、ほんの少しだけ出る。
ライブ画面の黒い滲みだけを撫でるように焼く。
画面の向こうの配信者は気づかない。
コメント欄も止まらない。
だが、見ているだけで目の奥を刺すような嫌な感覚は消えた。
三上が息を吐く。
「配信経由の異常反応、低下。完全には消えてません。本体からまた漏れてきます」
「本体を叩くしかないですね」
敦は弁当の蓋を閉めた。
三上が慌てて言った。
「持っていきます?」
「もちろん」
敦はおにぎりを二つポケットへ入れた。
橘が見た。
「ポケットに直接入れるんですか」
「包装してあります」
「そういう問題では」
「腹減るんです」
「分かりました」
真壁が短く言った。
「行くぞ」
五人が動いた。
敦。
橘。
真壁。
御影。
烏丸。
御影は一枚目の木箱を事務所に残すことにした。
榊原の管理下で、三上が監視する。
持ち歩くには危険が減ったとはいえ、二枚目の現場に一枚目を連れていく理由はなかった。
車は地下駐車場を出て、日本橋方面へ向かった。
夕方の大阪は混んでいた。
車列。
信号。
自転車。
観光客。
いつもの街。
その中を、見えない火種へ向かって走る。
車内で、橘が通話を続ける。
「建物管理会社には連絡済み。スタジオ側の緊急連絡先にも入れていますが、まだ応答なし。警察は近隣トラブルとして向かっています」
「配信は?」
敦が聞く。
三上の声が車内スピーカーから流れた。
「準備配信が続いています。視聴者、現在一万二千。増えています」
「一万二千」
御影の顔色が悪くなる。
「多すぎます」
「配信で怪異が広がったら?」
敦が聞くと、御影が答えた。
「全員が被害を受けるわけではありません。でも、霊媒体質、睡眠不足、強い不安を持っている人、鏡や画面をじっと見続ける人は引かれやすい」
「つまり、弱いところから食う」
「はい」
烏丸がサングラスの奥で目を閉じた。
「十九分後、配信者が布を取ります。その時点で視聴者の中に、吐き気と頭痛が出る人が増える。二十三分後、スタッフの一人が鏡に映らなくなります」
「映らなくなる?」
敦が聞く。
「鏡の中へ半分入ります。まだ戻せますが、面倒になります」
「なら、その前に止める」
「その方がいいです」
真壁がハンドルを握ったまま言う。
「交通が詰まってる。走った方が早い距離になったら言う」
敦は窓の外を見る。
人混み。
車。
ビル。
この街の中で全力疾走したら、それだけで動画になる。
だが、被害が出るよりはましだ。
「必要なら走ります」
橘が振り返らずに言った。
「走る場合は、路地へ誘導します。大通りで跳ばないでください」
「跳ぶ前提なんですね」
「梅田の動画を見ました」
「ですよね」
車が止まった。
前方に渋滞。
真壁が舌打ちする。
「ここから四百メートル。走った方が早い」
「行きます」
敦はドアを開けた。
御影と烏丸も降りる。
橘は端末を片手に周辺を確認した。
「裏道を通ります。正面から行くと配信者や見物人に見られます」
「先導します」
真壁が走り出した。
速い。
体格の割に、無駄がない。
敦はその後に続く。
普通に走る。
普通の範囲で。
たぶん。
御影は遅れそうになったが、敦が一瞬だけ速度を落とす。
「御影さん、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃありません。でも行きます」
「烏丸さんは?」
「走る未来は悪いです。転びます」
烏丸は平然と歩いていた。
「置いていってください。僕は橘さんと後から入ります。危険な未来が出たら連絡します」
「分かりました」
橘が頷く。
「真壁さん、龍宮寺さん、御影さんが先行。私は烏丸さんと管理会社対応を押さえます」
敦たちは路地を抜け、雑居ビルの裏口へ回った。
古いビル。
一階は飲食店。
二階はマッサージ店。
三階は空きテナント。
四階がレンタルスタジオ。
裏口の階段は狭い。
真壁が先頭に立ち、上がっていく。
