第27話 青い看板
鳴瀬律が残したレシートの裏には、短い言葉しかなかった。
《北側アーケード 青い看板 夕方に鳴る》
住所ではない。
店名でもない。
ただ、場所の匂いを言葉にしたようなメモだった。
敦はそれを、何度か読み返した。
北側アーケード。
青い看板。
夕方に鳴る。
分かるようで分からない。
だが、鳴瀬が嘘をついているとは思えなかった。
逃げたい。
関わりたくない。
登録されたくない。
それでも、あの少女のスマホを伏せた。
針を浮かせた。
嫌そうな顔で助けた。
ああいう人間は、面倒だ。
そして、放っておきにくい。
追いかけない。
それは、鳴瀬律を追跡しないという意味だった。
だが、鳴瀬が残した場所を確認しないという意味ではない。
少女の搬送と端末保全が済み、商店街組合と警察への事前連絡が入った時点で、橘は北側アーケードの確認を決めた。
商店街の近くに停めた黒い車の中で、橘は紙の地図を広げた。
大型画面はない。
タブレットも使っていない。
黒玻璃堂の時ほど過敏になる必要はない。
それでも、今回の相手は画面と回線に絡む。
最初は紙で見る。
それが橘の判断だった。
「北側アーケードに、青い看板は四つあります」
橘が赤いペンで印をつける。
「青葉モバイル修理。青井薬局。青空学習塾。あと、商店街の無料Wi-Fi案内板」
「無料Wi-Fiの案内板」
敦はその言葉に、少し反応した。
鳴瀬が言っていた。
本体は商店街の無料Wi-Fiの看板に寄生している。
橘も同じ印を指す。
「三上さんのログでも、無料Wi-Fi側に不自然な接続履歴があります。ただし、証拠としてはまだ弱い」
車内スピーカーから三上の声が入る。
『通常の広告配信や見守りアプリ通信に混ざっています。表から見ると、地域見守りサービスの通知に見えるんです』
「見守りサービス」
敦は眉を寄せた。
さっきの少女が言っていた、頭に音が響く感じ。
鳴瀬の言う探知針。
それが見守りという言葉の皮をかぶっている。
嫌な組み合わせだった。
『ただ、配信先が変です。端末の位置や年齢層だけでなく、反応の揺れを拾っているように見えます』
「反応の揺れ?」
『普通の言い方をすれば、アプリに対する操作反応です。でも、そこに説明しにくい偏りがあります。特定の端末だけ、通知後に異常な再接続をしています』
橘が短く言う。
「能力者、あるいは能力者に近い反応を示す人を拾っている可能性」
『まだ仮説です』
「仮説として扱います」
橘は紙にそう書いた。
敦は車の窓から商店街を見た。
昼の賑わいはまだ残っている。
だが、夕方に近づくにつれて、人の流れが少し変わってきた。
学校帰りの学生。
買い物を終えた主婦。
自転車で通り抜ける会社員。
それぞれがスマホを持っている。
ポケット。
鞄。
手の中。
画面。
通知。
音。
黒玻璃堂とは違う。
鏡も、映写機もない。
けれど、今の世の中では、画面はどこにでもある。
敦は小さく息を吐いた。
「また、見るな聞くなですか」
橘が地図から目を上げる。
「今回は少し違います。見てはいけない画面ではなく、反応させてはいけない通知です」
「余計に嫌ですね」
「はい」
真壁が運転席で腕時計を見た。
「夕方まで、あと三十分」
「現場を見ます」
橘は地図を畳んだ。
「ただし、鳴瀬律が来る可能性があります。接触しても、追い詰めないでください」
「了解です」
敦は頷いた。
「逃げたい人を押さえつけるのは違う」
橘が少しだけこちらを見る。
「はい。ただし、逃げることで誰かが危険になる場合は止めます」
「そこは分かってます」
黒い車を離れ、三人は北側アーケードへ向かった。
北側は、昨日見た南側より少し古い。
シャッターの下りた店もある。
天井から吊るされた旗は色褪せ、ところどころ蛍光灯が切れていた。
それでも、人はいる。
八百屋の声。
自転車のベル。
揚げ物の匂い。
店先のラジオ。
普通の商店街だった。
その普通の真ん中に、青い看板があった。
《まち見守りWi-Fi》
白い文字。
青い背景。
子どもと老人のイラスト。
安心。
安全。
地域。
そういう言葉が、看板の端に並んでいる。
敦はその前で足を止めた。
嫌な感じがある。
黒くはない。
冷たくもない。
だが、耳の奥を細い砂でこすられるような感覚。
青白いノイズ。
看板の裏側。
アーケードの柱。
