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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第5話 妹を助けてください

 敦は、三時間ほど眠った。


 眠った、というより落ちた。


 ベッドに横になり、目を閉じた瞬間、意識が底へ沈んだ。


 夢は見なかった。


 黒い玉座も、白い部屋も、血の匂いも出てこなかった。


 ただ、深く沈んで、引き上げられた。


 目を開けると、天井の白い照明が見えた。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 異世界の野営地ではない。


 ネットカフェでもない。


 梅田の高架下でもない。


 国の一時事務所。


 仮眠室。


 敦はゆっくり体を起こした。


 体は軽い。


 傷も疲労も、普通の人間よりはるかに早く抜ける。


 だが、頭の奥には鈍い重さが残っていた。


 五年分の記憶。


 昨日に戻された現実。


 動画。


 国。


 怪異。


 退魔師。


 そして、眠る直前に見た一文。


《梅田の聖者さん。もし本当にいるなら、妹を助けてください》


 敦は枕元のスマホを手に取った。


 画面を開く。


 通知は増えていた。


 梅田の動画。


 まとめ記事。


 知らないアカウントの投稿。


 聖者。


 政府。


 拉致。


 陰謀。


 救助。


 嘘。


 本物。


 偽物。


 人の言葉が、洪水のように流れていた。


「……寝てる間に世界進みすぎやろ」


 敦は小さくぼやいた。


 問題の投稿を開く。


 投稿者は、匿名に近いアカウントだった。


 名前は、ハル。


 アイコンは空の写真。


 投稿は短い。


《梅田の聖者さん。もし本当にいるなら、妹を助けてください。病院でも原因が分かりません。お願いします》


 直接、敦に送られたものではない。


 宛先もない。


 ただ、ネット上に浮かんだ叫びだった。


 それが関連投稿として、敦のスマホに流れてきただけ。


 分かっている。


 敦個人に届いたわけではない。


 だが、胸に引っかかる。


 助けを求める声というものは、そういうものだ。


 向こうでも同じだった。


 城門の外で泣く母親。


 呪われた腕を抱えた兵士。


 井戸の前で膝をつく村人。


 助けてください。


 その言葉は、世界が違っても形を変えない。


 敦はスマホを伏せた。


 その瞬間、腹が鳴った。


 かなり大きく。


「……まず飯やな」


 聖者の力より、胃袋のほうが正直だった。


 敦は部屋を出た。


 廊下には真壁が立っていた。


 壁にもたれるでもなく、完全に警備の姿勢だ。


 仮眠室の前で、ずっと待っていたらしい。


「起きたか」


「おかげさまで。ずっとそこに?」


「交代でな」


「俺、保護されてるんですか? 監視されてるんですか?」


「両方だ」


「正直ですね」


「隠しても仕方ない」


 真壁は顎で事務室を示した。


「飯は用意してある」


「大盛りですか」


「大盛りだ」


「それは信用できます」


 事務室に入ると、机の上に弁当が置かれていた。


 白飯がぎっしり詰まっている。


 唐揚げ。


 焼き魚。


 卵焼き。


 味噌汁。


 さらに、ファミレスから持ち帰った唐揚げも温め直されていた。


 敦は思わず手を合わせた。


「ありがたい」


 三上がパソコンの向こうから顔を上げる。


「足りますか?」


「今は足ります」


「今は、なんですね」


「燃費悪いんで」


 敦は椅子に座り、弁当に箸をつけた。


 米がうまい。


 味噌汁がうまい。


 唐揚げがうまい。


 異世界の保存食と比べるのは失礼なほど、現代の飯はうまい。


 敦が黙々と食べていると、橘が紙コップの茶を置いた。


「体調は?」


「腹が減ってる以外は大丈夫です」


「精神面は?」


「それ聞かれて、元気ですって答える人おるんですか」


「少ないですね」


「ほな、少なくない側です」


 橘はそれ以上追及しなかった。


 敦は飯を口に運びながら、スマホを机に置いた。


「寝る前に見た投稿なんですけど」


 三上がすぐ反応した。


「妹さんの件ですか」


「もう見てるんですね」


「関連投稿は拾っています。あれは龍宮寺さん個人へのメッセージではありません。公開投稿です。あなたが梅田の動画を何度か検索したので、関連として表示された可能性が高いです」


