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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第6話 白い添え木

 札が灰になった瞬間、部屋の空気が変わった。


 重い。


 冷たい。


 それでいて、ぬるく湿っている。


 雨の日に閉め切った押し入れの奥を、そのまま肺に押し込まれるような気配だった。


 蓮が妹の名を呼ぼうとした。


 御影が鋭く手を上げる。


「呼ばないで」


 声は小さい。


 だが、刃物のように通った。


 蓮は口を閉じた。


 唇が震えている。


 布団の上の真白は、目を閉じたままだった。


 けれど、その唇だけが、わずかに動いている。


「鏡の向こうが……起きる」


 その言葉の後、木箱の中から、また音がした。


 かり。


 かり。


 かり。


 爪で木を引っかく音。


 いや、違う。


 木箱の内側ではない。


 もっと薄いもの。


 鏡の表面。


 向こう側から、誰かがこちらへ爪を立てている。


 敦は拳を握った。


 体の奥で、白い力が暴れようとする。


 焼け。


 祓え。


 断て。


 そうすれば、この黒い気配は消える。


 少なくとも、敦の感覚はそう告げている。


 だが、同時に分かっていた。


 強すぎる。


 この狭い部屋で力を流せば、鏡だけでなく、真白の中に伸びている細い繋がりまで焼く。


 それは、救いではない。


 破壊だ。


「龍宮寺さん」


 御影が言った。


「光を抑えてください。今、あなたの力は相手にとって目印になっています」


「目印?」


「暗い海の上で、灯台が急に点いたようなものです」


「ええ例えですね。最悪や」


 敦は息を吐いた。


 肩から力を抜く。


 拳を開く。


 聖者の力を押し込める。


 完全には消せない。


 だが、外へ漏れないように、体の奥で丸め込む。


 白い火を、布で包むように。


「それでいいです」


 御影は木箱の前に座り直した。


 鞄から札を三枚取り出す。


 さっきの札より厚い。


 紙の繊維に、銀色の細い線が混じっている。


 御影は札を指に挟み、短く息を整えた。


「春野蓮さん」


「は、はい」


「あなたは妹さんの名前を呼ばないでください。今、名前は糸になります」


「糸……?」


「呼べば、向こう側もその名を掴みます」


 蓮の顔がさらに青くなった。


 台所のほうで、椅子がきしむ音がした。


 そこには、春野家の父親が座っていた。


 四十代半ばくらいの男。


 髪は乱れ、頬はこけ、目の下に深い隈がある。


 今まで声も出せず、ただ状況を見ていたのだろう。


「名前を呼ぶなって……じゃあ、どうしたら」


 父親の声は掠れていた。


 御影は振り返らなかった。


「今は、呼ばないことが守ることです」


 その言葉に、父親は口を噤んだ。


 蓮も同じだった。


 何もできない家族。


 それは見ているだけでつらい。


 敦は、思わず視線を逸らしかけた。


 けれど、逸らさなかった。


 助けるために来た。


 そう言ったのは自分だ。


 なら、見なければならない。


 御影が札を木箱の周囲に置いた。


 東西南北。


 いや、四方ではない。


 三枚。


 欠けている。


「一枚足りないんですか」


 敦が聞くと、御影はわずかに目を動かした。


「分かりますか」


「形が閉じてない」


「本来なら四方封じです。でも、完全に閉じると、真白さんの意識も戻れなくなる」


「逃げ道を残してる?」


「はい。その逃げ道を、向こう側も狙っています」


「嫌な二択やな」


「怪異は、たいていそうです」


 御影は札の上に指を置き、低く唱え始めた。


 祝詞のようで、そうでもない。


 古い日本語の響きと、聞き取れない音が混じっている。


 敦には意味までは分からない。


 だが、力の流れは見えた。


 御影の言葉に合わせて、札から細い線が伸びる。


 白ではない。


 淡い青。


 それが木箱を囲む。


 弱い。


 敦の浄化と比べれば、驚くほど細い。


 だが、雑ではない。


 糸の一本一本が、きちんと意味を持っている。


 引っかける場所。


 締める場所。


 逃がす場所。


 傷つけてはいけない場所。


 力の量ではない。


 手順だ。


