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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第7話 焼いていい場所

 木箱の中で、鏡が小さく鳴った。


 ちりん。


 鈴のような音。


 だが、その奥に混じっていた声は、鈴のように澄んではいなかった。


「白い人」


 真白の口からではない。


 木箱の中から、直接聞こえた。


「次は、あなたも映してあげる」


 敦は木箱を見下ろした。


 怒りはある。


 今すぐ箱ごと砕きたい衝動もある。


 だが、まだ動かない。


 真白の胸から伸びる繋がりは、完全には戻っていない。


 ここで力任せに焼けば、あの子の中まで焼く。


 それは、もう分かっていた。


 御影は木箱の前で、荒い息を整えている。


 札の半分以上は黒く焦げ、残ったものも端からじわじわと煤けていた。


 真白は布団の上で浅く息をしている。


 一度だけ目を開けた。


 蓮を見た。


 けれど、まだ戻りきってはいない。


 蓮は妹の名を呼びたいのを必死に堪え、父親は台所の椅子に座ったまま、両手を強く握りしめていた。


 玄関の外には、まだ人の気配が残っている。


 橘と真壁が散らしているが、完全には消えない。


 好奇心。


 恐怖。


 怒り。


 見たいという欲。


 それらが、薄い汚れのように部屋へ染み込んでくる。


「御影さん」


 敦は低く聞いた。


「もう一回、支えるだけで足りますか」


 御影はすぐには答えなかった。


 それが答えだった。


「足りません」


 やがて、御影は言った。


「次に開いたら、こちらから切り込まないと真白さんを戻せません」


「切り込む?」


「はい。ただし、切る場所を間違えると終わります」


「分かりやすく言うてください」


「真白さんに繋がっている糸は焼いてはいけません。けれど、その糸に食い込んでいる黒い返しと、鏡の口と、外へ伸びた視線は焼いていい」


 敦はゆっくりと息を吐いた。


「つまり、焼いていい場所はあるんですね」


「あります」


「ほな、最初からそう言うてください」


 御影が目を見開いた。


 敦は肩を回した。


 体の奥で白い力が静かに燃える。


 今まで押し込めていた力。


 出せば危ないと言われ続けた力。


 だが、出してはいけないわけではない。


 出す場所を間違えてはいけないだけだ。


「力任せに全部燃やすのは苦手ちゃいますけど、狙って燃やすのも、向こうで散々やらされました」


 御影が少しだけ表情を変えた。


「できますか」


「やります」


 玄関の方で足音がした。


 真壁が扉を開ける。


 入ってきたのは、細身の男だった。


 三十前後。


 黒いシャツに灰色の薄いコート。


 手には白い杖。


 目には薄い色のサングラス。


 歩き方は奇妙だった。


 床を見ていない。


 足元ではなく、少し先の空気を探っているように見える。


「遅れてすみません」


 男は軽く頭を下げた。


「来る途中で、選んではいけない道が七つありました」


 御影が息を吐く。


「烏丸さん」


「烏丸透です。予知と言うと大げさですが、悪い方の先が少し見えます」


 烏丸は部屋に入り、木箱を見て、次に敦を見た。


 いや、敦の少し横を見た。


「あなたが龍宮寺さんですね」


「そうです」


「握手はやめておきます」


「何でです?」


「握手した未来で、あなたが反射的に僕の手首を取っていました。僕がかなり情けない声を出していたので、避けます」


「……すみません」


「避けられたので問題ありません」


 変な男だった。


 だが、ふざけているわけではない。


 烏丸は木箱の前に膝をつき、白い杖の先で床を軽く叩いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 そのたびに、彼の顔色が悪くなっていく。


