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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第25話 見えない荷物

 短期滞在マンションの部屋に、段ボールが二つ置かれた。


 会社の寮から持ち出した、敦の私物だった。


 二箱。


 それだけ。


 真壁が運び込む時も、片手で一つずつ持っていた。


 重そうな顔すらしなかった。


「ここでいいか」


「はい。ありがとうございます」


 真壁は部屋の中を一度だけ見回した。


 窓。


 玄関。


 ベッド。


 洗面所。


 小さな台所。


 危険がないか確認するような目だった。


「何かあれば連絡しろ」


「怪異ですか」


「飯でもいい」


「そこも確認事項なんですね」


「倒れられると面倒だ」


 真壁はそれだけ言って出ていった。


 ドアが閉まる。


 部屋に、一人分の静けさが戻った。


 敦は段ボールを見下ろした。


 衣類。


 本。


 ノート。


 充電器。


 欠けたマグカップ。


 前の生活の残り。


 それは二箱しかないのに、部屋の床に置かれると妙に存在感があった。


 短期滞在マンションは広くない。


 二箱あるだけで、急に引っ越し前の部屋みたいになる。


 敦はしゃがみ込み、段ボールの側面に手を当てた。


「……入るやろか」


 誰に聞くでもなく呟く。


 アイテムボックス。


 異世界で、物資を運ぶために何度も使った力。


 干し肉。


 水袋。


 薬草。


 魔石。


 聖銀短剣。


 砦ひとつ分の矢束。


 負傷者を運ぶための担架まで、無理やり入れようとして怒られたこともある。


 それに比べれば、段ボール二箱など小さい。


 敦は部屋の中を見回した。


 窓のカーテンは閉まっている。


 玄関のドアスコープも塞いである。


 この部屋の中に、防犯カメラはない。


 少なくとも、橘が確認していた。


 敦は右手を段ボールに置いたまま、意識を奥へ沈める。


 体の外ではなく、体の内側でもない。


 どこか、白い力とは別の場所。


 開く。


 その感覚だけで、段ボールが消えた。


 音もない。


 光もない。


 床に置かれていた箱が、最初からなかったように消える。


 敦は、少しだけ笑った。


「入るなあ」


 便利すぎる。


 便利すぎて、怖い。


 もう一つの段ボールにも触れる。


 それも消えた。


 部屋の床が、急に広くなる。


 いや、元の広さに戻っただけだ。


 敦は立ち上がった。


 何もない床を見る。


 もし今、橘や三上が部屋に入ってきたら、何と言うだろう。


 段ボールはどこですか。


 どこへ運びましたか。


 誰が持ち出しましたか。


 防犯カメラには映っていません。


 説明してください。


 その顔が、容易に想像できた。


 敦は額を押さえた。


「便利なもんほど、現代では面倒やな」


 この力を見せれば、引っ越しは楽になる。


 災害支援も、医療物資の運搬も、危険物回収も、全部楽になる。


 楽になるということは、使われるということだ。


 使ってほしい人が来る。


 使わせたい人が来る。


 使わない理由を説明させられる。


 何が入るのか。


 どれくらい入るのか。


 人は入るのか。


 危険物は入るのか。


 証拠品は入るのか。


 死体は入るのか。


 そんな質問が、山ほど来る。


 敦は、アイテムボックスの中から段ボールを一つだけ出した。


 元の場所に置く。


 続けて、もう一つも出す。


 二箱が、何事もなかったように床に戻った。


 使える。


 それだけでいい。


 人前では使わない。


 防犯カメラの前でも使わない。


 説明が必要な場所では、普通に運ぶ。


 必要な時だけ、誰にも見られない場所で使う。


 敦は段ボールを見下ろし、ひとりで頷いた。


「引っ越しも、手札を隠してやるんか」


 派手さはない。


 だが、こっちの方がたぶん難しい。


 翌朝、内見の一件目は、特殊事案係の事務所に近い単身マンションだった。


 駅からも近い。


 オートロック。


 宅配ボックス。


 防犯カメラ。


 エレベーター。


 廊下も明るい。


 不動産会社の担当者は、いかにも営業慣れした若い男だった。


「こちら、単身の方には非常に人気の物件でして。セキュリティもしっかりしています」


 担当者はにこやかに言う。


