第24話 鍵を返す日
短期滞在マンションの朝は、静かだった。
黒い手もない。
映写機の音もない。
鏡の向こうから呼ばれる声もない。
カーテンの隙間から入る光が、白い壁を普通に照らしている。
ただの朝。
それだけで、少し珍しい気がした。
敦は布団の上で目を開け、しばらく動かなかった。
体は重い。
筋肉痛ではない。
聖者の力を使いすぎた疲れでもない。
もっと地味な疲れだった。
何度も止まり、何度も考え、燃やす場所を間違えないようにしてきた疲れ。
魔王軍との戦いなら、敵を殴れば前に進めた。
だが、現代ではそうはいかない。
証拠を残す。
人を焼かない。
記録する。
契約する。
休む。
帰る。
どれも必要だと分かってきた。
分かってきたからこそ、面倒でもある。
枕元のスマホが震えた。
敦は一瞬だけ身構えた。
黒玻璃堂の残り香は、もうない。
昨日、事務所で画面を解禁した。
それでも、スマホの通知音に体が反応する。
敦は苦笑しながら画面を見た。
橘からだった。
《本日十時、旧勤務先寮の退去立会い。予定通り同行します》
続けて、間宮からも連絡が入っている。
《本日は署名しない。鍵返却、私物確認、精算書類の受領のみ。必要なら電話してください》
敦は画面を見つめた。
怪異ではない。
呪物でもない。
それでも、少し胃が重くなる。
旧勤務先。
寮。
退去立会い。
戻ってきた日に、自分を待っていた現実だ。
魔王を倒して帰ってきた男は、会社の寮を出なければならない。
敦は布団の上で小さく呟いた。
「ほんま、現代は手強いな」
返事はない。
神も出てこない。
白い部屋もない。
あるのは、洗面台の鏡と、少し安い歯ブラシだけだった。
その鏡は、普通に敦を映していた。
疲れた顔。
伸びかけた髭。
厚い肩。
目だけは、少し前より落ち着いている。
敦は鏡に向かって言った。
「今日は、燃やさん日や」
そう言ってから、少し考える。
「たぶん」
短期滞在マンションの下には、黒い車が停まっていた。
運転席は真壁。
後部座席に橘。
いつもの配置に見えて、今日は少しだけ違う。
祓戸連盟の車はない。
御影も烏丸もいない。
札も、封印布も、白い杖もない。
橘は薄いファイルを膝に置いていた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は怪異なしですか」
「現時点では」
「その言い方やめません?」
「断定できない仕事なので」
「ですよね」
敦は後部座席に乗り込んだ。
真壁が短く言う。
「飯は食ったか」
「食べました」
「何を」
「おにぎり二個と味噌汁」
「足りるのか」
「昼までは」
真壁はそれ以上聞かなかった。
車が動き出す。
向かう先は、かつての勤務先が借り上げていた独身寮だった。
大阪市内から少し外れた、古い四階建ての建物。
会社名の入った看板はない。
外から見れば、普通の集合住宅だった。
敦は窓の外を見ながら、少しだけ昔のことを思い出す。
いや、昔ではない。
この世界では、数日前まで自分が暮らしていた部屋だ。
だが、敦の中では五年が過ぎている。
寮の狭い部屋。
安いスーツ。
コンビニ弁当。
眠るだけの生活。
そこから白い部屋へ呼ばれ、異世界へ落とされ、魔王を倒して戻ってきた。
戻ってきたら、部屋の中のカップ麺も、畳んだシャツも、そのままだった。
自分だけが、五年分変わっている。
橘が資料から目を上げた。
「今日の流れを確認します」
「はい」
「まず、私物を搬出します。会社貸与品は会社側へ返却。その後、空になった室内を管理会社と会社総務の担当者が確認します。最後に鍵を返却」
「荷物を出してから確認」
「はい。通常の退去確認はその順番です」
「了解です」
「原状回復や精算については、書類を受け取るだけ。署名はしません」
「間宮先生も言うてました」
「はい。特に、退職関連の追加誓約書、動画に関する確認書、秘密保持の再確認書などが出た場合、その場では署名しないでください」