 御影は、この世界の怪異を相手にするための作法を知っている。


 敦はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 任せていい。


 少なくとも、今は。


 木箱が、がたん、と鳴った。


 蓮が肩を跳ねさせる。


 父親が立ち上がりかけた。


 橘が静かに手で制する。


「動かないでください」


「でも、真白が」


「今、近づく方が危険です」


 橘の声は穏やかだった。


 だが、迷いはなかった。


 父親は唇を噛み、椅子に座り直した。


 木箱の札が、もう一枚、黒く染まり始める。


 御影の額に汗が浮いた。


「早い……」


「どないします」


 敦が聞く。


「まだ触らないで」


「分かってます」


「でも、見てください。繋がりが変わったら教えて」


 敦は真白を見た。


 少女の胸の奥から伸びる黒い糸。


 細い。


 硬い。


 だが、さっきより少し太くなっている。


 糸というより、釣り針に近い。


 こちらから引けば、奥の返しが肉を裂く。


 そんな嫌な形をしていた。


「糸が、針みたいになってます」


 御影の表情が固まった。


「返しは?」


「あります。こっちから引いたら、真白さんの中を裂く」


「やっぱり」


「やっぱり?」


「この鏡は、助けようとする者を待っています。無理に引き戻そうとした瞬間、真白さんの意識を餌にして、こちら側へ出てくる」


 蓮が息を呑んだ。


「そんな……」


 敦は木箱を睨んだ。


 気持ち悪い。


 呪いそのものではない。


 もっと性格が悪い。


 助けたいという感情を、罠にしている。


 誰かを救おうとする手を待っている。


 そして、その手ごと食う。


「悪趣味やな」


 敦の声が低くなった。


 御影がすぐに言う。


「怒らないで」


「分かってます」


「本当に?」


「だいぶ怪しいです」


「なら、深呼吸してください」


 敦は言われた通りにした。


 吸う。


 吐く。


 また吸う。


 向こうでは、怒りで何度も失敗した。


 敵を潰すだけなら怒りは燃料になる。


 けれど、誰かを助ける時、怒りは手元を狂わせる。


 今は、燃やす時ではない。


 支える時だ。


 玄関の外で、声がした。


「ここ? ここやって!」


「マジで中に聖者おるん?」


「撮れ撮れ」


 蓮の顔が強張った。


 父親が立ち上がる。


「何や、あいつら……」


 真壁が無言で玄関へ向かった。


 橘も続く。


 扉の向こうから、真壁の低い声がした。


「下がれ」


「いや、俺ら別に」


「下がれ」


 それだけで、廊下の声が少し遠のいた。


 だが、完全には消えない。


 スマホの通知音。


 小さな笑い声。


 好奇心。


 興奮。


 ざわめき。


 その感情が、部屋の空気をさらに濁らせた。


 木箱の黒い滲みが、じわりと広がる。


 御影が舌打ちした。


「外の騒ぎを食ってる」


「感情が餌ってやつですか」


「はい。恐怖、怒り、好奇心。特に、見たい、暴きたい、という欲は鏡と相性が悪い」


「最悪の組み合わせですね」


「ええ」


 敦は玄関の方を見た。


 今すぐ外へ出て、全員追い払いたい。


 だが、動けば部屋の封じが薄くなる。


 怒れば、怪異の餌になる。


 殴れば、動画になる。


 何もかもが、こちらの手を縛ってくる。


 真白の唇がまた動いた。


「……みてる」


 少女の声ではない。


「みんな、みてる」


 木箱の中から、かり、かり、と音がする。


「みたいなら、みせてあげる」


 御影の顔色が変わった。


「まずい。外の視線を通す気です」


「どういうことです」


「撮影しているスマホの画面を、鏡の代わりにする」


 敦の背筋が冷えた。


「そんなことできるんですか」


「弱い怪異ならできません。でも、これは古い」


 その瞬間、廊下の外で若者の悲鳴が上がった。


「うわっ、何これ!」


「画面、黒っ!」


「手、手が映ってる!」


 御影の言葉を聞いた橘が、即座に廊下へ声を飛ばした。


「全員、スマホを伏せてください! 画面を見ないで!」


 騒ぎが広がる。


 父親が青ざめた。


 蓮が妹の布団へ近づきかける。


 敦は片腕で蓮の肩を止めた。


「動くな」


「でも!」


「動いたら、あいつの思うつぼや」


 蓮は歯を食いしばった。