「そこは分かってます」


「ですが、気になるんですね」


「気になります」


 敦は唐揚げを噛みながら言った。


「助けてください、って書いてあったんで」


 榊原が奥の部屋から出てきた。


 手には資料を持っている。


 顔色はあまり良くない。


「その投稿について、少し調べました」


「早いですね」


「三上が優秀なので」


 三上が小さく頭を下げた。


 榊原は資料を机に置いた。


「投稿者は本名を出していません。ただ、過去の投稿や写真から、大阪市内在住の高校生男子である可能性が高い。妹は中学生。数日前から原因不明の昏睡状態に近い症状が出ている」


 敦の箸が止まった。


「病院は?」


「行っています。検査では大きな異常なし。ただし、本人はほとんど目を覚まさない。目を覚ましても意味の通じないことを言う。家族は病院に不信感を持ち、退院させた」


「それ、退院させてええ状態なんですか」


「普通ならよくないわ」


 榊原は言った。


「ただ、その家族には別の接触がありました」


「別の?」


「祓戸連盟です」


 敦は味噌汁の椀を置いた。


 思ったより、早くその名前が出てきた。


「退魔師の組織でしたっけ」


「そう。正確には、怪異や呪物絡みの事案に対応する古い連絡網の一つ」


「つまり、その妹さんは病気やなくて」


「その可能性がある」


 榊原は断定しなかった。


 だが、部屋の空気が少し変わった。


 敦の中で、何かが静かに反応する。


 聖者の力。


 治癒の力ではない。


 もっと奥。


 呪いを祓い、瘴気を焼いた時の感覚。


 まだ何も見ていない。


 それなのに、体が嫌な予感を拾っていた。


「詳しく聞かせてください」


「その前に確認します」


 榊原は敦を見た。


「あなたは、これを見たら動きたくなる」


「たぶん」


「勝手に動けば、保護も契約も崩れる」


「分かってます」


「助けたい気持ちは否定しません。でも、怪異案件は、事故現場で人を引っ張るのとは違う。触れば悪化することがある。祓えば別の場所へ移ることもある。助けたつもりで、他の誰かへ押しつけることもある」


 敦は黙った。


 それは、痛い言葉だった。


 向こうでも、呪いや瘴気はそうだった。


 ただ力任せに消せばいいわけではない。


 根を断たなければ、別の形で戻る。


 分かっている。


 分かっているが、助けを求める声を聞くと、体が先に動きそうになる。


「だから、俺に見るなって話ですか」


「違うわ」


 榊原は資料を指で叩いた。


「見るなら、手順を踏む。国としても、祓戸連盟としても、あなたを無断で動かすわけにはいかない。あなた自身にも、勝手に飛び込まれると困る」


「俺は子どもちゃいます」


「ええ。だから契約の話をしている」


 敦は箸を置いた。


「で、その子は今どうなってます」


 三上がモニターに地図を出した。


 大阪市内の住宅地。


 古い集合住宅の一角が表示される。


 建物名は伏せられていた。


「投稿者の家族は、現在ここにいます。妹さんは自宅の一室。祓戸連盟の下部組織が簡易結界を張っています」


「病院やないんですか」


「病院内で不可解な現象が続いたそうです。機器の誤作動、病室の窓に黒い手形、夜間の巡回看護師の一時昏倒。病院側は公式には説明していません。祓戸連盟が介入して、家族同意の上で一時帰宅させた形です」


