第26話 ノイズを嗅ぐ男
翌朝、敦は契約書の束を机の上に置いたまま、少しだけ固まっていた。
読んだ。
全部ではない。
だが、読めるところまでは読んだ。
分からないところには、付箋を貼った。
間宮が言っていた通り、一晩で全部理解する必要はない。
それでも、逃げずに目を通しただけで、妙な疲れがあった。
紙は怖い。
だが、読まない紙はもっと怖い。
そのことは、昨日だけで嫌というほど分かった。
スマホが震える。
橘からだった。
《本日午前、二件目物件の周辺確認。正式契約前に生活導線を見ます》
続けて、もう一通。
《契約書の疑問点は午後に間宮先生へ共有。持参してください》
敦は契約書の束を見た。
持参。
この紙の束を持って歩くのか。
アイテムボックスに入れれば楽だ。
だが、これは消してはいけない紙だ。
敦は少し考え、契約書を普通のトートバッグに入れた。
見える荷物として持つ。
それも今日の練習だった。
短期滞在マンションの下には、いつもの黒い車が停まっていた。
運転席は真壁。
後部座席に橘。
敦が乗り込むと、橘はまずバッグを見た。
「契約書、持ちましたね」
「はい」
「読みましたか」
「半分くらい」
「半分読めたなら十分です」
「そうなんですか」
「全部分かった顔で署名するより、分からないところを分からないと言える方が安全です」
橘はさらりと言った。
敦は少しだけ息を吐く。
「紙の世界、奥が深いですね」
「沼です」
「さらっと怖いこと言いますね」
真壁が車を出した。
向かったのは、昨日の二件目の築古マンションがある商店街だった。
今日の目的は、部屋そのものではない。
周辺の生活導線。
駅までの道。
夜の人通り。
近くのスーパー。
病院。
交番。
コンビニ。
それから、逃げ道。
橘はそう説明した。
「逃げ道まで見るんですね」
「見ます」
「普通の引っ越しでは見ない気がします」
「龍宮寺さんの普通は、まだ調整中です」
「便利な言葉ですね」
「重要です」
商店街は、昼前のゆるい賑わいの中にあった。
八百屋の店先にキャベツが積まれている。
弁当屋から揚げ物の匂いがする。
古い喫茶店の入口には、手書きのモーニングの札。
自転車に乗った主婦が、買い物袋を前かごに入れて通り過ぎる。
昨日見た時より、ずっと生活の匂いが濃かった。
敦は少しだけ肩の力を抜いた。
ここに住むかもしれない。
そう思って見ると、道の見え方が変わる。
怪異が出るかどうかではない。
夜に腹が減った時、何が買えるか。
洗濯物を干しても人目が気にならないか。
疲れて帰ってきた時、階段を上がれるか。
そういうことが、急に大事になる。
橘が手元の地図を確認する。
「駅からは徒歩十二分。商店街を通れば雨の日も半分ほど屋根があります。夜は二十一時を過ぎるとかなり店が閉まります」
「弁当屋は?」
「二十時まで」
「重要ですね」
「記録済みです」
真壁が横から短く言う。
「裏道は暗い」
「そこも見ます」
敦たちは商店街を抜け、マンションへ向かう途中の細い道へ入った。
表の通りより、少し静かだ。
古いコインランドリー。
閉まった金物屋。
自販機。
その横に、小さな公園があった。
滑り台とベンチが二つ。
昼なのに、人は少ない。
そのベンチの一つに、制服姿の少女が座っていた。
中学生か、高校生か。
手にスマホを持っている。
ただ、様子がおかしかった。
スマホの画面をじっと見たまま、まばたきをしていない。
顔色が悪い。
肩が小刻みに震えている。
敦の足が止まった。
黒い穢れはない。
鏡の時のような冷たさもない。
だが、嫌な感じはある。
耳の奥を細い針でこすられるような、不自然なざらつき。
「橘さん」
「はい。確認します」
橘が近づこうとした瞬間、公園の反対側から若い男が飛び込んできた。
灰色のパーカー。
細い体。
寝癖のような黒髪。
目の下に濃い隈。
片手に、ひびの入ったスマホを持っている。
「見るな!」
男は少女の前に滑り込むように立ち、彼女のスマホを手で伏せた。
少女がびくりと震える。
その瞬間、敦の耳の奥のざらつきが少し弱まった。
男は少女に向かって早口で言う。
「画面から目ぇ離せ。深呼吸。通知は触るな。音も聞くな」
少女は泣きそうな顔で頷く。
橘がすぐに前へ出た。
「何をしているんですか」
男は橘を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「うわ。そっち側か」