「よく止めましたね」


「止めただけです」


 御影が言った。


「引き戻せてはいません」


「でも、止めた。大きいです」


 烏丸は敦の方へ顔を向けた。


「さっき全力で焼いていたら、真白さんは戻りませんでした」


「見えたんですか」


「はい」


「支え続けたら?」


「それも悪いです。外の動画や画面を足場にされて、被害が広がります」


「じゃあ、どうすればいいんです」


「御影さんが言った通りです」


 烏丸は木箱を指した。


「真白さんの糸は守る。黒い返しを焼く。鏡の口を焼く。外へ伸びた視線を焼く」


 敦は小さく笑った。


「ようやく話が早い人が来ましたね」


「正解は見えません。地雷が見えるだけです」


「十分です」


「いえ、十分ではありません。だから、あなたが撃つ必要があります」


 烏丸は淡々と言った。


「僕と御影さんが、撃っていい場所を言います。あなたは撃つ。迷う時間はあまりありません」


 御影が時計を見る。


「どれくらいですか」


「十六時二十七分。隣の建物の窓に反射した西日が、この部屋へ入ります。その光が木箱に触れた瞬間、鏡の口が開く」


「西日を遮れば?」


「遮った未来は悪いです。鏡が別の反射面を探します。外のスマホへ逃げる」


「利用するしかないんですね」


「はい」


 敦は壁の時計を見た。


 十六時十九分。


 あと八分。


 さっきまでなら、また準備かと思ったかもしれない。


 だが、今は違う。


 八分後に撃つ。


 そのための八分だ。


「橘さん」


 烏丸が言った。


「外の動画、黒い手が映ったものを最優先で止めてください。建物外観より危険です」


「三上さんに共有します」


 橘は即座に端末を操作した。


 能力者ではない。


 祓えるわけでもない。


 だが、彼女は迷わない。


 画面が怪異の道になるなら、その道を現実の手続きで塞ぐ。


 それも、この世界の戦い方だった。


「真壁さん」


 烏丸は続ける。


「玄関と廊下の反射物を潰してください。スマホ、金属、窓、ミラー。壊さなくていい。伏せるか覆う」


 真壁は黙って動いた。


 廊下へ出て、低い声で警察官らしき誰かと話している。


 御影は札を並べ直した。


 三方を閉じ、一方だけを開ける。


 さっきより攻めた形だった。


 閉じ込めるのではない。


 開いた口に狙いを定める形。


「龍宮寺さんはここへ」


 御影が真白の枕元を示した。


「鏡を正面から見ない位置です。でも、真白さんの糸は見えるはず」


「見えます」


「あなたは、まず真白さんの糸を包んでください。白い添え木で守る。その上で、私が黒い返しを浮かせます」


「浮いたところを焼く」


「はい」


 烏丸が補足する。


「右手を強めすぎる未来が見えます。最初は左手で包んでください」


 敦は自分の手を見た。


「そこまで見えるんですか」


「失敗する瞬間だけです」


「嫌な能力やなあ」


「本当に」


 蓮が震える声で聞いた。


「あの、俺たちは……」


 御影が振り返った。


「あなたとお父さんは、真白さんの日常を話してください。名前を呼び続けるのではなく、真白さんがこちら側で生きてきた記憶を重しにします」


「日常……」


 蓮は紙を握っていた。


 さっき書き出したもの。


 ツナマヨ。


 甘い卵焼き。


 寝癖。


 ホラー映画。


 風呂場の歌。


 母親の写真。


 父親も涙を拭い、頷いた。


「やります」


 敦は蓮を見た。


「噛んでもええ。泣いてもええ。でも、止まるな」


 蓮は強く頷いた。


「はい」


 部屋の空気が、さらに冷えた。


 木箱の中で、鏡が鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 どこか楽しげに。


 まるで、待ちきれないというように。


 烏丸が時計を見た。


「十六時二十五分」


 御影が唱え始めた。


 低く、細い声。


 札から青い線が伸びる。


 敦は真白の横に膝をついた。


 木箱は視界の端にある。


 見ない。


 見る必要はない。


 相手の顔ではなく、助ける相手を見る。


 真白の胸元から伸びる黒い糸。


 その周囲に、自分の白い力を薄く添わせる。


 前より少しだけ楽だった。


 一度やったからではない。


 今回は、目的がはっきりしているからだ。