 橘は淡々と設備を確認している。


 真壁はエントランスから廊下まで、逃げ道と死角を見るような目で歩いていた。


 敦は、天井の防犯カメラを見た。


 入口。


 エレベーター前。


 廊下。


 ゴミ置き場。


 自転車置き場。


 多い。


 普通に暮らすには安心なのだろう。


 だが、敦には少し違うものに見えた。


 ここでは、段ボール一つ消せない。


 いや、消せる。


 消せるが、消した後の説明が面倒になる。


 夜中に妙なものを持って帰れば、記録に残る。


 誰かを抱えて戻っても、記録に残る。


 もちろん、それは普通の人間にとっては良いことだ。


 防犯カメラは、人を守るためにある。


 けれど敦にとっては、守りと同時に檻にもなる。


 部屋はきれいだった。


 白い壁。


 小さなキッチン。


 浴室乾燥機。


 南向きの窓。


 収納もそれなりにある。


 営業担当が言う。


「こちらですと、駅にも近いですし、生活圏としてはかなり便利かと」


 敦は窓の外を見る。


 事務所のある方向が近い。


 確かに便利だ。


 何かあれば、橘たちはすぐ来られる。


 何かあれば、敦もすぐ呼ばれる。


 それが少し怖かった。


 榊原の言葉を思い出す。


 事務所が生活場所になってしまう。


 ここも、それに近いかもしれない。


 敦は小さく息を吐いた。


「便利すぎるなあ」


 橘が横を見る。


「嫌ですか」


「嫌ではないです。きれいですし」


「はい」


「でも、ここに住んだら、何かあったらすぐ呼ばれそうです」


 橘はすぐには否定しなかった。


 その沈黙が答えだった。


「呼ばないようにします」


「呼べる場所やと、呼ぶ人は出ますよ」


 敦は窓から目を離した。


「ここは、俺の部屋というより、待機部屋になりそうです」


 営業担当は意味が分からない顔をした。


 橘は、少しだけ表情を引き締めた。


「記録します。待機場所化の懸念あり」


「ほんま何でも記録しますね」


「重要です」


 一件目は、保留になった。


 二件目は、少し離れた築古マンションだった。


 駅からは歩く。


 エレベーターはない。


 三階。


 階段は狭い。


 壁には、前の住人がつけたらしい小さな傷が残っている。


 家賃は安い。


 オートロックはない。


 防犯カメラも、入口に一台だけ。


 近くには商店街があった。


 八百屋。


 弁当屋。


 古い喫茶店。


 クリーニング屋。


 昼前の通りには、買い物袋を持った年配の女性や、制服姿の学生が歩いている。


 敦は、少しだけ肩の力が抜けた。


 ここは、見られている。


 だが、カメラだけではない。


 人にも見られている。


 それもそれで面倒だが、少し種類が違う。


 不動産会社の担当者が鍵を開ける。


「築年数はありますが、室内はリフォーム済みです」


 部屋は古かった。


 だが、汚くはない。


 六畳の洋室。


 小さな台所。


 風呂とトイレは別ではない。


 収納は押し入れに近いクローゼット。


 窓は一つ。


 ベランダは狭い。


 エアコンは新しくない。


 だが、部屋の空気は悪くなかった。


 敦は中へ入る。


 床が少し鳴った。


 ぎし。


 それが妙に普通で、少し安心する。


 真壁が窓を開ける。


 橘が水回りを見る。


 営業担当が家賃と初期費用の説明を始める。


 敦はクローゼットの前に立った。


 中は空だ。


 奥行きはある。


 扉を閉めれば、廊下からは見えない。


 段ボールを置くなら、こういう場所だ。


 いや。


 置く必要すら、ない。


 そう考えかけて、敦は小さく息を吐いた。


 便利すぎる力は、便利すぎるからこそ面倒になる。


 橘が横から静かに言った。


「何か、隠しておきたい物がありますか」


 敦は一瞬、橘を見る。


 営業担当は台所の蛇口を確認していて、こちらを聞いていない。


 真壁だけが、窓際で少しだけこちらを見た。


「……あります」


 敦は短く答えた。


「でも、今は説明しません」


「分かりました」


 橘は、すぐに頷いた。


「聞きません」


「聞かないんですか」


「聞けば、資料になります」


 その言葉は、敦の胸にすっと入った。


 資料になる。


 書かれる。


 共有される。


 便利な手札になる。


 だから、聞かない。


 それは、知らないふりではない。


 知る権利を使わないという選択だった。


