第23話 上映後
黒玻璃堂の店を出た時、朝の光は少しだけ白かった。
夜を抜けた光ではない。
事件の後にだけ見える、妙に薄い光だった。
古い雑居ビルの前には、警察車両が二台。
祓戸連盟の搬送車が一台。
少し離れたところに、特殊事案係の黒い車。
通行人は、遠巻きにこちらを見ている。
だが、昨日までのようなスマホの群れはなかった。
橘と警察官が早い段階で周囲を押さえたこと。
三上たちが関連投稿を抑えたこと。
それに、敦が最初から薄い守りを張ったこと。
いくつもの小さな手順が、見物人を観客にしなかった。
敦は、黒玻璃堂の入口を振り返った。
白い布に戻ったスクリーン。
鳴らなくなった映写機。
誰の席でもなくなった床。
黒羽良臣は、もう中にはいない。
警察官に連れられ、別の車へ乗せられていた。
最後まで暴れなかった。
ただ、連れていかれる直前に、一度だけ敦を見た。
その目に、怒りはなかった。
悔しさも、あまりない。
もっと嫌なものがあった。
諦めていない目。
自分が負けたのではなく、上映が一度止まっただけだとでも思っている目。
敦は、その目を覚えておくことにした。
今すぐ追いかけはしない。
問い詰めもしない。
殴りもしない。
人間の部分は、警察と祓戸連盟が扱う。
自分は、座席化の術式と黒い芯を焼いた。
そこまでだ。
そこまでで止まる。
それも、今回覚えた戦い方だった。
御影が、封印布で包んだ黒いレンズを搬送箱へ入れる。
その動きは慎重だった。
だが、昨夜までのような切迫感は薄い。
「もう、鳴りませんか」
敦が聞くと、御影は封印箱の留め具を締めながら答えた。
「今のところは。映写主の芯は、あなたが座席化の輪を焼いたことで機能を失っています」
「今のところ、ですか」
「呪物に完全な安心はありません」
「でしょうね」
「ただ、今回の連鎖は止まりました。鏡、レンズ、写真、映画、DM、待合室、監視室、名簿。そこから本上映へ繋ぐ道は、切れています」
それを聞いて、敦はようやく少しだけ息を吐いた。
切れた。
全部ではないかもしれない。
けれど、今回の道は切れた。
黒玻璃堂の本上映は、始まらなかった。
橘が紙の記録を手に戻ってくる。
「現場の一次確認、終了です。呪物と機材は祓戸連盟と警察で搬送。黒羽良臣は、危険物関連と不審誘導の件で身柄確保。詳細な容疑はこれから組み立てます」
「普通の法律でいけますか」
「全部は無理です。でも、全部を怪異で処理する必要もありません」
橘はそう言った。
「不審なDM誘導、未成年の誘い出し、危険物の不適切保管、建造物侵入、業務妨害、データ誘導。現実側で扱える部分は、現実側で扱います」
「現実側、強いですね」
「地味ですが、強いです」
「それ、今回でだいぶ分かりました」
橘は少しだけ目を細めた。
「記録しておきます」
「それも?」
「はい。龍宮寺さんが現実側の手続きを評価した、と」
「何か恥ずかしいなあ」
「重要です」
いつもの言葉だった。
敦は少し笑った。
真壁が黒い車の横で待っている。
烏丸はその近くで、白い杖を両手で持ち、空を見上げていた。
相変わらず、何を見ているのか分からない。
「烏丸さん」
敦が声をかけると、烏丸はゆっくりこちらを向いた。
「はい」
「悪い未来は?」
「大きいものは、減りました」
「良い未来は?」
「あります」
「どれですか」
「あなたが、今日この後ちゃんと休む未来です」
「またそれですか」
「良い未来は地味なことが多いです」
烏丸は真顔だった。
妙に納得してしまう。
魔王を倒す未来より、布団で寝る未来の方が今は大事なのかもしれない。
そんなことを思う自分に、敦は少しだけ苦笑した。
事務所へ戻ると、空気が変わっていた。
昨日までの張り詰めた感じは残っている。
だが、全員が画面を睨み続けているような緊張はない。
大型モニターには、まだ黒い布が掛けられていた。
三上の机には紙資料が積まれている。
けれど、三上本人は椅子に座り、温かい飲み物を持っていた。
「おかえりなさい」
「画面、まだ駄目ですか」