「それ、もう普通に怪異やん」


「普通に怪異、という言い方は新鮮ね」


 榊原が少しだけ苦笑した。


 その時、事務室のインターホンが鳴った。


 三上が画面を確認する。


「榊原さん、来ました」


「通して」


「はい」


 数十秒後、扉が開いた。


 入ってきたのは、若い女だった。


 二十代半ばほどに見える。


 白いブラウスに黒いジャケット。


 ぱっと見は普通の会社員だ。


 だが、首元には小さな勾玉。


 左手首には、古びた紐のようなものを巻いている。


 そして、鞄からかすかに香の匂いがした。


 敦は箸を持ったまま、その女を見た。


 女も敦を見た。


 目が合った瞬間、女の表情が固まった。


「……あなたが、龍宮寺敦さんですか」


「そうです」


「祓戸連盟、大阪支部調整役の御影沙夜です」


 御影沙夜。


 名乗り方は丁寧だった。


 だが、声の奥に警戒がある。


 敦はその警戒に覚えがあった。


 魔物を見る目ではない。


 危険物を見る目でもない。


 もっと面倒なもの。


 強すぎる味方を見た時の目だ。


「何か?」


 敦が聞くと、御影は少し眉を寄せた。


「あなた、何を祓ってきたんですか」


 部屋の空気が止まった。


 橘がわずかに動く。


 真壁も、壁際で姿勢を変えた。


 敦は箸を置いた。


「何の話です?」


「あなたから、浄化の圧が漏れています。普通の霊能者なら、近くにいるだけで膝をつきます」


「そんなつもりはないです」


「つもりがなくてそれなら、余計に危険です」


 御影の声は硬かった。


 敦は少しだけ不快になった。


 危険。


 また、それだ。


 分かっている。


 だが、初対面で言われ続けると、さすがに胸の奥が重くなる。


 榊原が間に入った。


「御影さん。彼は協力者であって、管理対象ではありません」


「協力者として扱うには、強すぎます」


「本人の前で言うこと?」


「本人が自覚しておくべきことです」


 御影は敦を見た。


「春野家の件に、あなたを近づけるのは反対です」


 敦はそこで、投稿者の苗字を知った。


「春野」


 三上が補足する。


「投稿者は春野蓮。妹は春野真白。中学二年生です」


 敦はその名前を口の中で繰り返した。


 春野真白。


 妹を助けてください。


 文字だけだった助け声に、名前がついた。


 それだけで、少し重くなる。


「何が起きてるんですか」


 敦が聞くと、御影はすぐには答えなかった。


 榊原が促す。


「彼にも必要な範囲で共有してください。勝手に動かれる方が困ります」


 御影は小さく息を吐いた。


「春野真白は、古い鏡に触れました」


「鏡?」


「家の押し入れから出てきた手鏡です。骨董品というほど高価なものではありません。ただし、裏に古い封じの痕がありました」


「封じが壊れた?」


「完全には壊れていません。だから厄介なんです。中途半端に開いた」


 敦は眉を寄せた。


「中途半端に開くと、どうなるんです」


「向こう側と、こちら側が細く繋がります。真白さんは、その隙間に意識を引っかけられている」


「つまり、魂が持っていかれかけてる?」


 御影が初めて、少し驚いた顔をした。


「分かるんですか」


「似たものを見たことがあります。俺の知ってるものとは違うかもしれませんけど」


「どこで?」


「それは、まだ言いません」


 御影の目が細くなる。


 だが、榊原が口を挟んだ。


「彼は全部を話さない。それはこちらも了承しています」


「危険な相手に、ですか」


「危険だからこそ、無理に聞き出さない」


 御影は納得していない顔だった。


 だが、それ以上は追及しなかった。


「春野真白を助ける方法は?」


 敦が聞いた。


 御影は少しだけ視線を落とした。


「あります。ただし、簡単ではありません。鏡との繋がりを切り、内側へ引かれた意識を戻す必要があります」


「できるんですか」


「本来なら、七日かけて儀式をします。家族の血縁、土地の神社、鏡の由来、封じの文様。全部調べて、順に剥がす」


「今は?」


「時間が足りません」


 その言葉で、敦の背筋が少し冷えた。


「どれくらい?」


「今夜が限界です」


 事務室の音が遠くなった。


 今夜。


 それはつまり、あと半日もない。


「なんでそんな状態で、兄貴がネットに投稿してるんですか」


 敦の声が少し低くなった。


「助けてほしいからです」


 御影は答えた。


「私たちでは足りないと思ったのでしょう」


「足りないんですか」


「足りません」


 悔しさを隠さない声だった。


 敦は少しだけ、御影を見る目を変えた。


 この女は、プライドで否定しない。


 助けられない可能性を、自分で認めている。


「なら、俺が行く意味はあるんちゃいますか」


「あります」


「じゃあ」


「同時に、あなたが行く危険もあります」


 御影は言った。


「あなたの浄化は強すぎる。雑に力を流せば、鏡の繋がりごと真白さんの意識を焼くかもしれない。逆に、鏡の向こう側にいるものが、あなたを目印にしてこちらへ出てくるかもしれない」