二階を過ぎたあたりで、空気が変わった。
冷たい。
ぬるい。
さっきの鏡とは違う。
こちらはもっと軽い。
その代わり、広がりやすい。
油膜のように、階段の手すりや壁へ薄く伸びていた。
「もう漏れてます」
御影が言う。
「焼いていいですか」
「壁についている分は」
「了解」
敦は階段の手すりに指を向けた。
白い光が細く走る。
手すりや壁は焦げない。
だが、そこに張り付いていた黒い油膜だけが、白く焼けて消えた。
御影が一瞬だけ目を丸くする。
「早い」
「本体やないなら楽です」
「普通は、それでも楽ではありません」
「そうなんですね」
敦は足を止めずに進んだ。
四階の扉の前。
中から声が聞こえる。
「じゃあ、いよいよ布取りますよ! これ、マジで変な感じするんで!」
配信者の明るい声。
コメントを読むスタッフの笑い声。
そして、木箱とは違う、薄い鈴の音。
ちりん。
御影が顔色を変えた。
「始まります」
真壁が扉を叩いた。
「管理会社からの連絡を受けて来た。配信を止めろ」
中の声が止まる。
すぐに、面倒くさそうな声が返ってきた。
「え、何すか? 今配信中なんで」
「止めろ」
「いや、無理っす。予約取ってるし」
敦は扉の隙間から漏れる黒い気配を見た。
薄い。
だが、もう視聴者の方へ伸び始めている。
話している時間はない。
「真壁さん」
「壊すか」
「壊しましょう」
真壁が一歩下がる。
敦はドアノブに手をかけた。
鍵がかかっている。
敦は少しだけ力を入れた。
がきん、と金属が鳴った。
壊しすぎないように、鍵の部分だけを外す。
扉が開いた。
中にいた三人が、目を剥いた。
黒いパーカーの若い男。
カメラを持つスタッフ。
ノートパソコンの前に座るスタッフ。
そして、部屋の中央。
布を半分めくられた丸鏡。
鏡面は、まだ完全には見えていない。
だが、布の隙間から黒い視線が伸びていた。
「え、何!? 誰!?」
配信者が叫ぶ。
カメラがこちらを向く。
ライブのコメントが爆発的に流れる。
《誰?》
《乱入?》
《ガチ?》
《聖者じゃね?》
《梅田の人?》
敦はカメラに映った自分を見て、眉を寄せた。
「最悪やな」
御影が叫ぶ。
「カメラを伏せて!」
スタッフが反射的にカメラを下げかける。
だが、配信者が止めた。
「いや、撮れ! これ絶対バズる!」
その瞬間、鏡の布が内側から持ち上がった。
誰も触っていない。
布の奥で、黒い指が笑うように揺れる。
敦は右手を上げた。
「御影さん、焼いていい場所」
「カメラへ伸びている視線! 鏡の縁! 人には触れないで!」
「了解」
敦の指先に白い光が集まる。
配信者が笑った。
「え、演出? すげえ!」
その笑いが途中で止まった。
鏡の隙間から伸びた黒い糸が、配信者の喉元へ絡みついたからだ。
声が出なくなる。
彼の目が見開かれた。
敦は一歩踏み込んだ。
「見世物ちゃうぞ」
白い光が走る。
まず、カメラへ伸びた黒い視線を焼く。
カメラは壊れない。
配信も一瞬止まらない。
だが、画面越しに視聴者へ触れようとしていた黒い手だけが、白く燃えた。
ノートパソコンのコメント欄が一瞬だけ真っ白に流れる。
スタッフが悲鳴を上げた。
「画面が!」
「壊れてへん。伏せろ!」
敦の声に、今度はスタッフが従った。
カメラを床へ伏せる。
御影が札を投げる。
札は鏡の前で青く光り、布を押さえる。
だが、鏡の中から黒い髪が溢れた。
春野家の鏡とは違う。
女の声ではない。
こちらは、無数のざわめきだった。
見たい。
映したい。
暴きたい。
知りたい。
もっと。
もっと。
コメント欄の欲が、鏡の中で声になっている。
敦は顔をしかめた。
「気色悪い」
御影が叫ぶ。
「縁の右側! 紋の外! そこは焼いていい!」
「はい」
敦は白い光を細く撃った。
鏡の縁に絡んだ黒い髪が燃える。
鏡本体は割れない。
紋も残る。
ただ、そこから外へ伸びていた黒い視線だけが消える。
烏丸の声が、橘の端末越しに飛んだ。