「そっち側?」
「名刺出す人ら」
橘の表情がわずかに変わる。
男は敦も見た。
そして、一瞬だけ固まった。
「……何や、あんた。電波が白い」
「電波?」
敦は眉を寄せた。
男は少女のスマホを伏せたまま、舌打ちする。
「説明してる暇ない。これ、普通のアプリちゃう。見守りアプリの皮かぶった探知針や」
「探知針?」
敦が聞くと、男は少女のスマホを指で示した。
画面は伏せられている。
それでも、敦にはスマホの周囲に細い光のようなものが見えた。
黒ではない。
青白い。
だが、気持ち悪いほど細かく震えている。
少女の目と、スマホと、どこか遠くの回線。
それらを繋ぐ、細い針のようなノイズ。
怪異ではない。
呪いでもない。
もっと現代的な嫌なもの。
電波。
信号。
通知。
それに、何か別の力が混じっている。
橘が少女へ声をかける。
「大丈夫ですか。救急車を呼びます」
少女は震えながら答えた。
「頭が……音が、ずっと」
「名前は言わなくていいです。画面を見ないでください」
黒玻璃堂の時とは違う。
それでも橘の判断は早かった。
少女の名前を呼ばせない。
画面を見せない。
まず切り離す。
敦は一歩前へ出た。
「俺、支えます」
「お願いします」
敦は少女に触れない距離で手をかざした。
治癒ではない。
浄化でもない。
頭の中に刺さっている針を無理に抜けば、余計に傷つける気がした。
だから、まず呼吸を支える。
白い力を薄く広げ、少女の周囲に柔らかい膜を作る。
耳から入る音を少し鈍らせる。
画面から伸びる細いノイズを、直接焼かずに弱める。
少女の肩の震えが、少し収まった。
灰色パーカーの男が、敦を横目で見た。
「何やそれ。雑やのに優しいな」
「褒めてます?」
「半分」
「半分か」
男は自分のひび割れたスマホを取り出し、少女のスマホの上にかざした。
画面は割れている。
だが、内部は動いているらしい。
男のスマホに、細い線のようなものがいくつも浮かぶ。
文字ではない。
地図でもない。
ただ、波の乱れのようなものだった。
男は顔をしかめる。
「やっぱり近い。商店街の中継器を踏んでる。いや、正確には中継器に見せかけてる」
橘が低く言う。
「あなたは何者ですか」
「ただの通行人」
「通行人は、そんなものを見ません」
「ほな、変な通行人」
男は返事しながら、空中をつまむような動きをした。
敦には、少女のスマホから伸びていた青白い針が一本、男の指先に引っかかるのが見えた。
男はそれを嫌そうに引っ張る。
針がぴんと張った。
少女が小さく呻く。
敦はすぐに白い膜を厚くした。
「強く引くな」
「分かってる」
「分かってる引き方に見えませんけど」
「俺はこういうの専門や」
「なら、もっと優しく」
男が一瞬、敦を見る。
そして、少しだけ口元を歪めた。
「白いでかい人、うるさいな」
「よく言われます」
男は針を直接切らなかった。
指先で揺らし、スマホから少し浮かせる。
敦には、その意図が分かった。
人に刺さったものを、先に浮かせる。
それから切る。
黒玻璃堂で学んだ手順と似ている。
「橘さん、これ焼いていいですか」
「御影さんがいません」
「怪異やなくても、やる場所は見えます」
橘は一瞬だけ敦を見た。
それから、頷く。
「人に刺さっている部分は焼かない。浮いた針だけ」
「はい」
敦は白い光を、爪の先ほどに細くした。
男が浮かせた青白い針。
その人から離れた部分だけを、そっと撫でる。
じゅ、とも鳴らない。
ただ、針が白く崩れた。
少女の体から力が抜ける。
橘がすぐに支える。
「大丈夫ですか」
「……音、消えました」
少女は涙目でそう言った。
男は少女のスマホを手に取り、電源を切ろうとした。
橘が止める。
「待ってください。証拠保全が必要です」
「電源落とさんと、また刺さる」
「こちらで保全袋に入れます」
「遅い」
「消されるよりはいい」
二人の視線がぶつかった。
敦はその間に入った。
「今、どっちが先ですか」
男は即答した。
「電池を切る」
橘も即答する。
「通信遮断して保全」
「それ、できます?」
「できます」
橘は鞄から黒い小袋を出した。
黒玻璃堂の時に見たものとは違う。
薄い金属繊維の入った遮断袋らしい。
少女のスマホを入れる。
袋の口を閉めると、敦の耳の奥のざらつきがさらに消えた。
男が小さく舌打ちする。
「用意ええな」