 守る場所。


 焼く場所。


 その違いが分かっている。


「白い添え木、入りました」


 敦が言うと、御影が頷いた。


「そのまま維持」


 蓮が震える声で話し出す。


「真白は、朝が弱いです。目覚ましを三つかけても起きません。起こすと、あと五分って言います。でも、五分で起きたことは一回もありません」


 父親が続ける。


「あの子は、母親の古いエプロンをまだ捨てられません。サイズも合わないのに、たまにそれをつけて台所に立ちます」


 真白の指が、かすかに動いた。


 敦の白い力が安定する。


 糸がこちら側へ寄ろうとしている。


 木箱の中から、女の声がした。


「そんなもの、すぐ忘れる」


 蓮の声が止まりかけた。


 敦が言う。


「止まるな」


 蓮は歯を食いしばった。


「真白は、テスト前だけ机を綺麗にします。でも、綺麗にしただけで満足して、勉強はあんまり進みません」


 父親の声も続く。


「風邪をひくと、母さんの味と違うって文句を言いながら、私の作った雑炊を全部食べます」


 女の声が低くなる。


「忘れる。母も、兄も、父も、ぜんぶ忘れる」


 父親の顔が歪んだ。


 母親の話は、春野家に刺さる。


 そこを狙っている。


 敦は短く言った。


「お父さん、取られるな。そこも餌です」


 父親は震えながら顔を上げた。


「……真白は、母さんの写真に毎朝水を替えます。蓮が忘れても、あの子は忘れません」


 木箱の音が一瞬止まった。


 御影が目を細める。


「効いてる」


 烏丸が言った。


「十六時二十七分」


 隣の建物の窓に反射した西日が、細い線になって部屋へ差し込んだ。


 橘がカーテンの隙間を御影の指示通りに調整する。


 光は床を這い、ゆっくりと木箱へ向かう。


 敦は真白だけを見た。


 木箱を見ない。


 鏡を見ない。


 敵を見ない。


 守る相手を見る。


 光が木箱の角に触れた。


 次の瞬間、箱の中から黒い光が噴き出した。


 光なのに黒い。


 そうとしか言えないものだった。


 部屋の温度が一気に下がる。


 札が震える。


 御影が叫ぶ。


「開きます!」


 木箱の蓋が内側から押し上げられた。


 細く、長い黒い指が、隙間から何本も伸びる。


 蓮が悲鳴を飲み込んだ。


 父親が椅子から立ち上がりかけ、真壁に肩を押さえられる。


 烏丸が鋭く言った。


「まだ撃たない。真白さんの糸に絡んでいます」


「見えてます」


 敦は左手で白い添え木を維持した。


 黒い指の一本が、真白の糸へ絡みついている。


 その指だけは焼けない。


 まだだ。


 御影の青い線が走る。


「返し、浮かせます!」


 青い線が黒い指と糸の隙間に入り込む。


 細い。


 震えている。


 だが、正確だ。


 黒い指が、ほんのわずかに糸から浮いた。


「今!」


 御影が叫んだ。


 敦は右手を上げた。


 白い光が掌に集まる。


 炎ではない。


 だが、燃える。


 刃ではない。


 だが、断てる。


 向こうで呪いを焼いた時の力。


 瘴気の沼を裂いた力。


 ただし、今は全体へ流さない。


 狙う。


 黒い返しだけ。


「そこは、焼いてええんですね」


「焼いて!」


 御影の声が飛ぶ。


 敦の目が細くなった。


「ほな、消えろ」


 白い光が、指先から走った。


 細い線だった。


 だが、触れた瞬間、黒い指が白く燃え上がった。


 熱はない。


 煙もない。


 ただ、黒いものだけが存在を許されず、音もなく崩れていく。


 女の声が悲鳴を上げた。


「いたい!」


「知らん」


 敦は短く言った。


 次の黒い指が伸びる。


 御影が青い線で浮かせる。


 烏丸が叫ぶ。


「左上はだめ! 真白さんの糸に触ってます!」


 敦は撃たない。


 右下。


「そこはいい!」


 撃つ。


 白い光が走る。


 黒い指が燃える。


 さらに三本。


 御影が浮かせる。


 烏丸が地雷を避ける。


 敦が焼く。


 さっきまでのもどかしさは、もうなかった。


 力を出せないのではない。


 力を出す場所を選んでいるだけだ。


 そして、選べたなら、敦の力は圧倒的だった。


 木箱の隙間から伸びていた黒い指が、次々と白い火に呑まれて消える。


 鏡の奥から、古い女の声が歪んだ。


「白い人、見せて。あなたの中を見せて」