「向こう側にいるもの?」


「まだ名前は分かりません。ただ、人の未練だけで生まれたものではありません。古い。かなり古いものです」


 敦は目を閉じた。


 魔族でも、向こうで見た呪霊でもない。


 こちらの世界には、こちらの闇がある。


 そして今、その闇に中学生の少女が引っかかっている。


「俺ができることは?」


「見てください」


 御影は言った。


「触らないで。祓わないで。治そうとしないで。まず、見てください」


「見るだけ?」


「あなたが何を感じ取るか。それが必要です」


 敦は首を傾げた。


「俺、専門家ちゃいますよ」


「専門外の力だから、意味があるかもしれない」


「都合いいですね」


「ええ。都合よく見ています。だから私は、あなたを近づけたくない」


「でも来てほしい」


「はい」


 御影は唇を噛んだ。


「子どもが一人、死にかけています」


 その一言で、敦の中の迷いはかなり削れた。


 榊原がすぐに言う。


「龍宮寺さん。行くかどうかはあなたが決めて。ただし条件をつけます」


「何です」


「単独行動禁止。橘と真壁が同行。御影さんの指示を無視して能力を使わない。危険が制御不能と判断したら撤退する」


「撤退できる状況なら」


「できない状況にする前に止まって」


 敦は黙った。


 向こうでは、何度も止まれなかった。


 ここで止まれば誰かが死ぬ。


 そう思って突っ込み、さらに状況を悪くしたこともある。


 勇気と無謀は違う。


 それを知ったのは、たくさんの失敗の後だった。


「分かりました」


 敦は言った。


「勝手に治さない。勝手に祓わない。まず見る。御影さんの指示を聞く」


 御影が少しだけ意外そうにした。


「素直ですね」


「俺は、向こうで力任せに生き残ってきただけです。こっちの怪異の作法は素人です。知らんことは聞きます」


「それなら、少し安心しました」


「少しだけですか」


「かなり怖いので」


「正直な人ばっかりやな、ここ」


 三上が小さく笑った。


 榊原は時計を見る。


「移動しましょう。三上、ネット側の監視継続。春野蓮の投稿に群がっているアカウントを洗って。配信者が現地へ向かっている可能性がある」


「もう一部います」


 三上の声が硬くなった。


 画面に、別の投稿が表示される。


《妹助けての家、ここじゃね?》


《近いから見に行く》


《聖者来るかも》


《ガチなら現地凸する》


 敦の拳が、机の下で握られた。


「ほんま、何なんやこいつら」


「好奇心です」


 榊原が言った。


「悪意ではない。だから、たちが悪い」


 真壁が無言で立ち上がった。


「車を出す」


「警察には?」


 橘が聞く。


「近隣トラブルとして所轄へ連絡済み。大ごとにはしない。大ごとにしたら、余計に集まる」


 御影は鞄から小さな札束を取り出し、確認した。


 紙は古く見えるが、印字は新しい。


 筆文字と、細かい幾何学模様が重なっている。


 古いものと現代のものが混じった感じだった。


 敦はそれを見て、少しだけ興味を持った。


「それ、効くんですか」


「効かない札を持ち歩く趣味はありません」


「そらそうですね」


「あなたは?」


「何がです?」


「何か持っていくものは?」


 敦は一瞬だけ、頭の奥の黒い空間を意識した。


 そこには、向こうから持ち帰った物がある。


 武器も、薬も、石も、見せれば確実に面倒になるものも。


 だが、言わない。


 出さない。


 今はまだ。


「この体だけで」


「本当に?」


「今言えるのは、それだけです」