「動画?」
「梅田の件、倉庫の件、黒玻璃堂関連の噂。あなたの旧勤務先にも、問い合わせが入っている可能性があります」
敦は頭を掻いた。
「会社にまで行きますか」
「行きます。ネットは、そういうものです」
「怪異より厄介な時ありますね」
「あります」
橘は淡々と言った。
「ただし、今日の相手は怪異ではありません。普通の会社の人です。腹が立っても、燃やさないでください」
「燃やしません」
「殴らないでください」
「殴りません」
「机を壊さないでください」
「そこまで言います?」
「念のためです」
運転席の真壁が低く言った。
「ドアノブもな」
「それは前科ありますね」
敦は少しだけ苦笑した。
日本橋のスタジオで壊した鍵を思い出す。
あれは必要だった。
だが、今日の寮のドアノブは、壊してはいけない。
会社寮の鍵は、返すためにある。
壊すためではない。
寮の前には、すでに二人が待っていた。
一人は管理会社の担当者。
四十代くらいの男性。
もう一人は、旧勤務先の総務担当者だった。
敦は顔を知っていた。
谷口という男だ。
直接深い関わりはない。
だが、退職手続きの時に何度か書類を渡された。
谷口は敦を見ると、一瞬だけ目を泳がせた。
それから、橘と真壁を見た。
明らかに警戒している。
「龍宮寺さん。本日は立ち会い、よろしくお願いします」
「お願いします」
敦は頭を下げた。
谷口はぎこちなく笑った。
「ええと、そちらの方々は」
橘が名刺を出す。
「龍宮寺さんの生活再建と各種手続きの確認に同席しています。代理人弁護士とも連携しています」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
谷口は名刺を見て、顔を固めた。
何の部署か、すぐには分からないのだろう。
それでも、普通の民間人ではないことは伝わったらしい。
「はあ……そうですか」
管理会社の担当者は、少し困ったように笑った。
「では、まず私物を出しましょうか」
古い階段を上がる。
二階の奥。
敦の部屋。
鍵を差し込む。
回す。
かちゃり、と音がした。
ドアが開く。
狭い部屋の匂いがした。
畳。
洗剤。
少し湿った空気。
安い消臭剤。
敦は入口で、一瞬だけ足を止めた。
ここに戻ってきたのは、数日ぶりだ。
けれど、自分の中では五年ぶりだった。
部屋の中には、以前の生活がそのまま残っていた。
畳んだ作業着。
安いカラーボックス。
コンビニでもらった割り箸。
洗濯かご。
古いスマホの充電器。
安物のマグカップ。
壁際には、退職関係の封筒。
その横に、健康保険の切替案内。
住民税の扱いについての会社からの説明書類。
敦はそれを見て、静かに息を吐いた。
魔王軍の幹部より、こっちの封筒の方が胸に来る。
部屋の荷物は多くなかった。
段ボール二箱。
衣類。
数冊の本。
古いノート。
マグカップ。
充電器。
会社から貸与されていた作業服と安全靴。
退職手続きの日には、いろいろありすぎて返却まで済ませられなかった。
寮の片付けと同時に返すことになっていたものだ。
敦はまず、自分の私物を段ボールへ詰めた。
服。
本。
ノート。
充電器。
マグカップ。
安物で、縁が少し欠けている。
捨ててもいいものだ。
だが、手に取ると少しだけ迷った。
結局、段ボールへ入れる。
前の生活を全部捨てる必要はない。
縛るものは返す。
持っていくものは、自分で選ぶ。
それでいい。
真壁が無言で段ボールを持ち上げ、階段を下りて車へ運ぶ。
私物は、あっけないほど少なかった。
残ったのは、会社へ返すものと、空になった部屋だけだった。
敦は作業服を手に取った。
名前の刺繍がある。
龍宮寺。
この世界での、戻る前の自分。
疲れて、削れて、何となく明日を迎えていた自分。
嫌いではなかった。
だが、もう戻れない。
戻るつもりもない。
作業服と安全靴を、谷口へ返す。
谷口はそれを確認し、会社貸与品の欄に印をつけた。
その後で、管理会社の担当者が空になった室内を見回した。