 敦の視界の端に、白い部屋のようなものが揺れた。


 帰る場所のない自分。


 家族のいない自分。


 仕事も、家も、何もない自分。


 そこを覗こうとしてくる。


 敦は奥歯を噛んだ。


 だが、今度は揺れなかった。


「俺の話は、後や」


 敦は真白を見た。


「今は、この子の番や」


 蓮が泣きながら叫んだ。


「真白は、ツナマヨを二個食べます! 俺の分まで取ります! 風呂で変な歌を歌います! ホラー映画を見るくせに、夜のトイレに一人で行けません!」


 父親も続く。


「甘い卵焼きが好きです! 母さんのエプロンをまだ持っています! 朝が弱くて、でも写真の水だけは替えます!」


 真白の指が布団を掴んだ。


 黒い糸が、ぐっとこちら側へ戻る。


 御影が叫んだ。


「戻り口、開きました!」


 木箱の中の鏡が、ぎしりと鳴る。


 黒い口が大きく開く。


 そこから、真白を引き戻す道が一瞬だけ見えた。


 同時に、向こう側の気配も一気に押し寄せる。


 黒い髪。


 白粉の匂い。


 濡れた指。


 無数の視線。


 御影の札が一枚、燃え尽きた。


「もたない!」


 御影が叫んだ。


 敦は左手の白い添え木を強めた。


 烏丸が即座に言う。


「強すぎる!」


 敦はぎりぎりで落とす。


「すみません!」


「謝る暇があるなら、右手で口を焼いて!」


「了解!」


 敦は右手を木箱へ向けた。


 ただし、鏡面は見ない。


 気配だけで狙う。


 御影が青い線で、焼いていい縁を示す。


 そこだけが、敦には白く浮かんで見えた。


「その縁です! 鏡の口! 真白さんの糸には触れない!」


「見えてます」


 敦は息を吸った。


 そして、初めて少しだけ力を解放した。


 部屋が白く染まった。


 光は爆発しなかった。


 奔流にもならなかった。


 だが、鋭かった。


 白い炎が、鏡の開いた口の縁だけを走る。


 黒いものが悲鳴を上げる。


 木箱の中で、鏡が激しく震えた。


 外の廊下で、誰かが叫ぶ。


「スマホが熱っ!」


「画面、白くなった!」


 橘の声が飛ぶ。


「全員、画面を伏せたまま離れてください!」


 敦の白い炎は、外へ伸びかけていた視線も焼いていた。


 スマホ。


 窓。


 金属。


 映るものへ伸びていた細い黒い糸が、次々と断たれていく。


 御影が息を呑んだ。


「外の道まで……」


「焼いていいんですよね」


「はい。そこは、全部」


「ほな」


 敦は右手を握った。


「まとめて消えろ」


 白い炎が、部屋の外へ伸びた黒い視線だけを焼いた。


 壁は焦げない。


 畳も燃えない。


 人にも触れない。


 ただ、覗こうとするものだけが燃える。


 廊下のざわめきが、一気に遠のいた。


 木箱の中の女の声が、怒りに変わる。


「返さない」


「返してもらう」


 敦は低く言った。


 御影が両手で印を結ぶ。


「蓮さん、お父さん、今!」


 蓮が叫んだ。


「真白! 帰ってこい! お前のツナマヨ、俺もう取らへんから!」


 父親も声を張った。


「帰ってこい! 何もできん父親やけど、それでもここがお前の家や!」


 その言葉に、真白の胸元の黒い糸が大きく震えた。


 敦は白い添え木で包む。


 御影が青い線で道を縫う。


 烏丸が叫ぶ。


「今、右手を少しだけ落として! 左はそのまま!」


 敦は従った。


 白い炎が一瞬弱まる。


 その隙間を、真白の糸が通った。


 黒い返しが食い込もうとする。


 御影が叫ぶ。


「返し、三つ!」


「場所!」


「胸元から二寸外、木箱側!」


「そこはいい!」


 烏丸が叫ぶ。


 敦は撃った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 白い光が走り、黒い返しが燃え尽きる。


 真白の体が、布団の上で跳ねた。


 目が開く。


 今度は、焦点が合っていた。


 真白は荒く息を吸い、蓮を見た。


「……お兄、泣きすぎ」


 蓮の顔が崩れた。


「真白!」


「まだ強く抱くな」


 敦が言った。


 声は強くなかったが、蓮は反射的に止まった。


 敦は真白の胸元を見た。


 黒い糸は消えている。


 鏡との繋がりは、切れた。


 なら、ここから先は敦の領分だった。


「御影さん。もう治してええですね」