 御影は見抜いたような目をした。


 だが、口には出さなかった。


「分かりました」


 事務所を出る直前、榊原が敦に声をかけた。


「龍宮寺さん」


「はい」


「助けられない可能性もあります」


「分かってます」


「助けられなかった時、自分だけを責めないで」


 敦は少しだけ笑った。


「それは、たぶん無理です」


「無理でも、言っておく必要がある」


「覚えときます」


 四人は事務所を出た。


 橘。


 真壁。


 御影。


 敦。


 黒い車は、今度は前より少し重く感じた。


 車内で御影は、春野家の概要を説明した。


 築四十年以上の集合住宅。


 三年前に母親を病気で亡くし、父親と兄妹の三人暮らし。


 問題の手鏡は、先月、押し入れの奥から見つかった。


 真白がそれを拾い、何日か持ち歩いた。


 最初は、鏡に知らない女の顔が映ると言っていた。


 次に、夜中に誰かが名前を呼ぶと言い出した。


 それから、眠る時間が増えた。


 そして一昨日、ほとんど目を覚まさなくなった。


「病院では?」


 敦が聞くと、御影は首を横に振った。


「肉体に異常が薄い。だから説明がつかない。けれど、鏡との繋がりは濃くなっている」


「鏡は今どこに?」


「春野家にあります。結界内で封じています」


「壊したら?」


「真白さんの意識が戻らないまま切れる可能性があります」


「面倒ですね」


「怪異はだいたい面倒です」


 車は住宅地へ入った。


 昼を過ぎたばかりだというのに、空気が妙に暗い。


 雲が出ているわけではない。


 街の色は普通だ。


 自転車で走る主婦もいる。


 学校帰りにはまだ早いが、制服姿の学生もちらほらいる。


 だが、目的地に近づくほど、敦の肌がざわついた。


 魔力ではない。


 瘴気でもない。


 もっと薄く、湿っていて、粘るような気配。


「……気持ち悪いな」


 敦が呟くと、御影がこちらを見た。


「感じますか」


「嫌な空気くらいは」


「普通の人間は、近くに来て少し頭が重くなる程度です」


「俺は普通ちゃうんでしょうね」


「ええ」


「即答やめてもらえます?」


 車が停まった。


 古い集合住宅の前。


 すでに、数人の若者がスマホを片手にうろついていた。


 住人ではない。


 明らかに見物だ。


 一人が黒い車に気づき、スマホを向ける。


「おい、来たんちゃう?」


「マジ? 聖者?」


 真壁が先に降りた。


 ただ降りただけで、空気が変わる。


 元警察か自衛隊か。


 どちらにしても、こういう場の圧のかけ方を知っている。


「関係者以外は敷地の外へ」


 真壁の声は大きくない。


 だが、通る。


 若者の一人が笑った。


「いや、道路やし。撮影自由っしょ」


「敷地内だ」


「は? 怖」


 橘が静かにスマホを出した。


「現在、居住者への迷惑行為として記録しています。警察にも連絡済みです」


 その一言で、若者たちの勢いが少し落ちた。


 敦は最後に車を降りた。


 スマホが一斉に向いた。


 その瞬間、胸の奥が冷えた。


 まただ。


 助けを求める声の場所に、見物人がいる。


 誰かの命が危ないかもしれないのに、画面の向こうの盛り上がりを求める人間がいる。


 敦は奥歯を噛んだ。


 怒るな。


 手を出すな。


 ここで怒れば、また動画になる。


 剣を向けてくる相手より、よほど厄介だ。


 御影が小さく言った。


「龍宮寺さん、視線を合わせないでください。挑発されます」


「分かってます」


「怒っていますね」


「だいぶ」