 敦の手の下で、少年の肩が震えている。


 怖いだろう。


 悔しいだろう。


 自分の妹が目の前にいて、何もできない。


 その痛みは、敦にも覚えがあった。


 助けたいのに、手を出せない。


 それは、戦うよりずっときつい。


 御影の札が一枚、焦げた。


 青い線が揺れる。


「御影さん」


 敦は低く言った。


「このままやと、もたへんのちゃいますか」


「もたせます」


「どうやって」


「私が封じます」


「足りますか」


 御影は答えなかった。


 それが答えだった。


 敦は静かに言った。


「俺の力を使うなら、どう使えばいい」


 御影が振り向いた。


「勝手に使わないと言いましたね」


「だから聞いてます」


 御影は一瞬だけ、迷った。


 それから、覚悟を決めた顔になった。


「焼かないでください」


「はい」


「祓わないでください」


「はい」


「切らないでください」


「はい」


「支えてください」


 敦は目を細めた。


「支える?」


「真白さんとこちら側を繋ぐ道を、あなたの力で包む。浄化ではなく、補強です。腐った橋を燃やすのではなく、白い添え木を当てる」


「そんな細かいこと、できるか分かりませんよ」


「できなければ、真白さんは今夜もたない」


 御影は真っ直ぐ敦を見た。


「やるか、やらないかです」


 敦は笑いそうになった。


 怖くて。


 重くて。


 でも、逃げたくなかった。


「分かりました」


 敦は真白の枕元に膝をついた。


 触れない。


 手をかざすだけ。


 体の奥に押し込めていた白い力を、ほんの少しだけほどく。


 いつものように流してはいけない。


 炎ではない。


 刃でもない。


 湯気でもない。


 糸。


 細い糸。


 向こうで何度も傷を縫った時の感覚を思い出す。


 裂けた肉を無理やり閉じるのではなく、寄せて、支えて、治る力を逃がさない。


 治癒ではない。


 浄化でもない。


 ただ、支える。


 白い力が、敦の掌から細く伸びた。


 御影が息を呑む。


「そのまま。強めないで」


「これ以上出したら、燃えます」


「分かっています。今の細さで」


「きついですね」


「我慢してください」


「言うのは簡単やなあ」


 敦は奥歯を噛んだ。


 力を細く保つ。


 それは、重い岩を持ち上げるより難しかった。


 全力なら簡単だ。


 燃やすなら簡単だ。


 断つなら簡単だ。


 だが、壊さず、焼かず、包む。


 それは、敦がもっとも苦手な力の使い方だった。


 白い糸が、真白の胸元へ近づく。


 そこで、黒い針のような繋がりが反応した。


 ぎちり、と音がした気がした。


 木箱の中から、また声が漏れる。


「白い人」


 真白の口が動く。


「やめて」


 敦の手が止まりかけた。


 御影がすぐに言う。


「聞かないで。それは真白さんの意思ではありません」


「分かってます」


「でも、揺れました」


「人の声で言われたら、揺れますよ」


「揺れてもいい。止まらないで」


 御影は札の上に指を置いた。


 青い線が、白い糸の周囲を囲む。


「私が道を作ります。あなたは支える」


「了解」


「蓮さん」


 御影が言った。


 蓮がびくりとする。


「妹さんの名前は呼ばないで。代わりに、今日の朝食を思い出してください」


「朝食?」


「名前ではなく、日常を繋ぎにします。今朝、何を食べました」


 蓮は戸惑った。


 だが、必死に思い出す。


「……食べてないです」


「昨日の夜は」


「コンビニのおにぎり。俺と父さんだけ。真白は、食べられなくて」


「具は?」


「鮭と、昆布」


「真白さんが好きなのは?」


「ツナマヨです。いつも、安い時に二個買って」


 蓮の声が震えた。


「俺が一個食べようとしたら、めっちゃ怒って……」


「それを思い出してください。名前ではなく、その子が生きている日常を」


 御影の声は静かだった。


 敦は、その意味を少しだけ理解した。


 名前は糸になる。


 だが、日常は重しになる。


 人をこちら側へ留める重し。


 父親が震える声で言った。


「あの子、卵焼きは甘い方が好きで……母親に似て、砂糖を多めに入れろって、いつも」


 御影が頷く。


「続けてください」


「日曜の朝は、寝癖ひどくて。洗面所を蓮と取り合って。怒ると、すぐ頬を膨らませて」