 御影は、息を切らしながら頷いた。


「はい。今なら」


 敦は真白の額に手をかざした。


 掌から、白い光が落ちる。


 さきほどまでの、黒いものを焼く光ではない。


 傷を塞ぎ、冷えた血を巡らせ、弱った呼吸を支えるための光だった。


 真白の青白かった頬に、ゆっくりと赤みが戻る。


 浅かった呼吸が深くなる。


 指先の震えが収まり、汗ばんだ額から冷たさが抜けていく。


 蓮が息を呑んだ。


 父親は、声も出せずにその光を見ていた。


 真白が小さく呟く。


「……あったかい」


 敦は静かに息を吐いた。


「体は少し戻しました。でも、数日はちゃんと病院で診てもらってください。飯も水も足りてへんし、体力はかなり落ちてます」


 御影も頷いた。


「怪異は離れました。でも、衰弱は現実のものです。医師の確認は必要です」


 父親が何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 敦は困ったように頭をかいた。


「俺だけちゃいます。御影さんが道を作って、烏丸さんが地雷避けて、橘さんと真壁さんが外を止めて、蓮くんらが真白さんを呼び戻したんです」


 真白が薄く目を開ける。


「……聖者さん?」


 敦は苦笑した。


「その呼び方、ネットっぽいからやめてほしいんですけど」


「じゃあ……ガチムチさん?」


「悪化してます」


 蓮が泣きながら笑った。


 父親も、泣き顔のまま笑った。


 張り詰めていた部屋に、ほんの少しだけ人の空気が戻る。


 その一瞬だけは、怪異も、国も、動画も関係なかった。


 助かった。


 まず、それでよかった。


 だが、御影はすぐに表情を戻した。


 木箱へ最後の札を叩きつける。


「閉じ」


 青い線が木箱を縫い込む。


 敦は右手の白い炎を細くし、鏡の口の縁をもう一度焼いた。


 黒い女の声が遠ざかる。


「白い人……白い人……」


「また来んな」


 敦は短く言った。


 白い炎が走り、木箱の中の鏡が、ぴしりと音を立てた。


 割れた。


 ただし、砕け散りはしない。


 鏡面に細い亀裂が入り、そこへ御影の札が吸い込まれるように貼りついた。


 部屋の重さが、すっと抜けた。


 湿った空気が消える。


 雨の日の押し入れのような匂いも薄れていく。


 敦は大きく息を吐いた。


 膝が少しだけ重い。


 久しぶりに、ちゃんと力を使った感覚があった。


 御影は木箱の前で座り込んだ。


「……戻りました」


 蓮が顔を上げる。


「本当ですか」


「はい。今度こそ」


 その言葉を聞いた瞬間、蓮はその場に崩れ落ちた。


 父親も真白の手を握り、何度も何度も頭を下げていた。


 橘が端末を操作しながら言った。


「病院と警察、自治体はこちらで調整します。動画の件も、三上さんが動いています。春野家の個人情報についても、拡散を抑えます」


 真壁が廊下から戻ってきた。


「外はほぼ片づいた。一人、スマホ画面を見て倒れたが、命に別状はない」


「その人も確認してください」


 御影が言う。


「鏡を通して触られた可能性があります」


「分かった」


 真壁が再び出ていく。


 敦は壁にもたれた。


 体が少し熱い。


 だが、嫌な熱ではない。


 力を使った後の、白い残り火のような熱だ。


 烏丸が木箱のそばにしゃがんだ。


 さっきまで軽口を叩いていた顔から、表情が消えている。


「御影さん」


「何ですか」


「これ、事故ではありません」


 部屋の空気が、再び変わった。


 蓮が真白の手を握ったまま顔を上げる。


 父親も固まった。


 御影が烏丸の横に膝をつく。


「どういう意味です」


 烏丸は布に包まれかけた鏡の裏側を指した。


「古い封じの下に、新しい痕があります。自然に弱まったんじゃない。誰かが、最近、封じを甘くしている」


 御影の顔色が変わった。


「人為的に?」


「はい。ただし、物理的にこの部屋へ誰かが入ったとは限りません。術で外から触った可能性もあります」


 父親が青ざめた。


「そんな……」


 御影は父親の方を向いた。


「今は断定しません。ご家族を責める話ではありません」


 烏丸も頷く。


「それと、もう一つ」


 敦が目を細めた。


「何です」


「この鏡が起こされたのは、龍宮寺さんが世に出る前でしょう」


 敦は黙った。


 烏丸は続ける。