「それも、怪異に触られやすくなります」


 敦は目を細めた。


「怒りに寄ってくるんですか」


「人の強い感情は、怪異の餌です」


「ほんま面倒やな」


「だから面倒と言いました」


 四人は建物へ入った。


 古い階段。


 薄暗い廊下。


 昼なのに、蛍光灯がちらついている。


 壁には、ところどころ黒ずんだ染みがあった。


 敦はその染みを見て、足を止めた。


 ただの汚れではない。


 指の跡。


 小さな手形。


 子どもの手ではない。


 もっと細く、長い。


 人の手に似ているが、人のものではない。


「見えてますね」


 御影が言った。


「見えん方が幸せそうですね」


「その通りです」


 二階の角部屋。


 扉の前には、白い紙札が三枚貼られていた。


 そのうち一枚は、端が黒く焦げている。


 御影の顔が厳しくなった。


「結界が削られてる」


「中は?」


「急ぎます」


 御影が扉を叩く。


 すぐに、内側から鍵が開いた。


 出てきたのは、痩せた少年だった。


 高校生くらい。


 目の下に濃い隈がある。


 髪は乱れ、Tシャツはよれよれだった。


 彼は御影を見て、次に橘と真壁を見る。


 そして最後に、敦を見た。


 目が大きく開く。


「……聖者さん」


 敦は返事に困った。


 その呼び名は、ネットの冗談のようでいて、この少年の声では冗談ではなかった。


「春野蓮くん?」


 橘が聞く。


 少年は頷いた。


「妹さんを見せてもらいます」


 御影が言うと、蓮はすぐに道を開けた。


 部屋の中に入った瞬間、敦は息を止めた。


 空気が重い。


 腐っているわけではない。


 だが、湿った布を肺に押し込まれるような圧がある。


 奥の和室。


 布団の上に、少女が眠っていた。


 春野真白。


 中学二年生。


 細い腕。


 青白い顔。


 胸はかすかに上下している。


 その枕元には、木箱が置かれていた。


 箱の上には札が何重にも貼られている。


 だが、その隙間から、黒い何かが滲んでいた。


 墨ではない。


 影でもない。


 もっと嫌なもの。


 敦の聖者の力が、体の奥で強く反応した。


 焼け。


 祓え。


 断て。


 そう叫ぶように。


 敦は反射的に一歩踏み出しかけた。


 その腕を、御影が掴んだ。


「触らないで」


 細い声だった。


 だが、必死だった。


 敦は止まった。


 止まれた。


「……分かってます」


「今のあなた、光りかけていました」


「すみません」


「謝るより、抑えてください」


「やってます」


 敦は息を整えた。


 聖者の力を、体の奥へ押し込める。


 向こうで汚染された沼を浄化した時の感覚とは違う。


 ここは狭い部屋だ。


 相手は怪物の群れではない。


 目の前には、眠った少女がいる。


 力を間違えれば、助けるどころか壊す。


 敦はそれを自分に言い聞かせた。


 蓮が震える声で言った。


「助けられますか」


 誰もすぐには答えなかった。


 御影も。


 橘も。


 真壁も。


 敦も。


 その沈黙が、答えのようだった。


 蓮の顔が歪む。


「お願いします……何でもします。俺、何でもするんで。妹を、真白を助けてください」


 敦の胸が痛んだ。


 何度も聞いた言葉だった。


 何でもします。


 命でも払います。


 金なら出します。


 だから助けてください。


 助けられるなら、どれほど楽だったか。


 全部を助けられる力なら、どれほど良かったか。