 父親の声が崩れていく。


 蓮も泣いていた。


「ホラー映画は好きなくせに、夜のトイレは一人で行けなくて。俺を起こして。こっちは眠いのに」


 敦の白い糸が、わずかに安定した。


 黒い針が、少しだけ緩む。


 御影の青い線が、その隙間へ入っていく。


「いいです。そのまま」


 御影が言った。


「真白さんを、怪異に取られた被害者としてではなく、普段の真白さんとして思い出してください」


 敦は歯を食いしばる。


 白い力を細く保つ。


 蓮と父親の声が、部屋に積もっていく。


 ツナマヨ。


 甘い卵焼き。


 寝癖。


 ホラー映画。


 夜のトイレ。


 学校のプリントを出し忘れること。


 母親の写真の前で、こっそり話していること。


 その一つ一つが、真白の輪郭を作っていく。


 怪異が掴んでいる「名前」ではない。


 家族が知っている、生きた少女の形。


 木箱の中から、低い唸り声がした。


 不満。


 怒り。


 焦り。


 敦にはそう聞こえた。


「効いてる」


 敦が言うと、御影が頷いた。


「今です。添え木を、胸の奥ではなく、糸の外側へ」


「外側?」


「中に入れないで。入れたらあなたの力が強すぎる。外から添わせるだけ」


「注文多いな」


「命がかかっています」


「分かってます」


 敦は白い糸を、さらに薄く広げた。


 包帯。


 いや、添え木。


 黒い針の周囲を、直接触れないように支える。


 ほんの少しでも力を込めれば、黒い針は焼ける。


 だが、同時に真白の中も焼ける。


 だから、触れない。


 寄り添うだけ。


 支えるだけ。


 敦の額から汗が落ちた。


 体力ではない。


 集中力が削られていく。


 御影が青い線を動かす。


 札の一枚が焦げる。


 もう一枚も端が黒くなる。


「蓮さん、お父さん、続けて」


 御影が言う。


 蓮は涙を拭いながら、声を出した。


「あいつ、歌が下手で。でも、風呂場でずっと歌ってて。父さんがうるさいって言うと、さらに大きい声で」


 父親が泣きながら笑った。


「ああ。そうだ。音程がずれてるのに、本人は上手いと思ってる」


 真白の指が動いた。


 今度は、先ほどのような不気味な動きではない。


 微かに、布団を掴むような動きだった。


 蓮が息を呑む。


 御影が低く言う。


「まだ呼ばない」


 蓮は両手で口を押さえた。


 木箱の中で、何かが激しく暴れた。


 がたん。


 がたん。


 がたん。


 札が次々に黒く染まる。


 御影の顔から血の気が引いた。


「来ます」


「何が」


「向こう側が、手を伸ばす」


 その瞬間、木箱の蓋の隙間から、黒い指が出た。


 細い。


 長い。


 濡れている。


 人の指のようで、人のものではない。


 蓮が悲鳴を上げかける。


 父親が立ち上がる。


 敦の中の力が爆ぜかけた。


 焼け。


 祓え。


 断て。


 だが、その直前に、御影が叫んだ。


「まだ!」


 敦は止めた。


 ぎりぎりで。


 黒い指は、木箱の縁を掴んだ。


 部屋の中に、古い化粧の匂いが広がる。


 白粉。


 油。


 湿った髪。


 鏡の向こうから、女の声がした。


「その子を、返してほしいの?」


 誰も答えなかった。


 御影が口を開く。


「問答しません」


「返してほしいなら、見せて」


 声は笑っていた。


「白い人の中、見せて」


 敦の背筋に、冷たいものが走った。


 自分を見ている。


 真白ではなく。


 御影でもなく。


 家族でもなく。


 敦の奥を。


 白い力の源。


 五年分の傷。


 隠している手札。


 そこへ、鏡の向こう側が目を向けている。


「見せるか、アホ」


 敦は低く言った。


 御影が短く命じる。


「龍宮寺さん、添え木を維持。私が指を落とします」


「できますか」


「できます」


 御影は札を一枚、口にくわえた。


 両手で印を組む。


 青い線が一瞬だけ太くなった。


「祓戸、返し縫い」


 御影の指が空を切った。


 青い線が針のように走り、木箱から出た黒い指を縫い止める。


 黒い指が震えた。


 女の声が歪む。


「いたい」


「帰りなさい」


 御影の声は冷たい。


「ここは、あなたの鏡ではない」


 青い線が締まる。