「だから、最初からあなたを呼ぶために真白さんを餌にした、という流れではありません。時間が合わない」


「ですよね」


 敦は短く言った。


 そこは、敦も引っかかっていた。


 梅田の動画が出たのは、つい最近だ。


 真白の異変は、その前から始まっている。


 最初から自分を狙った罠なら、順番がおかしい。


「でも」


 烏丸は割れた鏡面を見ないようにしながら言った。


「途中から、誰かが便乗しました」


「便乗?」


「梅田の動画であなたが現れた。春野蓮さんの投稿で、あなたがこの件に関わる可能性が出た。誰かが、その偶然を利用した」


 御影の声が低くなる。


「つまり、鏡を起こした者と、龍宮寺さんを観測した者は同一とは限らない」


「はい。ただし、繋がっている可能性は高いです」


 敦は静かに拳を握った。


 今度は、白い力を漏らさない。


 怒りを餌にされることは、もう分かっている。


 だが、怒るなという方が無理だった。


 真白の件が最初から自分狙いでなかったとしても、途中から誰かが見ていた。


 子どもが死にかけている現場を、観察に使った。


 助けを求める声を、材料にした。


 烏丸は敦を見た。


「龍宮寺さん。たぶん、あなたが何を焼けるのか。どう動くのか。どこまで見えるのか。それを、誰かが見ました」


「でしょうね」


「普通の素人ではありません。古い封じを触り、怪異の餌の作り方を知っている」


 橘が端末を握り直した。


「榊原さんへ共有します。春野家の保護レベルを上げます」


「お願いします」


 御影は鏡を見下ろした。


「それと、連盟本部にも。内側の調査が必要です」


 敦は割れた鏡を見なかった。


 もう見る必要はない。


 真白は戻った。


 それだけは勝った。


 だが、終わってはいない。


 この世界には、怪異がいる。


 退魔師がいる。


 能力者がいる。


 国が動く。


 動画が広がる。


 そして、人が苦しんでいる場を見世物にする者がいる。


 敦はゆっくりと息を吐いた。


「烏丸さん」


「はい」


「その誰か、また仕掛けてきますか」


 烏丸は少しだけ黙った。


 それから、静かに答えた。


「来ます」


「でしょうね」


「でも、さっきより未来は悪くありません」


「何でです」


 烏丸は真白を見た。


 蓮に手を握られ、父親に見守られながら、弱々しくも確かに息をしている少女を。


「一人、助かったからです」


 敦は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ拳を開いた。


 真白がかすれた声で呟く。


「……ツナマヨ、食べたい」


 蓮が泣きながら笑った。


「二個買う。俺の分もやる」


「ほんま?」


「ほんま」


「じゃあ、許す」


 父親がまた泣いた。


 敦はその光景を見て、ようやく少しだけ笑った。


 帰る場所。


 鏡の向こうの声は、そこを突いてきた。


 けれど、今ここには、帰ってきた子がいる。


 なら、今日のところはそれでいい。


 御影が割れた鏡を封印布で包みながら、低く言った。


「龍宮寺さん」


「はい」


「さっきの浄化と治癒、規格外です」


「褒めてます?」


「半分は」


「もう半分は?」


「怖いです」


「正直ですね」


「でも」


 御影は少しだけ目を伏せた。


「今日、その力があってよかった」


 敦は返事に困った。


 結局、頭をかくだけになった。


「なら、まあ、よかったです」


 その時、橘の端末が震えた。


 橘は画面を見て、表情を硬くした。


「榊原さんからです」


「何て?」


 敦が聞く。


 橘は一度、春野家の父娘を見た。


 それから声を落とした。


「黒い手の動画を最初に拡散したアカウントが消えました。ただ、消える直前に一文だけ投稿しています」


 部屋が静かになる。


 橘はその文を読み上げた。


「《白い聖者、確認》」


 敦の背筋に、冷たいものが走った。


 烏丸がサングラスの奥で目を伏せる。


 御影は封印布を握る手に力を込めた。


 敦は何も言わず、割れた鏡を見ないまま、静かに息を吐いた。


 助けることはできた。


 だが、見られた。


 次に来るものは、偶然ではない。



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