 敦は蓮の前に膝をついた。


 目線を合わせる。


「何でもするって、簡単に言うたらあかん」


 蓮が目を見開く。


 敦は続けた。


「そういう言葉に、悪いやつはつけ込む。怪異も、人間もや。妹さんを助けたいなら、まず自分を安売りすんな」


「でも……!」


「助けたい気持ちは分かる。俺も、できることはする」


 敦は真白のほうを見た。


「でも、俺一人で勝手には動かん。御影さんの指示を聞く。無茶して真白さんを壊したら意味ない」


 蓮は唇を噛んだ。


 涙が浮かんでいる。


「……本当に、助けてくれるんですか」


 敦は少しだけ迷った。


 助ける、と言いたい。


 言えば、この少年は少し救われる。


 だが、できなかった時、その言葉は刃になる。


 敦は何度も、それをやった。


 だから、今度は言葉を選ぶ。


「助けるために来た」


 それが、今言える精一杯だった。


 御影が木箱の前に座った。


「始めます。龍宮寺さん、真白さんを見てください。触れずに。何を感じるかだけ教えて」


「分かりました」


 敦は真白を見た。


 顔。


 呼吸。


 指先。


 首元。


 そして、魂の気配。


 異世界の言葉なら、魂魄。


 現代でどう呼ぶのかは知らない。


 だが、敦には分かった。


 少女の中に、一本、黒い糸のようなものが伸びている。


 胸の奥から、木箱へ。


 木箱から、もっと遠くへ。


 いや、遠くではない。


 深く。


 鏡の向こう側。


「繋がってます」


 敦は言った。


「胸の奥から、箱へ。箱の中の鏡から、さらに奥へ」


 御影の表情が変わった。


「見えるんですか」


「見えてる、というより分かる」


「太さは?」


「細い。でも、硬い。引っ張ったら切れるというより、こっちが裂ける感じです」


 御影が息を呑んだ。


「正確すぎる……」


「ええ情報ですか」


「ええ。けれど、厄介です」


 その時、真白の指がぴくりと動いた。


 蓮が声を上げかける。


 御影が手で制した。


 部屋の温度が、一段下がった気がした。


 木箱の札が、一枚、黒く染まっていく。


 敦の背中に、冷たいものが走った。


 真白の唇が、わずかに開く。


 声が漏れた。


 少女の声ではなかった。


 か細い。


 だが、どこか古い。


「……白い人」


 敦は動かなかった。


 御影も動かない。


 真白の閉じたまぶたが震える。


「白い人、来たらあかん」


 蓮が口元を押さえた。


 敦は拳を握った。


「何でや」


 思わず聞いていた。


 御影が止めるより早かった。


 真白の口元が、少しだけ歪んだ。


 笑ったようにも見えた。


 泣いたようにも見えた。


「向こうも、見てる」


 木箱の中で、何かが爪を立てる音がした。


 かり。


 かり。


 かり。


 鏡の内側から、何かがこちらを引っかいている。


 敦の聖者の力が、今度こそ白く漏れた。


 部屋の空気が震える。


 御影が叫んだ。


「抑えて!」


 敦は歯を食いしばった。


 拳を開く。


 力を押し殺す。


 燃やすな。


 祓うな。


 まだだ。


 まだ、相手も、繋がり方も、何も分かっていない。


 力で押し切るのは、ここでは最適解ではない。


 それを、敦は自分に叩き込んだ。


 真白の声が、もう一度漏れた。


「鏡の向こうが……起きる」


 次の瞬間、木箱に貼られた札の一枚が、音もなく灰になった。


 

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