古い電源ボックス。
そこから、細い線がいくつも伸びている。
通行人のスマホへ。
商店のレジ横の端末へ。
近くの防犯カメラへ。
そして、まだ何も知らない人のポケットへ。
敦は低く言った。
「ここですね」
橘も看板を見上げる。
「見た目は普通です」
「中身は普通じゃないです」
「鳴瀬さんの言う匂いが分かりますか」
「匂いというか、耳の奥が嫌です」
「記録します」
「それは記録してええやつですか」
「感覚情報として」
橘が紙に書く。
その時、真壁が一歩横へ動いた。
敦も気づく。
看板の向かい側。
閉店した金物屋のシャッター前。
灰色のパーカーの男が、缶コーヒーを片手に立っていた。
鳴瀬律だった。
こちらを見るなり、嫌そうに顔をしかめる。
「ほんまに来たんか」
敦は少し笑った。
「紙、投げたやん」
「勝手に読むなとは言ってへん」
「めちゃくちゃ読ませる書き方でしたよ」
「知らん」
鳴瀬は缶コーヒーを飲み、青い看板を睨んだ。
目の下の隈は、昼より少し濃く見える。
また寝ていないのだろう。
橘が一歩前へ出る。
「鳴瀬さん。協力を求めます」
「嫌です」
「では、情報提供だけでも」
「もっと嫌」
「理由は」
「言うたら巻き込まれる。書かれる。登録される。終わり」
鳴瀬は早口で言った。
だが、逃げない。
この場にいる。
それが答えでもあった。
敦は聞いた。
「夕方に鳴るって、何が鳴るんですか」
鳴瀬は商店街の奥を見る。
「チャイム」
「商店街の放送?」
「それに混ぜて、スマホが鳴る。普通の帰宅確認通知みたいに見える。でも、反応したやつだけ針が刺さる」
「反応したやつ」
「画面を見たやつ。音に引っかかったやつ。あと、俺みたいに匂いが分かるやつ」
鳴瀬は自分のひび割れたスマホを見せた。
画面には、ひびの向こうに細い波のようなものが揺れている。
「俺の端末は餌にもなる。だから寄ってくる」
「危ないんちゃいますか」
「危ないで」
「何で来たんですか」
「来んかったら、誰か刺さるやろ」
鳴瀬は、当たり前のように言った。
敦は返事に困った。
面倒な男だ。
やはり、放っておきにくい。
橘の端末が震えた。
三上からだ。
『橘さん、十七時に商店街放送があります。地域見守りアプリの帰宅通知も同時刻に設定されています』
「止められますか」
『商店街放送は組合に連絡中です。ただ、アプリ側の通知は外部サーバー経由で予約されています。今から完全停止は難しいです』
鳴瀬が横から言う。
「止めても、鳴るで」
橘が見る。
「なぜ」
「もう看板側に残ってる。予約だけやなくて、ここが勝手に鳴らす」
三上の声が少し硬くなる。
『看板側に独立した送信機があるということですか』
「専門用語は知らん。匂いはそこ」
『匂いでは位置が分かりません』
「上。青い板の裏。右から二番目のネジの奥」
沈黙。
三上が少し遅れて言った。
『……商店街設備図では、そのあたりに古いメンテナンスボックスがあります』
鳴瀬は鼻で笑った。
「ほらな」
『まだ確認段階です』
「固いなあ」
空気がまた険しくなりかける。
橘が静かに割って入った。
「三上さん、設備図とログ確認を継続。鳴瀬さん、現場で見えている異常だけを伝えてください。判断はこちらで預かります」
鳴瀬は嫌そうに肩をすくめた。
「はいはい」
「返事は一回で結構です」
「怖」
真壁が看板の下に立つ。
「外すか」
橘は首を横に振った。
「まだです。商店街組合の許可と警察立会いが必要です」
鳴瀬が舌打ちする。
「その手続き待ってる間に鳴る」
「だから、鳴る前に被害を抑えます」
橘は敦を見る。
「龍宮寺さん、周辺の人へ薄い守りを。音と通知の意味を鈍らせる形で」
「はい」
敦は胸の前に手を置いた。
強くは出さない。
商店街全体を白く染めれば、それ自体が騒ぎになる。
だから薄く。
通行人の耳。
ポケットのスマホ。
看板と人の間。
そこへ、白い膜を低く広げる。
空気が少しだけ柔らかくなる。
店先のラジオの音が、意味を失うほどではない。
ただ、耳の奥へ刺さる部分だけを鈍らせる。
鳴瀬が目を細めた。
「それ、さっきより広いな」
「人が多いので」
「雑やけど、やっぱ優しいな」
「褒めてます?」
「半分」
「もう半分は」
「怖い」
敦は少し黙った。
鳴瀬は笑っていなかった。
「白い力って、きれいすぎると逆に怖いねん。隠れる場所がなくなる」