「大きな破損はなさそうですね。壁紙も通常使用の範囲かと」
畳。
壁。
水回り。
収納。
ひとつずつ確認されていく。
荷物がなくなった部屋は、思ったより狭く見えた。
ここで寝ていた。
ここで飯を食っていた。
ここで、疲れたまま朝を待っていた。
だが、もう自分の部屋ではない。
管理会社の担当者がチェックリストに印をつける。
「室内確認、完了です」
谷口は室内を見回しながら、ちらちらと敦を見る。
何か言いたそうだった。
橘はそれを逃さない。
「何か確認事項がありますか」
谷口は少し咳払いした。
「いえ、その……会社としても、最近のネット上の騒ぎについて、少し困っておりまして」
「ネット上の騒ぎ」
橘が復唱する。
谷口はますます言いにくそうな顔をする。
「龍宮寺さんが映っているのではないか、という動画が複数ありまして。弊社に在籍していた人物ではないかと、問い合わせが」
敦は黙っていた。
橘が答える。
「その件について、龍宮寺さんが本日この場で説明する必要はありません」
「いえ、説明というより、会社として迷惑を被らないように、念のため確認書を」
谷口が鞄から一枚の紙を出そうとした。
橘の視線が、すっと下がる。
「その書類は、こちらで受領し、代理人へ回します。署名はしません」
「いや、簡単な確認だけで」
「署名はしません」
声は大きくない。
だが、通った。
谷口は紙を半分出した状態で止まった。
敦はその様子を見ながら、胸の奥の力を押さえる。
焼く場所ではない。
怒る場所でもない。
これは橘と間宮の場所だ。
現代の戦いは、こういうところにもある。
谷口は渋々、紙をファイルごと橘に渡した。
「では、確認だけでも」
「確認します。後日、代理人から必要な連絡をします」
橘はその場で内容を読まない。
黒い紙ではない。
呪いもない。
ただの会社の書類だ。
それでも、すぐには読まない。
人を縛る紙は、怪異の札だけではない。
敦は少しだけ、そのことを実感した。
谷口が横から言った。
「龍宮寺さん、できれば会社としても、今回の件は穏便に」
敦は顔を上げた。
「穏便?」
「いえ、退職の経緯などを、外であれこれ言われると」
橘がすぐに口を開きかけた。
だが、その前に敦が言った。
「言いませんよ」
谷口が少しだけ安心した顔をする。
敦は続けた。
「俺も、会社と揉めたいわけやないです」
谷口は何も言えなかった。
敦は空になった部屋を見た。
「ただ、今日ここで変な紙には署名しません。精算とか、必要な話は間宮先生を通してください」
橘が頷く。
「その通りです」
谷口は、小さく息を吐いた。
「分かりました」
それ以上、確認書の話は出なかった。
鍵の返却は、あっけなかった。
小さな金属の鍵。
五年分の戦いより、ずっと軽い。
敦はそれを掌に乗せた。
この鍵で開く部屋には、もう戻らない。
寝るだけだった場所。
帰る場所とは言えなかった場所。
それでも、確かに自分が生活していた場所。
敦は、鍵を管理会社の担当者へ渡した。
「お世話になりました」
自然に、その言葉が出た。
管理会社の担当者は、少し驚いた顔をしてから、頭を下げた。
「こちらこそ。鍵、確かにお預かりしました」
その瞬間、胸の中で何かが一つ外れた気がした。
呪いではない。
糸でもない。
ただ、過去の自分を繋いでいた小さな金具が、かちゃんと外れただけだった。
外へ出ると、昼前の光が眩しかった。
真壁が車の横で待っている。
トランクには、私物の段ボールが二箱。
作業服と安全靴は、会社へ返した。
残ったのは、私物だけだ。
本当に少ない。
少ないのに、重かった。
寮の前で、谷口がもう一度頭を下げる。
「龍宮寺さん、その……お元気で」
妙な言葉だった。
退職者へ向ける社交辞令。
けれど、谷口の顔には少しだけ本気も混じっていた。
動画を見たのかもしれない。
何かを察したのかもしれない。
あるいは、ただ目の前の敦が以前と違いすぎたのかもしれない。
敦は軽く頭を下げた。