敦が聞くと、三上は少しだけ困った顔をした。
「一応、安全確認が終わるまでは」
「御影さん」
敦が振り返る。
御影は事務所の入口で札を一枚取り出し、大型モニターと三上の机を見比べた。
「術式の芯はもうありません。黒玻璃堂の映写経路は切れています。ただ、端末や黒布に、薄い残穢は残っています」
「それ、焼いてええやつですか」
「証拠データは保全済みです。端末の記録を壊さない範囲なら」
「全力でやったら?」
御影が即座に首を横に振った。
「必要ありません。芯がない状態で全力を出せば、残すべきデータや、人の記憶に触れる可能性があります」
「ほな、掃除ぐらいで」
「それが最適です」
敦は会議室の中央に立った。
今度は戦うためではない。
誰かを引き戻すためでもない。
ただ、残った嫌なものを払うためだった。
右手を軽く上げる。
白い光が、事務所の中へ薄く広がった。
強い炎ではない。
けれど、これまでよりは少しだけ深い。
机の上。
黒布の表面。
隔離端末の外側。
大型モニターの縁。
三上の紙資料の端。
そこにこびりついていた黒い粉のような残穢が、白い光に撫でられて消えていく。
焦げもしない。
データも消えない。
ただ、見てはいけないという圧だけが、部屋から抜けていった。
三上が息を呑んだ。
「……軽くなりました」
橘が黒布へ手をかける。
「外しても?」
御影が札を見た。
「大丈夫です」
橘が大型モニターの黒布を外した。
画面は黒いままだった。
ただの電源の落ちた画面。
誰かを覗く穴ではない。
誰かを座らせる客席でもない。
三上がゆっくりと顔を上げる。
画面を見る。
数秒。
何も起きなかった。
「大丈夫です」
三上の声が、少しだけ震えていた。
「引かれません」
烏丸が白い杖を床に当てた。
「良い未来です」
敦は手を下ろした。
「じゃあ、画面解禁ですね」
「段階的に、です」
橘が即座に言った。
「いきなり長時間監視へ戻しません。交代制は継続します」
「そこは厳しい」
「黒玻璃堂が終わっても、三上さんの目は一つしかありません」
三上が小さく頷いた。
「僕も、それでいいです」
敦は大型モニターを見た。
反射は、ただの反射だった。
黒い手も、客席も、映写機の音もない。
事務所が、少しだけ普通の事務所へ戻った気がした。
榊原が会議室に入ってきた。
「報告します。春野真白さんは容体安定。食事も少しずつ取れています。ご家族には、今後も祓戸連盟と病院が連携してフォローします」
敦は頷いた。
真白。
ツナマヨ二個。
あの子が、ちゃんと文句を言える場所へ戻れたなら、それでいい。
「地下待合室の少年は、病院で確認中。命に別状はありません。事情は専門家と警察が聞きます。あなたには渡しません」
「はい」
敦はすぐに答えた。
知りたくないわけではない。
だが、今は聞かない方がいい。
聞けば、その子の不幸まで自分の荷物にしてしまう。
「病院の女性は?」
榊原は資料を見た。
「病院側が対応中。黒玻璃堂のDMは見せないようにしています。お母様の医療情報は、こちらにも必要最低限しか来ていません」
敦は頷いた。
「それでいいです」
「ええ。あなたが治せるかどうかを判断する案件ではありません」
その言葉は少し痛かった。
でも、正しい。
治せるかもしれない。
治せないかもしれない。
その可能性だけで人の人生に入り込めば、敦はいつか壊れる。
間宮が言っていた。
助けなかった責任と、助けられなかった責任は違う。
今、その言葉が少しだけ分かる。
榊原は続けた。
「水瀬海斗さんは、配信活動を一時停止。プラットフォーム側にも危険コンテンツとして処理が入りました。本人は警察とこちらに協力する意向です」
「また配信しますかね」
「分かりません。ただ、少なくとも今回の件を切り抜きで上げることはできません」
三上が少しだけ口を挟む。
「上げようとしても、こちらで止めます」
「頼もしいですね」
「段階的な画面解禁で止めます」
「早速使うんですね」
三上が少しだけ笑った。
その笑いに、昨日までの黒い客席はもうない。