「必要なので」
「そういうところが嫌やねん」
橘は表情を変えない。
「あなたの名前を聞かせてください」
「嫌です」
「未成年が被害を受けています。あなたは事情を知っている」
「知ってるから逃げたいんです」
男は後ずさる。
真壁がすでに公園の出口側に立っていた。
男はそれを見て、顔をしかめる。
「うわ。出口押さえるタイプ」
「逃げるな」
真壁の声は低い。
男は両手を軽く上げた。
「俺、犯人ちゃうで」
「なら、逃げるな」
「犯人ちゃうから、巻き込まれたくないんや」
敦は男を見る。
怪異の匂いはない。
呪物の気配もない。
ただ、疲れている。
寝ていない目。
疑われ慣れた顔。
そして、少女のスマホを伏せた時の動き。
あれは、助けるための動きだった。
「橘さん」
「はい」
「この人、少なくとも今は助けました」
「分かっています」
橘は男へ向き直る。
「身柄を拘束するつもりはありません。ただ、事情を聞く必要があります」
「それを拘束の始まりって言うんですよ」
男は笑った。
笑っているが、目は笑っていない。
「登録。管理。協力要請。外部協力者。便利な言葉つけて、結局使うんやろ」
その言葉が、敦の胸に少し刺さった。
少し前の自分も、似たようなことを思っていた。
今も、完全に消えたわけではない。
橘は静かに言う。
「使い潰さないために、契約があります」
「契約書で首輪に名前つけるん、得意そうやもんな」
男の声は軽い。
だが、底に硬いものがある。
敦は一歩前へ出た。
「名前だけでも、聞かせてもらえませんか」
「何であんたに」
「俺も、まだ説明できへん手札持ってるから」
男の目が、少しだけ動いた。
敦は続ける。
「俺も、登録されたくないとか、使われたくないとか、思ってました。今も思ってます」
「ほな何でそっち側におる」
「一人で全部持つと、潰れるからです」
男は黙った。
敦は少女を見る。
橘が救急と連絡を取り、少女は少しずつ落ち着いている。
名前は聞いていない。
スマホは遮断袋に入っている。
通行人が何人か遠巻きに見ていたが、真壁が視線だけで散らしていた。
「あなたも、さっき一人でやろうとしてた」
敦は男に言った。
「助ける気はあった。でも、証拠とか病院とか、その後のことは一人やときついでしょう」
「慣れてる」
「慣れたらあかんこともあります」
男は鼻で笑った。
「白いでかい人、説教くさい」
「よく言われます」
「ほんまに言われてそう」
少しだけ、男の肩の力が抜けた。
橘の端末が震える。
三上からだった。
橘は短く応答し、スピーカーに切り替える。
『橘さん、遮断前後の周辺通信ログを確認しました。少女の端末そのものはもう切れていますが、近くの無料Wi-Fi側に妙な接続履歴があります。通常のアプリ通信に見えますが、経由先が不自然です。複数を回って、最終的に国内の小規模サーバーへ流れています』
灰色パーカーの男が、すぐに口を挟む。
「遅い。そこは抜け殻。本体は商店街の無料Wi-Fiの看板に寄生してる」
三上の声が一瞬止まった。
『……誰ですか』
「通行人」
『通行人がなぜそんな判断を?』
「匂うから」
『匂いでは証拠になりません』
「証拠にするのはそっちの仕事やろ」
三上の声が少し低くなる。
『感覚だけで現場を動かされると困ります』
「画面だけ見てたら刺さった子を見落とすで」
空気が少し険しくなる。
敦は思わず口を挟んだ。
「二人とも、初対面から喧嘩しないでください」
橘が静かに言う。
「三上さん、今はログと証拠化を優先してください」
『……了解です』
橘は次に、灰色パーカーの男を見る。
「あなたは、今見えている異常だけを言ってください。判断はこちらで預かります」
「信用せんってこと?」
「信用するかどうかを、今ここで決めません」
橘の声は淡々としていた。
「感覚は感覚として扱います。証拠は証拠として別に取ります。混ぜると、どちらも使えなくなります」
男は少しだけ目を細めた。
「……嫌なぐらい現実的やな」
「必要なので」
敦はそのやり取りを聞きながら、少しだけ納得した。
三上は画面の向こうを記録にする。
この男は、現場の匂いを拾う。
どちらが上でも下でもない。
ただ、今はまだ同じ机には置けない。
だから橘が、間に線を引いた。
「この方ちゃう」
男は顔をしかめた。
それから、諦めたように言った。
「鳴瀬」
敦が聞き返す。
「なるせ?」