「龍宮寺さん、配信者の喉は今焼くと悪いです! 糸を浮かせてから!」
「御影さん!」
「やります!」
御影が床に膝をつき、青い線を走らせる。
配信者の喉に絡んだ黒い糸が、ほんの少し浮いた。
敦はそこを撃った。
白い光が、糸だけを焼く。
配信者が床に崩れ、激しく咳き込んだ。
「死ぬかと思った……」
「死にかけてたんや」
敦は短く言った。
それでも鏡は止まらない。
布の下から、黒い手が何本も伸びる。
配信者ではなく、ノートパソコンへ。
画面へ。
回線へ。
見ている人間たちへ。
御影が青ざめた。
「回線側へ行きます!」
「回線って焼けるんですか」
「普通は無理です!」
「俺は?」
「見えてるなら焼けます!」
「雑!」
「でも、できます!」
敦はノートパソコンを見た。
画面には配信管理画面。
コメント欄。
視聴者数。
一万八千。
その数字の奥に、黒い糸が無数に伸びていた。
細い。
細すぎる。
全部を追うのは面倒だ。
だが、根元は一つだった。
鏡からパソコンへ伸びる太い黒い管。
そこを焼けばいい。
「根元、見えました」
「焼いてください!」
御影の声と同時に、敦は右手を振った。
白い炎が床を走る。
ケーブルは燃えない。
パソコンも燃えない。
ネット回線も当然燃えない。
だが、そこに便乗していた黒い管だけが、白く燃えた。
じゅわ、と嫌な音がした。
ノートパソコンの画面が一瞬だけ白くなる。
配信が落ちた。
コメント欄が止まる。
スタッフが叫ぶ。
「配信、切れた!」
「よし」
敦は短く言った。
鏡の中のざわめきが、一気に弱まった。
餌を失ったのだ。
見ている人間。
コメント。
好奇心。
それらから切り離された鏡は、急に小さく見えた。
御影が札を構える。
「今なら封じられます」
「完全に焼かなくていいですか」
「証拠が要ります」
「ですよね」
敦は鏡の黒い残滓をもう一度見た。
外へ伸びる視線は焼いた。
人に絡んだ糸も焼いた。
回線への管も焼いた。
なら、今は十分だ。
「漏れてる分だけ落とします」
「お願いします」
敦は鏡へ手をかざした。
白い光が、鏡の表面を薄く撫でる。
鏡面そのものは壊さない。
縁の紋も焼かない。
ただ、布の隙間から漏れる黒い油のようなものだけを焼く。
鏡が、嫌な音で鳴った。
ちりん。
最後に一度だけ。
それきり、沈黙した。
御影が札を貼る。
「閉じ」
青い線が鏡を縛る。
スタジオの空気が、ようやく普通に戻り始めた。
配信者の水瀬海斗は、床に座り込んだまま震えていた。
さっきまでの軽い笑顔は消えている。
「何なんすか……これ……台本じゃ、ないんすか……」
敦は彼の前にしゃがんだ。
「台本で喉締まったんやったら、病院行った方がええですよ」
「いや、あの、俺、知らなくて」
「知らんかったんは分かります」
敦は少しだけ声を低くした。
「でも、知らんもんを見世物にしたら、人が死ぬことがあります」
水瀬は何も言えなかった。
涙目で、何度も頷くだけだった。
橘が到着し、部屋へ入ってきた。
後ろに烏丸もいる。
烏丸は部屋へ入るなり、白い杖で床を軽く叩いた。
「配信は落ちましたね」
「落としました」
「良い未来です」
「たまには褒めるんですね」
「悪くない時は言います」
橘はスタッフたちへ身分を伏せたまま説明を始めた。
「危険物による体調不良です。警察と救急が来ます。配信データは保全します。削除は勝手にしないでください。ただし公開は止めます」
「え、でも、データは」
水瀬が言いかけると、真壁が一歩前へ出た。
それだけで、水瀬は黙った。
御影は封じた鏡を布で包む。
敦はその横で、鏡を見下ろした。
春野家の鏡と違って、こちらには直接誰かの魂が引っかかってはいない。
けれど、見世物として育てられかけていた。
たぶん、この鏡は「餌場」だった。
視線を集め、好奇心を集め、感情を食わせる場所。
現代らしい。
嫌な意味で。
三上の声が橘の端末から流れる。