「谷口さんも」
それだけ言って、車へ向かった。
車が動き出す。
寮が遠ざかる。
敦は振り返らなかった。
橘が横でファイルを開かずに持っている。
「先ほどの確認書は、間宮先生へ送ります」
「読まないんですか」
「車内では読みません。変な文言があった場合、そこで反応しても困ります」
「怪異じゃなくても?」
「怪異じゃなくてもです」
敦は少し笑った。
「紙って怖いですね」
「はい」
橘は真面目に頷いた。
「人を縛る紙は、いくらでもあります」
その言葉で、昨日の名簿を思い出す。
黒玻璃堂のカード。
記録係候補。
観測者席。
警護席。
契約係。
管理席。
人を役に落とす紙。
会社の確認書も、そこまで邪悪ではない。
だが、油断すれば、人を縛る。
現代は、本当に別の戦場だ。
車は短期滞在マンションへ向かわず、特殊事案係の事務所へ戻った。
段ボールを一時的に置き、確認書を間宮へ共有するためだった。
短期滞在マンションの部屋は狭く、まだ恒久的な住まいでもない。
ひとまず事務所へ持ち込む方が、書類確認も荷物管理もしやすい。
会議室の隅に、敦の私物が置かれる。
マグカップ。
数冊の本。
充電器。
古いノート。
三上がそれを見て言った。
「荷物、それだけですか」
「それだけです」
「引っ越し、楽ですね」
「人生が軽すぎるとも言います」
三上が返事に困った顔をした。
敦は笑った。
「冗談です。半分」
烏丸が、いつの間にか入口近くにいた。
「半分はだいたい本当です」
「そこで出てくるんですね」
「良い未来が見えたので」
「何ですか」
「荷物が少ない方が、次の住む場所を選びやすい」
敦は段ボールを見た。
そう言われると、少しだけ救われる。
失ったものが少ないのではない。
動ける余地がある。
そう考えることもできるのかもしれない。
榊原が会議室へ入ってきた。
「退去立会い、お疲れさま」
「無事、鍵を返しました」
「それは大きいわ」
「大きいですか」
「ええ。あなたは昨日、黒玻璃堂の席を焼いた。今日は、自分の古い部屋の鍵を返した。どちらも、勝手に縛られないための手続きです」
敦は少し黙った。
そう言われると、鍵返却まで何か大きな儀式のように聞こえる。
でも、確かに少し似ているのかもしれない。
席を焼く。
鍵を返す。
どちらも、自分を縛っていた場所から立つための行為だ。
榊原は机に一枚の資料を置いた。
「次に、住む場所の話をします」
「早いですね」
「早くありません。かなり急ぎです」
橘が資料を広げる。
「短期滞在マンションは、しばらく使えます。ただ、恒久的な住居ではありません。あなた名義で借りる部屋を探す必要があります」
「保証人とか、審査とか、無職とか」
「全部、問題になります」
「ですよね」
敦は椅子に座った。
魔王より強い言葉が並ぶ。
保証人。
審査。
無職。
収入証明。
緊急連絡先。
住民税。
国保。
家賃。
異世界なら、村を救えば泊めてもらえた。
現代では、契約書と審査がいる。
榊原が言った。
「特殊事案係があなたを直接囲い込む形は避けます。けれど、協力契約に基づく収入見込みは作れます。間宮先生とも相談して、保証会社と通る形を組みます」
「国が保証人になるわけではないんですね」
「なりません。そこをやると、あなたを管理対象として固定しかねない」
敦は頷いた。
「分かりました」
「不便だけど、あなたの自由を残すためです」
「面倒ですね」
「ええ」
榊原は淡々と言う。
「自由は、手続きが多いの」
敦は思わず笑いそうになった。
変な言葉だ。
だが、妙に本当らしい。
橘が資料を指す。
「候補は三つ。事務所から近い単身マンション。家賃は少し高いですが、警備と移動がしやすい。二つ目は少し離れた築古物件。安いですが、周囲の目が増えます。三つ目は、祓戸連盟の関係者が所有する部屋」
「三つ目、何か怖いですね」
御影が静かに入ってきた。
「祓戸連盟の関係者だからといって、部屋が呪われているわけではありません」