 橘は続ける。


「ただ、住居を選ぶ上で、説明しにくい物を人前で出し入れせずに済む環境かどうかは重要です」


「なるほど」


「見せないための部屋でもあります」


 敦はクローゼットを見る。


 この部屋は古い。


 狭い。


 駅からも遠い。


 でも、少しだけ自分の呼吸に合う。


 全部を管理されない。


 全部を隠さなくてもいい。


 普通の荷物を普通に置き、隠すべきものだけ隠せる。


 敦は言った。


「ここ、候補に残してください」


「分かりました」


 橘が紙に記録する。


「二件目、居住感あり。秘匿物管理との相性、比較的良好」


「その書き方、何か変ですね」


「正確です」


 橘はそこで、窓と玄関をもう一度見た。


「ただし、防犯面は補強が必要です。鍵、窓、連絡導線は確認します。必要なら追加の鍵やセンサーを入れます」


「そこまでします?」


「します。隠せる部屋と、危ない部屋は違います」


「それもそうですね」


 営業担当が戻ってきた。


「こちら、初期費用も抑えめです。ただ、保証会社の審査が必要でして」


 出た。


 保証会社。


 審査。


 敦の胃が、少しだけ重くなる。


 橘が自然に前へ出た。


「収入見込みと契約形態については、こちらで資料を用意します。本人に不利な形の申告はしません」


「は、はい」


 営業担当は少し戸惑いながら頷いた。


 敦はその横顔を見ながら思う。


 ここも戦場だ。


 剣はない。


 魔物もいない。


 だが、書類がある。


 審査がある。


 落ちれば住めない。


 ただし、一人ではない。


 橘がいる。


 間宮がいる。


 榊原が組む収入見込みがある。


 真壁が黙って窓と階段を確認している。


 その事実が、少しだけ心強かった。


 内見を終え、車に戻る。


 敦は後部座席に座り、少しだけ疲れた息を吐いた。


「怪異対応より平和でした?」


 橘が聞く。


「平和ですけど、別の筋肉使いますね」


「精神の筋肉ですか」


「そんな感じです」


 真壁が車を出す。


 次は健康診断だった。


 協力契約を結ぶために、最低限の身体状態を確認する必要があるらしい。


 敦としては、自分の体が普通の検査でどう見えるのか、少し不安だった。


 聖者の力。


 闘気。


 異世界で五年分鍛え直された体。


 それが現代の血液検査やレントゲンで、どこまで普通に見えるのか。


 健康診断を行うのは、特殊事案係の協力病院だった。


 一般外来とは別の小さな検査室へ通される。


 白衣の医師は、五十代くらいの女性だった。


 榊原と古い知り合いらしい。


「龍宮寺敦さんですね。今日は一般的な検査が中心です。無理な能力測定はしません」


「無理な能力測定って、あるんですか」


「やろうとする人はいるでしょうね」


「嫌ですね」


「嫌でしょう。なので、今日はしません」


 医師はさらりと言った。


 身長。


 体重。


 血圧。


 視力。


 聴力。


 採血。


 心電図。


 レントゲン。


 普通の検査が続く。


 ただ、普通の検査なのに、看護師が握力計を持ってきた時だけ、医師が先に言った。


「全力で握らないでください」


「握力検査なのに?」


「機械が壊れます」


「そんなこと」


 敦は握力計を見た。


 確かに壊しそうだった。


「どれくらいで」


「普通の成人男性として」


「その普通が難しい」


 医師は少しだけ笑った。


「では、三割で」


 敦は三割のつもりで握った。


 看護師が数字を見て固まった。


 医師が紙を覗き込む。


「……二割でお願いします」


「すみません」


 橘が横で記録している。


「龍宮寺さん、普通の三割が普通ではない」


「それ、書かなくてよくないですか」


「必要です」


 健康診断が終わる頃には、敦は怪異と戦った時とは別の疲れ方をしていた。


 病院の廊下で、橘が資料をまとめる。


「大きな異常は現時点では見つかっていません。詳細は後日」


「俺、人間扱いで大丈夫ですか」


「少なくとも、健康診断の枠には入っています」


「それ、安心していいやつですか」


「はい」


 敦は少しだけ肩の力を抜いた。


 自分はもう普通ではない。


 それは分かっている。


 でも、完全に人間から外れたわけではない。


 血圧を測る。


 採血する。


 視力を測る。


 腹が減る。


 眠くなる。


 部屋を借りる。


 それらの中に、まだ自分はいる。