それだけで、敦は少し安心した。
会議室の端で、御影が静かに言った。
「黒玻璃堂の呪物は、大阪支部と本部で分けて封じます。黒羽良臣が持ち出したもの以外にも、まだ目録と照合できていない品があります」
「まだあるんですか」
「あります。ただし、今回のように連動して動く術式は、中心を失いました」
「黒羽良臣一人で全部?」
御影はすぐには答えなかった。
「現時点では、主犯格と見ています。ただ、彼がどこまで自分の意思で、どこから呪物に引かれていたかは調査が必要です」
「人間なんですよね」
「はい」
「怪異に操られてた、で終わらせるんですか」
御影は首を横に振った。
「終わらせません。呪物に引かれていたとしても、人の欲を利用したのは彼です」
その答えに、敦は少しだけ安心した。
怪異のせい。
呪物のせい。
そう言えば、楽かもしれない。
だが、黒羽良臣は人を席にしようとした。
その責任は、人間の側にもある。
榊原が机の上に一枚の封筒を置いた。
「それと、龍宮寺さん。今回の一連の協力について、一次協力費を処理します」
敦は一瞬、言葉に詰まった。
「今ですか」
「今です」
「黒玻璃堂の後始末の最中に?」
「後始末の一部です。無償で危険な現場に出たことにしないためです」
間宮の声が音声回線から入る。
『確認済みです。金額の詳細は後ほど説明します。受け取ることに罪悪感を持たないでください』
「先に刺してきますね」
『持ちそうな顔をしているので』
敦は黙った。
実際、少し持ちそうだった。
真白を助けた。
少年を出した。
黒玻璃堂を止めた。
そこに金が出る。
変な感じがする。
だが、家賃は倒せない。
国保も住民税もスマホ代も、聖者の光では消えない。
榊原が言った。
「あなたが生活できなければ、次に誰かを助ける前に、あなたが潰れます」
「分かってます」
「なら、受け取ってください」
敦は少しだけ息を吐いた。
「受け取ります」
間宮がすぐに言う。
『よろしい』
「先生、圧が強い」
『必要です』
橘が紙に記録した。
「一次協力費、受領意思確認」
「ほんま、何でも記録する」
「後であなたを守ります」
その言葉に、敦は何も言えなくなった。
記録。
黒玻璃堂にとっては、人を席にするためのものだった。
だが、橘たちにとっては、人を勝手に使わせないためのものだ。
同じ紙でも、意味が違う。
同じ役割でも、強制されるものと、自分で引き受けるものは違う。
橘が「記録係」ではなく「記録担当」と言い直したことを、敦は思い出した。
会議が一段落した頃、事務所の固定電話が鳴った。
全員が一瞬だけそちらを見る。
スマホではない。
画面もない。
ただの電話。
それでも、少し緊張が走る。
橘が受話器を取った。
「はい。特殊事案係です」
短いやり取り。
橘の表情が、少しだけ和らいだ。
「分かりました。本人に伝えます」
受話器を置く。
「春野蓮さんから、病院経由で伝言です」
敦の肩が、少しだけ動いた。
「真白さんですか」
「はい。真白さんが、朝食に文句を言ったそうです」
「文句?」
「ツナマヨじゃなかった、と」
会議室の空気が、少しだけ緩んだ。
三上が笑いを噛み殺す。
御影も、ほんの少しだけ目を伏せる。
烏丸は真顔で言った。
「良い未来です」
敦は、思わず笑った。
声に出して笑うほどではない。
でも、胸の奥が少しだけ軽くなる笑いだった。
「それは、大事ですね」
「はい」
橘も小さく頷いた。
「大事です」
救えなかったものもある。
見ないと決めたものもある。
聞かないまま渡した不幸もある。
それでも、ツナマヨじゃないと文句を言える朝が一つある。
その程度の救いで、世界は少しだけ持ち直すのかもしれない。
その日の午後、黒玻璃堂関連の一般向け発表案が作られた。
心霊、奇跡、治癒をうたう不審な誘導DMへの注意喚起。
未成年を含む複数人への不審な接触。
危険な古物や映像機器を使った迷惑行為。
相談窓口。
通報先。
龍宮寺敦の名前は出さない。
聖者という言葉も出さない。
黒玻璃堂の名も、捜査上必要な範囲にとどめる。