「配信のアーカイブ化、止めました。プラットフォーム側へ危険コンテンツとして申請中。切断直前に画面を見ていた視聴者の一部が、体調不良を投稿していますが、拡散は抑えます」
「黒い手は?」
橘が聞く。
「今回はほとんど映っていません。白い光は一部映りましたが、配信切断と画面白飛びで詳細不明です」
敦は頭を抱えた。
「また映ったんですか」
「一瞬です」
三上が申し訳なさそうに言う。
「でも、前よりはずっと少ないです」
「それを喜んでええんかな」
「比較の問題です」
烏丸が鏡の包みを指差した。
「御影さん、その鏡の裏を見てください。今なら大丈夫です」
「今なら?」
「悪い未来が少ないです」
御影は慎重に鏡を裏返した。
封印布の隙間から、縁の裏側だけを確認する。
そこには、小さな刻印があった。
数字。
そして、文字。
御影の顔が変わった。
「これは……」
「何ですか」
敦が聞く。
御影はすぐに答えなかった。
代わりに、橘が端末でその刻印を撮る。
三上へ送信する。
数秒後、三上の声が硬くなった。
「照合しました。祓戸連盟の外部保管番号に似ています。ただし、現行台帳には存在しません」
「古い台帳です」
御影が低く言った。
「少なくとも、十年以上前の形式です」
敦は目を細める。
「つまり、連盟と無関係とは言い切れない」
「はい」
御影の声は苦かった。
「これが本物なら、祓戸連盟の管理下にあった呪物が、外へ出ています」
スタジオの中が静かになった。
水瀬たちは、何の話か分からない顔をしている。
けれど、敦たちは分かった。
これは、ただの心霊配信ではない。
外道筋だけの話でもないかもしれない。
古い管理番号。
複数の鏡。
一枚目、失敗。
二枚目へ。
誰かが、きちんと手順を知っている。
そして、遊ぶように動かしている。
敦は封じられた二枚目の鏡を見た。
「これ、漏れてる分はもう一回焼いてから運んだ方がええですね」
御影は頷いた。
「お願いします。痕跡は残してください」
「分かってます」
敦は右手をかざした。
白い光が、封印布の外を薄く撫でる。
残っていた黒い冷気が、また少し消えた。
証拠は残す。
危険は落とす。
少しずつ、この世界のやり方が分かってきた気がした。
だが、その分、腹も立ってきた。
分かれば分かるほど、これが偶然ではないと見えてくる。
橘の端末が震えた。
榊原からだった。
橘は短く応答し、すぐに顔を上げる。
「春野真白さんの病院搬送、無事に完了。容体は安定しています」
敦は少しだけ息を吐いた。
その知らせだけは、素直に嬉しかった。
だが、橘の表情はまだ硬い。
「それと、別件です」
「嫌な予感しかしませんね」
敦が言うと、橘は頷いた。
「消えたアカウントが、別名義で再出現しました」
スタジオの空気が再び冷える。
三上が端末越しに画像を送ってくる。
今度は、黒い背景に白い文字だけだった。
《二枚目、切断。白い聖者、干渉精度高し》
その下に、もう一行。
《三枚目は、鏡ではない》
敦は画面を見つめた。
鏡ではない。
なら、何だ。
窓か。
水面か。
画面か。
刃か。
人の目か。
御影が小さく息を呑む。
「鏡ではない、反射面」
烏丸が白い杖を握り直した。
「悪い未来が、また形を変えました」
敦はポケットから、さっき入れたおにぎりを一つ取り出した。
包装を破り、無言で食べる。
全員がこちらを見た。
敦は飲み込んでから言った。
「腹減ったまま考えたら、負けそうなんで」
烏丸が少しだけ笑った。
「良い判断です」
敦は画面の文字をもう一度見た。
《三枚目は、鏡ではない》
なら、探す範囲は広がる。
けれど、ひとつ分かったことがある。
相手は見ている。
測っている。
そして、こちらを遊び相手だと思っている。
敦は静かに息を吐いた。
「三枚目が何でもええです」
白い力は出さない。
怒りも、まだ燃やさない。
だが、腹の底には確かに火が残っている。
「人を餌にするなら、次も焼きます」