「鳴瀬律。名前聞いたやろ。満足?」
橘が記録しようとする。
鳴瀬はすぐに言う。
「漢字は書くな」
橘の手が止まった。
鳴瀬は視線を逸らす。
「名前を紙にされるの、嫌いや」
黒玻璃堂の名簿を思い出し、敦は少しだけ顔を引き締めた。
橘も同じだったらしい。
ペンを下ろす。
「では、今は音だけで扱います」
鳴瀬は少し驚いた顔をした。
「ほんまに書かんの?」
「あなたが拒否したので」
「……変な人らやな」
敦は少し笑った。
「それは否定しません」
その時、鳴瀬が急に顔を上げた。
商店街の方を見る。
「まだいる」
「何が」
敦が聞く。
「同じ匂い。三つ。いや、四つ」
鳴瀬はひび割れたスマホを握る。
「ここの周辺、端末を探してる。能力持ちか、そう見える子を拾ってる」
「能力者を探している?」
橘の声が鋭くなる。
鳴瀬は頷かない。
ただ、嫌そうに笑った。
「たぶん。俺みたいなのが引っかかると、通知が来る」
「誰に」
「知らん。知りたくもない」
「でも追っていた」
「子どもが刺さるからや」
その言葉だけは、軽くなかった。
敦は鳴瀬を見る目を少し変えた。
この男は逃げたい。
でも、放っておけない。
それはかなり面倒な性質だ。
そして、少しだけ覚えがある。
橘が言った。
「場所を教えてください。こちらで確認します」
「嫌や」
「なぜ」
「教えたら、俺も一緒に引っ張られる」
「保護できます」
「保護って言葉、嫌いやねん」
鳴瀬は後ずさる。
真壁が一歩動く。
敦は片手でそれを制した。
真壁がこちらを見る。
敦は小さく首を振る。
「逃げたい人を、今ここで押さえつけるのは違う気がします」
橘は何も言わなかった。
ただ、鳴瀬を見ている。
鳴瀬は敦を見た。
「あんた、そっち側なのに、止めんの?」
「止めたいですけど」
「けど?」
「俺も、急に全部話せって言われたら逃げます」
鳴瀬は一瞬だけ黙った。
それから、ポケットから小さな紙片を取り出した。
レシートの裏だった。
そこに、細い字で何かを書く。
住所ではない。
店名でもない。
数字と、短い言葉。
鳴瀬はそれを敦へ投げた。
敦は受け取る。
《北側アーケード 青い看板 夕方に鳴る》
「何ですか、これ」
「匂いの強い場所」
「行ったら危ない?」
「行かんかったら、また誰か刺さる」
鳴瀬はそう言って、灰色のフードをかぶった。
「俺は知らん。あんたらが勝手に動いただけ」
「鳴瀬さん」
敦が呼ぶと、鳴瀬は嫌そうに振り返る。
「さん付けやめて。むずむずする」
「じゃあ、鳴瀬」
「何」
「さっきの子、助けてくれてありがとう」
鳴瀬は、心底困ったような顔をした。
「そういうのも、やめて」
「何で」
「次も助けなあかん気になる」
それだけ言って、鳴瀬は商店街の人混みへ歩いていった。
走らない。
隠れもしない。
ただ、歩く。
けれど、数秒後には人の流れに紛れて見えなくなった。
敦はレシートの裏を見た。
青い看板。
夕方に鳴る。
また、訳の分からない言葉が増えた。
だが、今度は怪異ではない。
呪物でもない。
能力者を探す何か。
スマホと回線に混じる、青白い針。
橘が静かに言った。
「龍宮寺さん」
「はい」
「新しい案件です」
「ですよね」
「ただし、今日は追いかけません。まず少女の保護、端末の保全、三上さんの解析、周辺確認」
「分かってます」
「本当に?」
敦は少しだけ笑った。
「今日は、分かってます」
真壁が商店街の方を見た。
「あの男、また現れるな」
「分かります?」
「逃げる奴は、逃げ道を見に戻る」
敦は、鳴瀬が消えた人混みを見る。
白い力とは違う。
黒玻璃堂の黒とも違う。
青白い、ざらついたノイズ。
それを嗅ぐ男。
どこにも所属していない、逃げ慣れた能力者。
敦はレシートの裏を折り、ポケットへ入れた。
部屋探しに来たはずだった。
帰る場所を探していたはずだった。
だが、その道の途中で、行き場所のなさそうな男に会った。
これは偶然かもしれない。
でも、たぶんそれだけでは終わらない。
敦は小さく息を吐いた。
「現代、ほんま手強いな」
橘が横で言う。
「記録します」
「それ、もう口癖になってません?」
「重要です」
商店街の向こうで、昼の放送が流れ始めた。
今は、ただの音楽だった。
だが、その奥に、ほんの少しだけ、青白いノイズが混じっている。
夕方に鳴る。
鳴瀬が残したその言葉が、敦のポケットの中で小さく重くなった。