「逆にその説明が怖い」
「清めは済んでいます」
「やっぱり何かあったんですか」
御影は目を逸らさなかった。
「以前、少し」
「少し」
敦は額を押さえた。
会議室に少しだけ笑いが起きた。
黒玻璃堂の後で、こういう笑いが出ること自体が、少しありがたかった。
榊原が資料を閉じる。
「今日は決めなくていい。けれど、あなたはもう旧会社の寮には戻れない。そこは確定です」
敦は頷いた。
「はい」
「戻る場所ではなく、これから帰る場所を選びます」
その言葉は、少し胸に残った。
帰る場所。
短期滞在マンションでもいい。
まだ仮でもいい。
でも、これから選ぶ。
神に放り込まれた世界でも、会社に用意された寮でもない。
自分で、契約して、鍵を持つ場所。
たぶん、それは大きい。
敦は会議室の隅の段ボールを見た。
少ない荷物。
返した鍵。
これから受け取るかもしれない新しい鍵。
異世界で魔王を倒した時より、少し地味な節目だった。
けれど、今の敦には、こっちの方が大事かもしれない。
スマホが震えた。
今度は、通知を見ても身構えなかった。
間宮からだった。
《確認書、受領。やはり署名しなくて正解です。かなり広い免責条項が入っています》
敦は橘に画面を見せた。
橘は一読し、眉をわずかに動かす。
「予想通りですね」
「会社、燃やさなくてよかった」
「比喩でもやめてください」
「はい」
敦はスマホを伏せた。
そして、少しだけ息を吐いた。
今日も、燃やす場所を間違えなかった。
怪異ではない。
呪物でもない。
ただの会社の紙。
それでも、間違えれば縛られていた。
そのことが、妙に怖い。
だが、今回は一人ではなかった。
橘がいた。
間宮がいた。
榊原がいた。
真壁がいた。
自分を席にしない人たちがいた。
敦は段ボールの上に置いた古いマグカップを手に取った。
安物で、縁が少し欠けている。
捨ててもいいものだ。
だが、今日は持っていくことにした。
前の生活を全部捨てる必要はない。
縛るものは返す。
持っていくものは、自分で選ぶ。
それでいい。
夕方、短期滞在マンションへ戻る車の中で、敦は膝の上に段ボールを一つ置いていた。
もう一箱はトランクにある。
真壁が運転する。
橘は助手席で、次の予定を確認している。
「明日は、住居候補の内見が二件。午後に健康診断。夕方、間宮先生と正式契約の確認です」
「スケジュール詰まってません?」
「怪異対応よりは平和です」
「そう言われると反論しづらい」
車窓に、街の明かりが流れる。
敦の顔がうっすら映る。
反射は普通だった。
ただの窓。
ただの顔。
その顔は、昨日より少し疲れている。
だが、少しだけ前を向いている気もした。
敦はポケットの中を探った。
寮の鍵は、もうない。
代わりに、短期滞在マンションのカードキーがある。
薄いカード。
仮の鍵。
それでも、今日帰る場所を開ける鍵だ。
敦はそれを指先で確かめた。
魔王は倒した。
黒玻璃堂の上映も止めた。
会社の寮の鍵も返した。
けれど、次は部屋を借りなければならない。
保証人もいる。
審査もある。
健康診断もある。
契約書もある。
現代の敵は、やはり多い。
敦は小さく笑った。
「ほんま、魔王より手続き多いな」
運転席の真壁は、少しだけ間を置いて言った。
「殴って終わらん相手は、面倒だ」
敦は一瞬黙り、それから笑った。
「ほんま、それです」
現代の敵は、一人ではない。
会社。
家賃。
税金。
審査。
世間の目。
契約書。
通知。
紙。
鍵。
それら全部を殴るわけにはいかない。
焼くわけにもいかない。
だから、手順で進む。
一つずつ返す。
一つずつ選ぶ。
一つずつ、自分の場所を作る。
短期滞在マンションの前に車が停まる。
敦は段ボールを抱えて降りた。
空は、もう夜だった。
昨日までの夜とは違う。
誰かに見せられるための夜ではない。
自分で帰るための夜だ。
敦はカードキーを手に、入口へ向かった。
寮の鍵は返した。
次は、自分の鍵を持つ番だ。