その言葉は、少し胸に残った。
白い力は守る。
癒す。
祓う。
けれど、影に隠れて生きてきた人間には、眩しすぎるのかもしれない。
敦は白い膜をほんの少しだけ薄めた。
鳴瀬が少し驚いた顔をする。
「何で薄めたん」
「隠れる場所、少し残した方がええんでしょう」
鳴瀬は、露骨に困った顔をした。
「そういうの、ほんまやめて」
「何で」
「次も助けなあかん気になる」
「もう来てるやないですか」
「うるさい」
その時、商店街のスピーカーから短い予告音が鳴った。
ぴん、ぽん。
夕方の放送が始まる合図。
敦の耳の奥に、青白いざらつきが走る。
鳴瀬が顔を上げた。
「来る」
商店街に、ゆるい音楽が流れ始めた。
普通なら、子どもの帰宅を促すだけの音だ。
けれど、その奥に別の音が混じっている。
聞こえるのではない。
刺さる。
同時に、近くを歩いていた何人かのスマホが震えた。
一つ。
二つ。
三つ。
全員ではない。
見守りアプリを入れている端末。
以前この無料Wi-Fiに接続した端末。
近距離の案内通知を拾った端末。
そういうものだけが、反射的に画面を光らせている。
敦の白い膜が震えた。
針が来る。
青白い細い線が、看板の裏から伸びる。
スマホへ。
目へ。
耳へ。
反応の強い人間を探すように。
敦は歯を食いしばる。
全部焼けば、商店街中の端末に影響が出る。
人に刺さった部分を焼けば、頭や記憶に触れるかもしれない。
浮かせてから切る。
黒玻璃堂で覚えた手順。
鳴瀬が動いた。
ひび割れた自分のスマホを高く掲げる。
青白い針の何本かが、通行人ではなく鳴瀬の端末へ向きを変えた。
「おい!」
敦が叫ぶ。
「餌になるな!」
「他に早い方法あるか!」
鳴瀬の顔色が一気に悪くなる。
自分の端末を囮にしているのだ。
針が鳴瀬の手首へも絡もうとする。
敦はすぐに白い膜を鳴瀬の周囲へ寄せた。
強すぎない。
彼の隠れる影を消さない。
けれど、針が肉へ刺さらないように支える。
鳴瀬が歯を食いしばる。
「白いでかい人、今!」
「浮いてるやつだけ焼きます!」
敦は指先に白い光を集める。
鳴瀬のスマホへ向かった針。
通行人の端末から浮いた針。
人に刺さる前の針。
それだけを、細く焼く。
白い光が走る。
青白い針が、次々にほどける。
看板の裏で、何かが小さく震えた。
鳴瀬が呻く。
「まだ本体残ってる。看板の奥、鳴ってる!」
真壁がすでに動いていた。
商店街組合の担当者が駆けつけ、橘が短く説明する。
警察官も到着する。
必要最低限の許可が、その場で取られる。
真壁が脚立を押さえ、組合の担当者が看板横の点検パネルを開けた。
中には、古い通信機器に混じって、小さな黒い箱が取り付けられていた。
黒玻璃堂のものとは違う。
古い呪物ではない。
市販の機器に、何か薄い金属の札のようなものが貼り付いている。
青白いノイズは、そこから出ていた。
橘が言う。
「現物確認。証拠保全優先。龍宮寺さん、機器は壊さず、外へ伸びている針だけ処理できますか」
「やります」
鳴瀬が青い顔で言う。
「左側。札の端から伸びてる。機械の芯ちゃう。貼ってるやつや」
敦は黒い箱を見る。
確かに、機械そのものではない。
その表面に貼られた薄い札。
紙ではない。
金属でもない。
それが、通信のふりをして針を伸ばしている。
「見えました」
敦は白い光を細くした。
機械は焼かない。
記録は残す。
黒い箱も残す。
ただ、札から人へ伸びる青白い針だけを、根元で焼く。
白い光が、点検パネルの中を走った。
札がびくりと震える。
針が一斉に引き戻されようとする。
鳴瀬が叫んだ。
「逃がすな! 引いた先に記録残る!」
「三上さん!」
橘が端末へ声を飛ばす。
三上の声が即座に返る。
『ログ、取っています。今の引き戻しで接続先が一つ見えました。大阪市内、レンタルサーバー。事業者名は偽装の可能性あり』
「十分です。龍宮寺さん、切ってください」
「はい」
敦は白い光を握り、針の束を根元で焼いた。
青白いノイズが、ふっと消える。
商店街の音楽が、ただの音楽に戻った。
通行人のスマホは、普通の通知画面を表示している。
誰かが首を傾げる。
誰かが画面を閉じる。
誰も倒れない。
誰も引きずられない。
看板の裏の黒い箱は、無言で残っていた。
橘が息を吐く。
「一次被害なし。機器確保準備」
鳴瀬は、シャッター前に座り込んだ。