 夕方、事務所へ戻ると、間宮が音声ではなく対面で来ていた。


 黒いスーツ。


 きっちりまとめた髪。


 机の上には、契約書の束。


 敦はそれを見た瞬間、少しだけ後ずさりした。


「……これ、全部読むんですか」


「読みます」


「敵意を感じる厚さですね」


「味方です」


「味方の圧が強い」


「守るための圧です」


 間宮は淡々と言った。


 契約の説明は長かった。


 協力範囲。


 拒否権。


 緊急時の連絡。


 報酬。


 休息。


 能力情報の非開示範囲。


 記録閲覧権。


 第三者からの依頼遮断。


 医療機関との連携。


 住居支援。


 敦は途中で何度か頭を抱えた。


 だが、間宮は一つずつ説明した。


 橘は横で記録する。


 榊原も同席している。


 三上は画面を見ながら、時々紙資料を運んでくる。


 烏丸は部屋の隅で、黙って甘い缶コーヒーを飲んでいた。


 間宮が最後に言った。


「重要なのは、あなたが全部を説明しなくていいということです」


 敦は顔を上げる。


「はい」


「未申告の所持品や、説明しにくい手札についても同じです」


 敦は一瞬、黙った。


 間宮は表情を変えない。


「詳細は聞きません。ただし、あなたが何かを隠している可能性は、法的リスクとして私だけが把握します」


「私だけ」


「はい。契約書には書きません。特殊事案係の共有資料にも載せません。あなたが正式に開示するまで、私の弁護メモにも具体名は残しません」


 敦は、少しだけ息を吐いた。


「聞かないんですか」


「聞けば、守る範囲が増えます。今は聞かない方が守れる」


 橘と同じことを、別の言い方で言った。


 敦は思った。


 この人たちは、知らないことで守ろうとしている。


 異世界では、強い者は何でも知りたがった。


 敵の能力。


 味方の能力。


 弱点。


 切り札。


 全部知って、使うために。


 けれど現代のこの人たちは、使わないために知らない。


 それが少し、不思議だった。


 そして、ありがたかった。


 間宮は契約書の最後のページを示す。


「署名は、今日でなくても構いません」


「え」


「一晩持ち帰って読んでください。疑問点を明日聞きます」


「急がないんですか」


「急がせる契約は危険です」


 敦は、少し笑った。


「本当に、紙って怖いですね」


「ええ。だから、味方にするんです」


 その言葉は、胸に残った。


 紙は怖い。


 名簿も、確認書も、契約書も、人を縛る。


 でも、正しく使えば、人を守る。


 剣と同じだ。


 力と同じだ。


 燃やす場所を間違えなければ、怒りも武器になる。


 書く場所を間違えなければ、紙も盾になる。


 夜、短期滞在マンションへ戻った敦は、段ボールをもう一度見た。


 二箱。


 今日は入れない。


 出しておく。


 この部屋に、自分の荷物があると分かるように。


 でも、欠けたマグカップだけは取り出して、小さな台所の棚に置いた。


 それだけで、仮の部屋が少しだけ自分の部屋に近づいた気がした。


 敦はクローゼットの扉を開ける。


 誰にも見られていない。


 防犯カメラもない。


 そこで、段ボールの一つに触れた。


 消える。


 すぐに出す。


 使える。


 隠せる。


 だが、全部は隠さない。


 それが今日の答えだった。


 敦は段ボールを部屋の隅へ戻し、契約書の束を机の上に置いた。


 アイテムボックスに入れれば、紙の束も消せる。


 だが、これは消さない。


 明日、読む。


 面倒でも、読む。


 自分を守る紙だからだ。


 敦は椅子に座り、契約書の一ページ目を開いた。


 文字が多い。


 罠みたいに細かい。


 それでも、逃げない。


 鍵を返した。


 部屋を見た。


 健康診断を受けた。


 契約書を持ち帰った。


 段ボールは、見えない場所へ入れられる。


 けれど、自分の生活まで見えなくする必要はない。


 敦は欠けたマグカップを見た。


 安物のマグカップが、台所の棚に一つある。


 それだけで、少しだけ帰る場所に見えた。


「全部隠したら、住んでる気せえへんもんな」


 小さくそう呟き、敦は契約書へ目を落とした。


 現代の戦いは、今日も続いている。


 ただし今日は、剣も光も使わない。


 使うのは、目と頭と、少しの我慢だった。


 

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