世の中に出る情報は、いつも不完全だ。
だが、不完全でも、人を守るための形にできる。
それが現代の戦い方だった。
夕方近く、敦は事務所の窓際に立った。
窓ガラスには、薄い布が半分だけ掛けられている。
反射を完全に消してはいない。
もう、そこまで怯える必要はない。
ただ、用心は残す。
街には、無数の窓がある。
無数の画面がある。
無数の人が、何かを見ている。
黒玻璃堂の本上映は止めた。
けれど、人が見たいと思う気持ちは消えない。
奇跡を見たい。
救いを見たい。
破滅を見たい。
本物か確かめたい。
その欲は、たぶんこの先も消えない。
敦は、それを全部焼くつもりはなかった。
人間の欲そのものを焼くのは、救いではない。
ただ、その欲を席に変えるものが出てきたら。
その時は、また焼く。
燃やす場所を間違えずに。
榊原が背後から声をかけた。
「龍宮寺さん」
「はい」
「今夜は、短期滞在マンションへ戻ってください。事務所で仮眠を続けると、ここがあなたの生活場所になってしまう」
「ああ」
敦は頷いた。
「それは、あかんやつですね」
「ええ。あなたには、帰る場所が必要です。たとえ仮でも」
帰る場所。
それは、異世界ではずっと曖昧だった。
村を救い、砦を抜け、戦場を渡り、魔王城へ向かった。
寝る場所はあっても、帰る場所はなかった。
現代へ戻ってきてからも、最初はそうだった。
寮はもう出なければならない場所。
ネットカフェ寸前。
日払い。
動画。
黒い車。
そこから、ずいぶん遠くへ来た気がする。
まだ数日しか経っていないのに。
「分かりました」
敦は言った。
「今日は、帰ります」
橘が記録紙を閉じた。
「記録します」
「それも?」
「重要です。龍宮寺さんが自分で帰ると言った」
「ほんまに何でも記録するなあ」
敦はそう言って笑った。
今度は、少しだけ自然に笑えた。
事務所を出る前、三上が紙袋を渡してきた。
「これ、夜食です」
「また食べ物」
「今回は予知ではなく、普通の配慮です」
「普通の配慮」
「はい」
紙袋の中には、おにぎりと惣菜パン、あと小さなプリンが入っていた。
敦はそれを見て、少し黙った。
異世界の神は、力をくれた。
魔王を倒せるだけの力を。
けれど、現代で何を食べ、どこで眠り、どう線を引くかまでは考えてくれなかった。
この人たちは、そこを考える。
大げさではない。
奇跡でもない。
ただの夜食。
ただの記録。
ただの契約。
ただの帰宅確認。
でも、今の敦には、それがずいぶんありがたかった。
「ありがとうございます」
三上は少しだけ照れたように頷いた。
「食費は記録してます」
「やっぱり」
「重要なので」
敦は笑った。
黒い車が、短期滞在マンションへ向かって走る。
車窓に映る自分の顔を、敦は少しだけ見た。
反射は、もう黒くない。
ただの窓だ。
疲れた三十歳の男が映っている。
魔王を倒した男。
無職だった男。
今は、契約書と記録紙と夜食を持って、仮の部屋へ帰る男。
敦は、窓の向こうの街を見た。
どこかでまた、誰かが助けを求めるかもしれない。
どこかでまた、誰かが見世物にしようとするかもしれない。
その時、自分は全部は救えない。
けれど、全部を背負わずに、助ける方法を少しだけ覚えた。
そして、怒ってもいい場所も、少しだけ分かった。
黒玻璃堂の上映は終わった。
次に何が来るかは、まだ分からない。
だが、今夜だけは帰る。
帰って、食べて、寝る。
それも、戦いの続きだ。
敦は紙袋を膝に置き、静かに息を吐いた。
魔王は倒した。
黒玻璃堂の上映も止めた。
けれど、明日の朝には、また家賃と住民税とスマホ代が待っている。
「ほんま、現代は手強いな」
敦が呟くと、運転席の真壁が短く言った。
「生きてる証拠だ」
敦は少しだけ目を開いた。
それから、笑った。
「そうですね」
窓の外で、街の灯りが流れていく。
それはスクリーンではなかった。
誰かに見せられている映像でもなかった。
ただ、普通の夜だった。
その普通の夜へ、敦は帰っていった。