顔色が悪い。
ひび割れたスマホを握る手が震えている。
敦は近づき、膝をつく。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見える?」
「見えません」
「正直か」
鳴瀬は乾いた笑いを漏らした。
敦は手をかざそうとして、止めた。
「触っていいですか。治すんじゃなくて、頭のざらつきを少し落とすだけ」
鳴瀬は嫌そうに顔をしかめた。
「白いの、苦手やねんけど」
「薄くします」
「……薄くなら」
敦は鳴瀬の肩に触れない距離で、白い力を薄く広げた。
治癒ではない。
浄化でもない。
ノイズに削られた神経を、少しだけ休ませるような力。
鳴瀬の呼吸が、ゆっくりになる。
「……腹立つぐらい楽になるな」
「それはよかったです」
「礼は言わんで」
「はい」
「言ったら、次も頼みそうになる」
敦は少し笑った。
「それでもええですけど」
「よくない」
鳴瀬は顔を背けた。
橘が近づいてくる。
「鳴瀬さん。事情聴取ではなく、医療確認を受けませんか」
「嫌」
「では、休憩場所だけでも」
「嫌」
「食事は」
鳴瀬の反応が一瞬だけ遅れた。
敦は見逃さなかった。
「飯、食べてへんのですか」
「食べた」
「何を」
「缶コーヒー」
「それは飯ちゃう」
鳴瀬はむっとする。
「カロリーある」
「真壁さんに怒られるやつです」
真壁が横から短く言う。
「怒るぞ」
「何であんたまで乗ってくんねん」
鳴瀬は本気で嫌そうにした。
その表情に、少しだけ年相応の疲れが見えた。
橘は静かに言う。
「近くの店で食事をしましょう。記録は最低限。名前は、今は音だけ。住所は聞きません」
「信用しろって?」
「信用するかどうかを、今ここで決めなくていいと言いました」
「ほんま嫌な言い方するな」
「必要なので」
鳴瀬は黙った。
しばらく、商店街の奥を見る。
さっきまで青白い針が飛んでいた場所。
今はただ、夕方の買い物客が通っている。
その普通の景色を見て、鳴瀬は小さく息を吐いた。
「三十分だけ」
「分かりました」
「紙に書くな」
「食事場所と時間だけ記録します」
「それも嫌や」
「安全確認に必要です」
「……嫌なぐらい現実的や」
鳴瀬は立ち上がった。
ふらついたところを、敦が手を伸ばす。
鳴瀬はその手を見て、少しだけ迷った。
そして、掴まなかった。
自分で立つ。
だが、逃げもしなかった。
敦は手を下ろす。
それでいいと思った。
無理に掴む必要はない。
逃げ道を塞ぐのではなく、戻ってこられる道を残す。
たぶん、この男にはそれが必要だ。
橘の端末に、三上から新しい連絡が入る。
『橘さん、黒い箱の接続先から、似た通信が複数出ています。市内だけで、少なくとも六か所』
橘の表情が硬くなる。
「六か所」
『はい。ただし、全部が起動しているわけではありません。今回のものは、試験運用に近い可能性があります』
鳴瀬がぼそりと言った。
「六で済むなら、まだましや」
敦が見る。
「もっとある?」
「匂いは薄いけど、伸び方が嫌や。誰かが能力持ちを探してる。集めるためか、売るためか、知らんけど」
売る。
その言葉に、敦の腹の奥が冷えた。
黒玻璃堂は、人を観客にしようとした。
今度は、能力者を探している。
登録でも保護でもない。
もっと嫌な目的で。
橘が短く言う。
「特殊事案係として調査します」
鳴瀬は笑った。
「ほら、始まった」
敦は鳴瀬を見る。
「始まる前に、飯食べましょう」
「何でそこに戻るん」
「腹減ってると、悪い方に考えるんで」
鳴瀬は一瞬、呆れた顔をした。
それから、小さく笑った。
本当に小さい笑いだった。
「白いでかい人、変やな」
「よく言われます」
「ほんまに言われてそう」
商店街の弁当屋は、まだ開いていた。
油の匂いがする。
揚げ物の音がする。
普通の夕方が、少しずつ戻っている。
敦は青い看板をもう一度見た。
針はもう伸びていない。
だが、黒い箱は証拠として残り、接続先も一つ見えた。
完全な勝ちではない。
けれど、誰も席には座らされなかった。
誰も針に引かれなかった。
鳴瀬も、逃げずに飯へ向かっている。
それなら、今日のところは十分だ。
敦はポケットの中のレシートを指で確かめた。
《北側アーケード 青い看板 夕方に鳴る》
その言葉は、もうただの予告ではない。
新しい道の入口になっていた。