 黒い指が、一本ずつ箱の中へ押し戻されていく。


 敦はその間、白い添え木を維持した。


 燃やしたい。


 祓いたい。


 今すぐこの嫌なものを消したい。


 だが、御影の術は正確だった。


 細く、弱く、しかし必要な場所へ届いている。


 敦の力は、その術を壊さないように支えるだけでいい。


 支えるだけ。


 それが、こんなに難しい。


 最後の黒い指が箱の中へ戻った瞬間、御影が札を木箱へ叩きつけた。


「閉じ」


 音は小さかった。


 だが、部屋全体が震えた。


 木箱の隙間から漏れていた黒い滲みが、少しだけ引いた。


 真白の胸元から伸びていた黒い針が、完全ではないが、細い糸へ戻っていく。


 敦は白い力をさらに薄めた。


「今、離してええですか」


「ゆっくり。急に離すと戻ります」


「ほんま、注文が多い」


「文句を言えるなら余裕があります」


「余裕はないです」


 敦は慎重に白い添え木をほどいた。


 真白の呼吸が、少し深くなる。


 青白かった頬に、ほんのわずかに血の色が戻った。


 蓮が声を漏らした。


「真白……」


 今度は、御影は止めなかった。


 ただし、強く呼ぶなというように手で示す。


 蓮は小さな声で続けた。


「真白」


 少女のまぶたが震えた。


 ゆっくりと、目が開く。


 焦点は合っていない。


 だが、確かに開いた。


「……お兄、うるさい」


 蓮の顔がくしゃりと歪んだ。


 父親が口元を押さえた。


 敦も、思わず息を吐いた。


 助かった。


 いや、まだだ。


 そう思うより早く、御影が言った。


「安心しないでください」


 声は硬かった。


「今のは、引き戻したんじゃありません。沈みきるのを止めただけです」


 蓮の顔が凍る。


「じゃあ、まだ」


「はい。繋がりは残っています」


 御影は木箱を見る。


 札は半分以上が黒く焼け、残ったものも震えている。


「今夜まで、という見立ては変わりません。むしろ、向こう側はこちらを認識しました」


 敦は膝に手を置いたまま、木箱を見た。


 さっきの声。


 白い人の中を見せて。


 あれは、真白だけを狙っていない。


 もう、こちらも見られている。


 橘が廊下から戻ってきた。


 表情は厳しい。


「外の見物人は警察が散らしています。ただ、短い動画が上がりました。黒い手が映ったと言って騒ぎになっています」


「最悪やな」


 敦は呟いた。


 真壁も戻ってきた。


「一人、画面を見て倒れた。命に別状はないが、しばらく使い物にならん」


 御影が眉を寄せる。


「鏡を通して触られたんです」


「画面越しに?」


「はい。深くはありません。でも、これで噂が広がる」


 三上から橘の端末へ連絡が入った。


 橘が耳に当てる。


「はい。……分かりました。榊原さんへ共有してください」


 橘は通話を切り、こちらを見た。


「榊原さんからです。祓戸連盟本部が正式に介入を決めました。さらに、別の能力者が一人、こちらへ向かっているそうです」


 敦は眉を上げた。


「別の能力者?」


「限定的な予知ができる人物です。鏡の事案で、過去に協力実績があると」


 御影が小さく息を吐いた。


「本部が、そこまで出すんですか」


「それだけ危険という判断です」


 真白が布団の中で、小さく震えた。


 敦はその様子を見て、拳を握った。


 今度は、力を漏らさないように。


 蓮が涙を拭いながら言った。


「聖者さん……真白、助かりますよね」


 敦はすぐには答えなかった。


 助かると言いたい。


 言えない。


 だが、逃げるつもりもない。


「助けるために、まだやれることはある」


 敦は言った。


「だから、勝手に諦めるな」


 蓮は、何度も頷いた。


 木箱の中で、鏡が小さく鳴った。


 ちりん。


 鈴のような音だった。


 だが、その音の奥に、声が混じっていた。


「白い人」


 今度は、真白の口ではない。


 木箱の中から直接聞こえた。


「次は、あなたも映してあげる」


 敦は静かに木箱を見た。


 怒りはある。


 だが、燃やさない。


 今はまだ。


 力を出すだけなら簡単だ。


 けれど、救うには、力だけでは足りない。


 そのことを、敦はこの世界で初めて、はっきりと思い知らされていた。


 

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